十河正博
個人情報 | |||
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誕生日 | 1949年10月15日 | ||
出身地 |
日本 栃木県 | ||
死没日 | 2014年3月24日 (64歳没) | ||
死没地 |
日本 栃木県宇都宮市 | ||
他職業 | 高等学校教諭(体育) | ||
国内 | |||
年 | リーグ | 役割 | |
1992-1994 | Jリーグ | 審判員 | |
国際 | |||
年 | リーグ | 役割 | |
1986-1994 | FIFA登録 | 審判員 |
十河 正博(そがわ まさひろ、1949年10月15日 - 2014年3月24日)は、栃木県出身のサッカー審判員。元FIFA(国際サッカー連盟)国際審判員。
来歴
[編集]栃木県立壬生高等学校から仙台大学に進み、卒業後に栃木に戻って県立学校の保健体育の教諭となり、日光高校(現・日光明峰高校)、宇都宮南高校、宇都宮北高校などで教鞭を執る傍ら、サッカー部監督としても指導に当たった[1]。その一方で、栃木教員サッカークラブ(現在の栃木SCの前身)で選手としてもプレーし、1980年の第35回国民体育大会(栃の葉国体)では成年男子の部の栃木県チーム主将として地元開催大会での優勝に貢献した[1]。
選手・指導者としてサッカーと関わる一方でサッカー審判員の道を志し、1979年に日本サッカー協会 (JFA) の1級審判員の資格を取得[1]。1986年からはFIFAの国際審判員としても活動した。日本国内では日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の発足時から主審として携わり、プレ大会として行われた'92 Jリーグヤマザキナビスコカップの決勝・ヴェルディ川崎vs清水エスパルス(1992年11月23日・国立霞ヶ丘競技場)で主審を務めた[2] ほか、Jリーグ開幕節の鹿島アントラーズvs名古屋グランパスエイト(1993年5月16日・茨城県立カシマサッカースタジアム)の主審も務めた[3]。
2010年2月、還暦を迎えたのを機に栃木県高等学校サッカー新人大会の決勝戦を持って審判員を引退。審判員の晩年にはJリーグのマッチコミッショナーを務めていた[4]。
2014年3月24日、病気のため逝去。享年64歳[1]。3月30日のJ2第5節・栃木SCvsジュビロ磐田戦(栃木県グリーンスタジアム)の前に黙祷が捧げられた[5]。
エピソード
[編集]- Jリーグで審判を務める相樂亨・高山啓義は宇都宮北高校時代の教え子。特に相樂には「お前は副審になれ」「若い副審が足りない」「お前は副審に向いてる」と、副審の道を目指すことを強く勧めた[6]。
- 晩年は栃木県サッカー協会で審判委員長を務めた[1]。現在も、その年に最も栃⽊県のサッカー審判界に貢献した人物に贈られる「十河正博賞」にその名前を遺している[7]。
出典
[編集]- ^ a b c d e “十河正博さんが死去 元サッカー国際審判員、「栃の葉」V主将”. 下野新聞. (2014年3月26日). オリジナルの2014年3月27日時点におけるアーカイブ。 2019年5月9日閲覧。
- ^ “公式記録 '92 Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 決勝”. J.LEAGUE Data Site. 2019年5月9日閲覧。
- ^ “公式記録 '93 Jリーグサントリーシリーズ 第1節第2日 鹿島アントラーズvs名古屋グランパスエイト”. J.LEAGUE Data Site. 2019年5月9日閲覧。
- ^ 2009年度 JFAマッチコミッショナー 認定者一覧 (2009年2月1日付) (PDF) - 日本サッカー協会、2019年5月9日閲覧。
- ^ 『十河正博様追悼式(黙祷のお願い)』(プレスリリース)栃木SC、2014年3月29日 。2019年5月9日閲覧。
- ^ “忘れられない痛恨の誤審……W杯を経験した副審・相樂亨が試合後に意を決してとった行動とは”. ぐるなび みんなのごはん (2019年5月9日). 2019年5月10日閲覧。
- ^ “本校教員が(公社)栃木県サッカー協会より「十河正博賞」を授与されました。”. 小山工業高等専門学校 (2018年12月25日). 2019年5月10日閲覧。