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村田春海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村田 春海
画・谷文晁(『近世名家肖像』より)
人物情報
生誕 延享3年??月??日(1746年????日)
日本の旗 日本
死没 文化8年2月13日1811年3月7日
日本の旗 日本
学問
時代 江戸時代中期~後期
活動地域 江戸
学派 江戸派
研究分野 国学
主要な作品 『琴後集』
『錦織詩草』
『古言梯再考増補標註』など
影響を受けた人物 服部白賁
賀茂真淵
影響を与えた人物 清水浜臣
小山田与清
本間游清
山田常典など
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村田 春海(むらた はるみ、延享3年(1746年) - 文化8年2月13日1811年3月7日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者歌人。本姓は平氏通称は平四郎。は士観(さちまろ)。は織錦斎(にしごりのや)・琴後翁(ことじりのおきな)。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとり[1]

略歴

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江戸干鰯問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周養子となった。のち本家の干鰯問屋を相続したが、その生活は豪奢なもので十八大通の一人にも挙げられた。その結果、家産を傾け隠居後は風雅をともにした。漢籍服部白賁に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。

一橋徳川家の家臣信夫道別の仲介で渡辺多勢子を養女に迎えた。村田家は春海の死後、多勢子が継いだ。

晩年は八丁堀地蔵橋に住み、隣家の住人は斎藤十郎兵衛だったとされている[2]

業績

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春海は国語研究の中でも特に仮名遣いに造詣が深く[3]、『新撰字鏡』を発見・紹介している[4]。また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり、本居宣長のように儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。

門下に清水浜臣小山田与清本間游清、小林歌城(松尾多勢子三田葆光らの師)などがいる。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価している。

人物

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歌文の才能はもとより、書もすばらしい反面「人の悪口はより旨し」などと言うほど傲慢で不遜な一面があったという[3]

著書

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歌文集『琴後集』、漢詩集『錦織詩草』などがある。

その他の著書

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  • 『歌苑古題類抄』20巻
  • 『歌語』『かさねの色合』『古人贈答歌抄』『五十音辨誤』『字合称呼考』『字鏡考證』『字説辨誤』『天字讀方考』
  • 『仙語記』『西土国習考』『斉明記童謡考後按』『神道志』『明道書』
  • 『筆のさが』『わかかづら』『椿太詣記』『錦織雑記』『不問語』『作文通弊』
  • 『和学大概』『古言梯再考増補標註』『歌がたり』『竺志(つくし)船物語』

作品注解

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参考文献

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  • 清宮秀堅『古学小伝』玉山堂、1886年。
  • 中野虎三 編『国學三遷史』吉川半七、1897年。
  • 上田萬年芳賀矢一校閲:大川茂雄・南茂樹編『国学者伝記集成』大日本圖書、1904年。
  • 関根正直『史話俗談』誠文堂書店、1921年。
  • 関根正直『随筆雑話 からすかご』六合館、1927年。
  • 関隆治 編『国学者著述綜覧』森北書店、1943年。
  • 丸山季夫『泊洦舎年譜』私家版、1964年。

関連文献

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  • 田中康二『村田春海の研究[注釈 1]汲古書院 2000年。ISBN 4762934321
  • 田中康二『江戸派の研究』汲古書院、2010年。ISBN 9784762935732
  • 内野吾郎『文芸学史の方法:国学史の再検討』桜楓社、1974年。
  • 内野吾郎『江戸派国学論考』創林社、1979年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 本書で「源語提要」を春海著としているが、実際は五井蘭洲の著とされる[5]

出典

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  1. ^ 三枝康高賀茂真淵吉川弘文館人物叢書〉、1962年
  2. ^ 中野三敏「諸家人名 江戸方角分」考
  3. ^ a b 吉見孝夫「解説」『仮字大意抄・仮字拾要』勉誠社〈勉誠社文庫53〉、1978年
  4. ^ 林義雄「解説」『古言梯』勉誠社〈勉誠社文庫58〉、1979年
  5. ^ 小谷野敦『源語提要』の著者について:五井蘭洲と村田春海」『文芸研究:明治大学文学部紀要』第90号、2003年、87-92頁。 

関連項目

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外部リンク

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  • 椿まうでの記春海が伊勢白子の里より鈴鹿椿の大社へ詣でたときの紀行文(奈良女子大学学術情報センター)