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厚母元総

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
厚母元総
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正20年8月17日1592年9月22日
別名 通称:又次郎→七郎兵衛
戒名 珠岸宗玉
主君 毛利輝元
氏族 大江姓毛利氏厚母氏
父母 父:厚母元員、母:毛利元種の娘
兄弟 元総、女(田原氏室)
山田石見守の娘
元知、女(村上氏室)
養子:頓野就忠頓野就房
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厚母 元総(あつも もとふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。父は厚母元員安芸国戦国大名毛利元就の同族。

出自

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毛利元春の次男である毛利元房を祖とし、元房の子・元光の代から大内氏の麾下に属して、長門国豊西郡厚母郷[1]などに所領を与えられた。元光以降は元秀元貞元種元員、元総と系譜が続く。

生涯

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毛利氏家臣である厚母元員の子として生まれる。

永禄11年(1568年2月12日毛利輝元加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元総」と名乗った。

天正14年(1586年4月6日、祖父・元種譲状の旨に従って、輝元より父・元員と連名で長門国豊西郡厚母郷[1]100石の内の70石、長門国美祢郡於福郷上田代村[2]10石、厚母郷内の国衙の諸名田中の名主職などを安堵される。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役に従軍し朝鮮へ渡海したが、同年8月17日に戦死した。元総の戦死により、幼少の嫡男・元知が後を継いだが、幼少であることを理由に所領を輝元に没収された。

また、かつて祖父・元種が毛利元就隆元父子に自家の系図を献上する代わりに与えられた、裏書に元就と隆元の署名のある系図の写しが、元総の戦死の際に紛失している。

脚注

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  1. ^ a b 現在の山口県下関市豊浦町大字厚母郷
  2. ^ 現在の山口県美祢市於福町上上田代。

参考文献

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