北畠具行
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北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。
経歴
[編集]北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌2年(1332年)、京極高氏(佐々木道誉)により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された。
「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に1か月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。6月18日夜、2人はしばらく談笑し、翌19日具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる。[1]
「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」[2]
墓所として、米原市柏原に貞和3年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
官歴
[編集]※日付=旧暦
- 年月日不詳、従五位下に叙位。
- 1301年(正安3)、3月14日、右馬頭に任官。10月24日、従五位上に昇叙し、右馬頭如元。
- 1302年(正安4)、3月22日、右馬頭を止む。4月17日、左近衛少将に任官。
- 1306年(嘉元4)、1月5日、正五位下に昇叙し、左近衛少将を去る。
- 1310年(延慶3)、1月5日、従四位下に昇叙。
- 1314年(正和3)、4月12日、左近衛少将に任官。8月11日、従四位上に昇叙し、左近衛少将如元。
- 1316年(正和5)、閏10月19日、左近衛少将を辞任。
- 1318年(文保2)、3月12日、右近衛中将に任官。11月21日、正四位下に昇叙し、右近衛中将如元。
- 1319年(文保3)、某月9日、美作介を兼任。同年改元して元応元年8月9日、左近衛中将に遷任。
- 1320年(元応2)、12月29日、少納言を兼任。
- 1321年(元亨元)、8月13日、右衛門佐を兼任。
- 1322年(元亨2)、5月23日、左衛門佐に遷任。少納言如元。12月29日、少納言を辞任。
- 1323年(元亨3)、1月13日、右馬頭に遷任。左衛門佐を去る。3月29日、少納言を兼任。
- 1324年(正中元)、1月13日、摂津権守を兼任。9月2日、蔵人頭に補任。 月日不詳、右馬頭を辞任。
- 1325年(正中2)、1月19日、左近衛中将を兼任。少納言を去る。9月9日、少納言を兼任。
- 1326年(正中3)、2月19日、参議に補任。摂津権守如元。11月4日、従三位に昇叙し、参議を辞す。 月日不詳、摂津権守を去り、伊予権守を兼任。11月27日、参議に補任。
- 1329年(正中4)、1月5日、正三位に昇叙し、参議如元。1月13日、侍従と山城権守を兼任。
- 1330年(元徳2)、8月4日、権中納言に転任。
- 1331年(元徳3)、1月5日、従二位に昇叙し、権中納言如元。月日不詳、権中納言を辞任。
- 1332年(正慶元/元弘2)、6月19日、斬首。享年43。墓所は滋賀県米原市清滝の徳源院。
- 1915年(大正4年)、11月10日、正二位贈位。
脚注
[編集]- ^ ただし、「増鏡」の作者による京極高氏贔屓の創作とする説もある。
- ^ 「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」