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友田文次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日元治2年4月6日[1]) - 1932年昭和7年)9月17日[2])は、日本の農業経営者実業家政治家衆議院議員

経歴

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安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる[1][3][4]広島漢学を、大阪法律学を学んだ[1][3]。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた[1][3]

父の事業で財産を失ったことから、1891年北海道移住を計画[4]。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍[4]。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航[4]。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した[4]

1891年8月、永山外二ヶ村戸長役場筆生に就任[4]1893年6月、旭川村外三村戸長役場へ転じ、1894年4月に退任して土木請負業、土地家屋賃貸業を営む[1][3][4]。以後、上川農会副会長、同常議員、旭川教育会理事、北海道会議員、同副議長、旭川町会議員、同議長代理者、旭川区会議員、所得調査委員、所得審査委員、旭川区外五郡連合地主会長、旭川区地主会長などを歴任[2]1918年11月、札幌製飴 (株) 社長に就任した[4]

1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第四区から出馬し当選した井内歓二1921年5月に病のため死去し[5]、同年6月27日の補欠選挙に出馬して当選し[1][6]、衆議院議員を一期務めた[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『旭川市功労者伝』27-29頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』432頁。
  3. ^ a b c d 『北海道人名辞書』第二版、298-299頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『故郷の五十年』123-131頁。
  5. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』32頁。
  6. ^ 『官報』第2697号、大正10年7月27日。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山崎有信『旭川市功労者伝』日本書院、1940年。
  • 金子信尚編『北海道人名辞書』第二版、北海民論社、1923年。
  • 名田富太郎編『故郷の五十年』名田富太郎、1920年。