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北島義彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北島義彦
きたじま よしひこ
生年月日 1910年5月30日
出生地 日本の旗 日本 佐賀県小城郡小城町
(現・佐賀県小城市
没年月日 (1959-01-07) 1959年1月7日(48歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都大田区
出身校 日本大学卒業
所属政党民主党→)
国民民主党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 正六位
勲五等

選挙区王子区選挙区→)
北区選挙区
当選回数 4回
在任期間 1943年 - 1959年1月7日

東京府会議員
当選回数 1回
在任期間 1943年3月 - 1943年
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北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年明治43年〉5月30日[1][2] - 1959年昭和34年〉1月7日[2][3])は、日本の政治家。元自由民主党都議会議員[3]1964年東京オリンピック大会招致実行委員長。位階正六位[2]勲等は勲五等[2]

人物

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佐賀県小城郡小城町(現・小城市)生まれ[2]日本大学卒業[4][5]。会社顧問[4]北区立赤羽小学校PTA会長などを歴任した[6]1943年(昭和18年)3月に東京府会議員となった[2]。同年9月の東京都議会議員選挙に当時の王子区から立候補して初当選を果たした[7]。柔道5段。

戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙東京1区から立候補したが落選した[8]。落選後は翌1947年(昭和22年)から北区選挙区から民主党公認で都議に当選した[9][10]。1951年(昭和26年)は国民民主党公認で当選した[10]1955年(昭和30年)に日本民主党公認で4選を果たした[5][11]

日本プロレスの父」といわれた八田一朗とともに、1964年東京オリンピック招致に奔走し中南米票の獲得に尽力したが、その途上、胃癌を発病しサンパウロから急遽帰国。羽田空港着陸時に死去した[12][注釈 1]

三段跳びの大島鎌吉、競泳の古橋広之進らと交友があった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『朝日新聞』1959年1月7日夕刊5面の死亡記事には死因を「胃カイヨウ」と記載[3]

出典

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  1. ^ 『産経日本紳士年鑑 第1版』産経新聞年鑑局、1958年、か行139頁
  2. ^ a b c d e f 東京都議会史 第4巻下 626コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b c 『朝日新聞』1959年1月7日夕刊5面。
  4. ^ a b 『朝日新聞』1955年4月22日夕刊3面、「都議会議員候補者一覧」。
  5. ^ a b 新都政の展望 : 東京都全議員・首長銘鑑 22コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 『朝日新聞』1943年9月15日朝刊2面、「当選者氏名」。
  7. ^ 都政週報 (12) 4コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』141頁。
  9. ^ 東京都議会史 第2巻上 32コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  10. ^ a b 都民と都政の歩み : 東京20年 716コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  11. ^ 都民と都政の歩み : 東京20年 717コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  12. ^ 第18回オリンピック競技大会東京都報告書 123コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 『朝日新聞』縮刷版 1955年4月号、朝日新聞社。
  • 『朝日新聞』縮刷版 1959年1月号、朝日新聞社。