古川為三郎
生誕 |
1890年1月18日 愛知県中島郡萩原村(現:一宮市) |
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死没 | 1993年5月19日(103歳没) |
墓地 | 名古屋市の覚王山日泰寺 |
住居 | 愛知県名古屋市 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 実業家 |
団体 | ヘラルドグループ |
活動拠点 | 愛知県 |
配偶者 | 古川志ま(妻) |
子供 | 古川勝巳(日本ヘラルド映画創業者) |
親戚 |
古川為之 古川博三 |
古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体:古川 爲三郞、1890年(明治23年)1月18日 - 1993年(平成5年)5月19日)は、ヘラルドグループの創業者。愛知県中島郡萩原村(現一宮市)出身。古為(フルタメ)の愛称で親しまれた。
来歴・人物
[編集]名古屋市の宝石店で奉公した後、独立。映画館「太陽館」を開業。30歳の時、急性肺炎で死亡宣告を受けたが、火葬場に運ばれる途中に息を吹き返し、すんでのところで生還したという。
1956年(昭和31年)には日本ヘラルド映画(のちの角川ヘラルド・ピクチャーズ)を創業し、一代で同社を日本を代表する映画配給会社へと育て上げた。また、映画事業のほかにも手広く事業を行い、約30社からなるヘラルドグループ(「古川グループ」とも呼ばれる)を築きあげた。
1988年(昭和63年)にアメリカの雑誌『フォーチュン』がバブル景気当時の日本人資産家を取り上げた記事で、「世界最高齢の富豪」("the world's oldest billionaire")として言及される[1]。1兆円以上の資産を有していたとされる。
1991年(平成3年)に自らが所蔵していた美術品を寄付し古川美術館を設立。初代館長を務めた。
100歳を過ぎても日本ヘラルド映画名誉会長として業務にあたり、生涯現役を貫いた。「実業家」と呼ばれることを嫌い、「わしゃ、商店主じゃ。」と言うのが口癖だった。
没後の2007年(平成19年)には、死去するまで住居とした邸宅が、古川美術館分館の為三郎記念館として公開された[2]。
寄付
[編集]慈善事業に力を尽くし、1964年(昭和39年)に名古屋大学附属図書館建設に際し、2億円を寄付。大学はこの功績から図書館を「古川図書館」と命名した。この建物は、新図書館の竣工に伴い1981年(昭和56年)に古川総合研究資料館と改称され、2004年(平成16年)には古川記念館と改称された。現在、この建物には名古屋大学博物館が置かれている。
1989年(平成元年)の世界デザイン博覧会の日本開催に際し、ポケットマネーから3億円を拠出し、名古屋市に寄付した。
仏教界への貢献
[編集]熱心な仏教徒であり、1950年代に名古屋市の日泰寺の管長の勧めで世界平和観音会を設立。全世界に観音菩薩の教えを広げようという趣旨で中国やインドなど約30カ国に観音像の寄贈を行ってきた。1975年には34体目の観音像をフィリピンへ寄贈し満願を達成した。1970年代後半には日泰寺と總持寺(横浜市)の信徒総代を務めたほか、観音の総本山として熱海市姫の沢公園に金閣寺を建設しようとした[3]が、こちらは達成されなかった。
家族
[編集]- 古川勝巳(長男・初代日本ヘラルド映画代表取締役社長) - 為三郎よりも早世した(1986年没)
- 古川為之(次孫(勝巳の息子)・ヘラルドコーポレーション代表取締役会長)
- 古川博三(三孫(勝巳の息子)・日本ヘラルド映画3代目代表取締役社長)
脚注
[編集]- ^ Alan Farnham (1988年9月12日). “THE ASIANS The Japanese are getting richer and spending their money in a big way. The Chinese are tighter-lipped and more secretive than ever.”. Fortune 2017年2月18日閲覧。
- ^ “文化財でいただくお抹茶は格別。名古屋で“和”を感じるくつろぎ時間”. ライブドアニュース (2019年2月14日). 2021年12月9日閲覧。
- ^ 熱海にそっくり金閣寺 資産家が22億投入『朝日新聞』1978年(昭和53年)2月23日夕刊、3版、11面
出典・参考文献
[編集]- 佐藤忠男『日本の映画人―日本映画の創始者たち』日外アソシエーツ、2007年6月、527頁。ISBN 4816920358。
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、古川為三郎に関するカテゴリがあります。