千早号
千早号 | |
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基本情報 | |
建造所 | (スコットランド・アラワ[1]) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 運送船[2](風帆運送船[3]) |
艦歴 | |
進水 | 1875年2月[4] |
就役 | 1875年12月20日購入[5] |
その後 | 1877年4月24日工部省に交付[6] |
改名 | ホルモサ号 → 千早号[1] |
要目 | |
トン数 | 443.61トン[1] |
長さ |
149尺18[1](45.21m) または148 ft (45.11 m)[7] |
幅 |
28尺5[1](8.64m) または28.25 ft (8.61 m)[7] |
深さ |
14尺95[1](4.53m) または14+5⁄6 ft (4.52 m)[7][注釈 1] |
吃水 | 前部13尺5寸(4.09m)、後部14尺(4.24m)[7] |
帆装 | 3檣バーク型[1] |
乗員 | 1875年:22名[1] |
兵装 | 無し(小銃6挺、拳銃2挺のみ[8]) |
搭載艇 | 1877年時:3隻[9] |
その他 |
船材:木[1](松[7]) 甲板1層(ただし船首、船尾甲板有り)[7] 番号:26[10] |
艦名は千早城による[2]。 和歌の枕詞に「ちはやぶる」があり、その語源は「いちはやふる」(勢いが強く勇猛なこと)で、この語源も艦名の由来と思われる[11]。 日本海軍の艦名(千早)としては初代[2]。
艦型
[編集]3檣バーク型[1] の木造帆船[12]。 要目表の値は主に『記録材料・海軍省報告書第一』に記載の明治8年艦船総数表による[1]。 その他の文献にある要目は以下の通り。
- 『日本海軍艦船名考』:排水量443英トン[2]
- 『近世帝国海軍史要』:排水量443英トン[13]
- 『日本近世造船史 明治時代』:長さ149 ft (45.42 m)、幅28 ft (8.53 m)[12]
艦歴
[編集]元はスコットランド・マラワで1875年(明治8年)2月に進水した木造のイギリス帆船FORMOSA[4] (ホルモサ号[1])。 FORMOSAは台湾の意味になる[11]。 同年12月20日に同船を日本海軍が購入し千早(千早号[1])と改名した[5][14] 。 購入費用は船代が洋銀37,166ドル94セント、回航費雑費が同19,701ドル57セントで合計56,868ドル51セントだった[15]。 同日船位は六等、運送船と定められ、東部指揮官所轄となった[5]。
1876年(明治9年)1月13日、番号は26と定められた[10]。 千早号は同年5月6日午前7時に品海を出港し、13日に豊前田ノ浦(現北九州市門司区田野浦)へ到着した[16]。 同地で石炭を搭載して28日午前10時出港、6月6日午前10時に七尾に到着した[16]。 ここで石炭を降ろし、旧七尾造船所の機械類を積み込んで7月24日午前5時出港、同月29日函館に到着した[16]。 函館では荷物の保管場所が決まっておらず、機械類の陸揚げは8月20日に開始、10月1日終了した[16]。 千早号は10月9日函館を出港、11日に犬吠埼沖で暴風雨に襲われ帆の一部が破られるなどの被害があったが、船内に被害は無かった[16]。 船は網代沖まで流されたが、10月13日午後3時10分に無事横浜港に着港した[16]。
次いで千早号は乾行の機械類を積み込んで同年11月21日午前10時に品海を出港、12月2日午前8時に鹿児島に着船した[17]。 同地で機械類を鹿児島造船所に陸揚げし、翌1877年(明治10年)1月7日午前8時45分に同地を出港した[17]。 羽田灯台沖で凪となって到着が遅れたが、1月14日午前8時に品海へ帰着した[17]。 品海で兵器局の弾丸などを陸揚げし、1月28日品海発[18]、 横須賀港に翌29日到着した。 同日に横須賀造船所の小船渠に入渠し修理を行った[19]。 2月2日に出渠[20]、 千早号は前年5月から各地への航海が続いていたため、乗員には2月6日から1週間の休暇が与えられた[21]。 その後修理取り止めの命令があり、2月16日午前11時に横須賀を出港、2月17日午前6時30分に横浜港へ着港した[22]。
千早 | |
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基本情報 | |
運用者 | 鉱山局 |
母港 | 口之津 |
要目 (1885年12月31日時) | |
トン数 | 登簿噸数:441トン |
総トン数 | 464トン |
長さ | 149 ft (45.42 m) |
幅 | 22 ft (6.71 m) |
深さ | 14 ft (4.27 m)[注釈 1] |
その他 |
本船番号:101 信号符字:HBVC |
1887年(明治20年)1月の船名録による[23] |
これに先立つ同年1月頃、海軍省は工部省所轄のテーボル号の譲渡を要望し、その代船は千早号、肇敏丸、快風丸、石川丸の何れかと提示していた[24]。 3月5日に千早号を工部省員が検分し[25]、 4月5日に工部省は千早号が需要に合うと返答[26]、 4月21日に工部省へ引き渡すよう布達が出され[3]、 4月24日に千早号は工部省へ交付された[6]。 その後1887年(明治20年)まで三池鉱山局で使用された[4]。
千早 | |
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基本情報 | |
