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南部馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南部馬
御料馬金華山
原産地 南部地方
この品種は現存していません
ウマ (Equus ferus caballus)
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南部馬(なんぶうま)は、南部地方で飼育されていた日本在来馬の絶滅した品種である。

歴史

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7世紀に朝廷が各地で馬産を行うを整備。奈良時代の初め頃には糠部郡南部地方)は馬産地として朝廷に認知されていた[1]。平安時代に入ると朝廷は重要性を認めて産馬の持ち出しを禁じた[2]武士の台頭と共に名馬の産地としてその名が広まった[1]

日本在来馬は体格が小さいものが多かったが、糠部郡の馬は古代から重厚な体格が有名で、駿馬が多く当時の武士にとっては最高の銘柄であった[1][3]。貴重な馬であったため権力者も注目しており、源頼朝は馬産に精通していた臣下の南部光行甲斐から糠部に入部させた。この南部を始祖とする南部氏が長らく南部地方を統治することとなった[1]。甲斐から導入した馬と交配させて馬匹改良を行い、牧野整備を進めて大型の南部馬を作り上げた[3]

江戸時代になると南部氏が治める盛岡藩は、領内の9カ所に南部九牧と呼ばれる藩営牧場を設置[1][4]。牧内には数頭の種牡馬と多数の繁殖牝馬が繋養されていた。生まれた仔馬は2歳になると吟味されて売買され、良馬は藩が優先的に引き取って調教。藩主の馬や神馬となったり、幕府や大名に献上される馬もいた[1]

また、江戸時代のような戦乱のない時は軍馬として活用できないが、南部馬の頑強さを活かして農耕馬として流通された[1]

明治以降も日本の近代化の過程で馬の重要性が増したことにより馬産は継続された。農耕馬の需要が増加し、輸送手段として馬車の利用も進んだ。更に戦争における騎兵戦や兵站輸送に馬が欠かせないことから軍馬の生産は国策となり、南部地方は軍馬の一大供給源となった[1]

しかし、軍馬の品種改良のためサラブレッドアラブ種などと交配させたため、純血種は絶滅してしまった[1]

特徴

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体高は平均145.4cmと当時の日本の馬としては大柄であった[注 1][5]。また、乗馬向きと駄馬向きの2種類が存在した[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 江戸時代の馬の体高は127〜130cm程であった。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 南部馬は諸大名が財を投じて求めた名馬!古代から続いた青森県の馬産の歴史とは”. まっぷるトラベルガイド. pp. 1-2 (2022年7月28日). 2024年8月10日閲覧。
  2. ^ 馬産の歴史を学ぶ”. aba.main.jp. 2024年8月10日閲覧。
  3. ^ a b 馬と人 » 1885年(明治18年) 富国強兵策と最後の南部馬”. 2024年8月10日閲覧。
  4. ^ 青森歴史街道探訪|津軽と南部の歴史”. aomori-kaido.com. 2024年8月10日閲覧。
  5. ^ 馬と人 » 馬と人 ー物語のかけらを探してー”. 2024年8月10日閲覧。
  6. ^ 十和田市と馬の歴史について④” (2019年1月22日). 2024年8月10日閲覧。

関連項目

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