運用者 | 覇城会社 |
母港 | 長崎 |
要目 (1887年12月31日時) | |
トン数 | 登簿噸数:432トン |
総トン数 | 460トン |
長さ | 144 ft (43.89 m) |
幅 | 26 ft (7.92 m) |
深さ | 14 ft (4.27 m)[注釈 1] |
その他 |
本船番号:101 信号符字:HBVC |
1889年(明治22年)3月の船名録による[27] |
1887年(明治20年)12月31日時点では
船長
[編集]- ホルモサ号
- (船長心得)石田鼎三 生徒:1875年10月29日[28] -
- 千早号(日本海軍時)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m #M1-M9海軍省報告書画像74-75、明治八年艦船総数表
- ^ a b c d e #浅井(1928)pp.38-39、千早 ちはや Tihaya.
- ^ a b #M10布達/5月画像1、明治10年4月21日丙第59号。「当省所轄風帆運送船千早號之儀都合有之今般工部省ヘ引渡候條此段為心得相達候事」
- ^ a b c d 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32、千早号(初代)『ちはやごう』
- ^ a b c d e #M1-M9海軍省報告書画像72-73、明治8年12月。
- ^ a b #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像26-29、明治10年4月
- ^ a b c d e f #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像25-26、千早号受取之証
- ^ #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像31
- ^ #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像57
- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像76-77、明治9年1月。
- ^ a b #片桐(2014)pp.214-215、千早(ちはや)
- ^ a b #造船史明治(1973)p.500
- ^ #近世帝国海軍史要(1974)p.885
- ^ #海軍制度沿革巻八p.391、「明治八年十二月二十日(記三套一六一)|明治十年四月丙五九號工部省轉管|今般英国帆船ホルモサ號當省ニ買入候條此旨為心得逢達候事|ホルモサ號|自今(
千 早 )ト改號船位六等ニ被定候事」 - ^ #M10公文類纂後編16/千早号の原価の件画像9
- ^ a b c d e f #M9公文類纂11/七尾旧造船所諸機械等函館港へ運漕陸揚画像19-21、明治9年10月13日付航海報告
- ^ a b c #M10公文類纂前11/千早号品海帰着画像1
- ^ #M10公文類纂前11/千早号品海帰着画像5、品海抜錨横須賀江向ケ出帆御届
- ^ #M10公文類纂前編12/千早号入湾及入渠画像1
- ^ #M10公文類纂前編12/千早号入湾及入渠画像5
- ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
- ^ #M10公文類纂前編12/千早号入湾及入渠画像7
- ^ #M20公文類聚33/船名録画像6
- ^ #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像1
- ^ #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像3
- ^ #M10公文類纂前編13/テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件画像5
- ^ a b #M22公文類聚44/船名録画像6
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。(国立公文書館)
- 『記録材料・海軍省報告書/第一 沿革』。Ref.A07062089300。(国立公文書館)
- 『公文類纂 明治9年 巻11 本省公文 艦船部/内乾331 七尾旧造船所諸機械等函館港へ運漕陸揚の件主船局届』。Ref.C09112170500。
- 『公文類纂 明治10年 前編 巻11 本省公文 艦船部1/往入100 千早号品海帰着の件東海鎮守府届』。Ref.C09112317400。
- 『公文類纂 明治10年 前編 巻12 本省公文 艦船部2/往入232 千早号入湾及入渠の件横須賀造船所届』。Ref.C09112325000。
- 『公文類纂 明治10年 前編 巻13 本省公文 艦船部3/往出59 テーボル船譲渡に付風帆船引渡の件工部省へ照会』。Ref.C09112327400。
- 『公文類纂 明治10年 後編 巻16 本省公文 艦船部/往入2164 千早号の原価の件 東海鎮守府上申』。Ref.C09112535300。
- 『明治10年 海軍省布達全書/5月』。Ref.C12070002600。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
関連項目
[編集]- 千早 (通報艦) [II]
- 秋津洲 (水上機母艦) (同型艦千早[III]、未成)
- 大日本帝国海軍艦艇一覧