北原昇
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1917年 |
没年月日 | 没年不明 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1941年 |
最終出場 | 1942年8月5日[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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北原 昇(きたはら のぼる、1917年[2] - 没年不明)は、長野県[3]出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手[4]。
来歴・人物
[編集]松本商業(現・松商学園高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(春1回〔1933年〕、夏1回〔1935年〕)。1933年春の大会では、遊撃手として出場し、優秀選手賞を獲得[4]。立教大学進学後も強打者として鳴らし、山本一人(後に南海でチームメイトになる)のライバルとして有名だった。立大卒業後は、ノンプロの台湾実業団を経て、1941年に南海軍に入団[3]。
南海入団後も打棒は衰えず、長打力のある打者として活躍。入団年の1941年こそ国久松一や猪子利男の控えに甘んじたが、シーズン終盤の10月から14試合に出場し、打率.333をマーク。戦争による用具の悪化により、この年のリーグ全体の打率が.201、特に南海は貧打線として知られチーム打率が.195しかなかったことを考えると驚異的な成績だった事が分かる。翌1942年に国久が左翼手、猪子が遊撃手に回った事により、二塁手のレギュラーを獲得。4番を打っていた岩本義行の前を打つ3番打者として、勝負強い打撃でチームに貢献した。特に選球眼に優れており、四球が三振より圧倒的に多かった。また、「苅田久徳以来の名二塁手」として評価された守備の名手でもあった。
しかし、実は南海入団前に結核を患っていた。その為、マスクを付けて球場入りする事もあったという(ちなみに、チームメイトのエース・神田武夫にも同様のエピソードがある)。1942年8月5日の朝日戦を最後にプロ野球出場は途絶え、その後応召。戦地で持病の結核を悪化させ、戦病死した[3](正確な没年月日、死没場所は不明)。20代中盤の短い生涯だった。
東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1941 | 南海 | 14 | 59 | 51 | 6 | 17 | 3 | 0 | 1 | 23 | 7 | 0 | -- | 2 | -- | 6 | -- | 0 | 1 | -- | .333 | .404 | .451 | .855 |
1942 | 65 | 281 | 241 | 24 | 60 | 6 | 1 | 1 | 71 | 24 | 14 | 7 | 6 | -- | 30 | -- | 4 | 4 | -- | .249 | .342 | .295 | .637 | |
通算:2年 | 79 | 340 | 292 | 30 | 77 | 9 | 1 | 2 | 94 | 31 | 14 | 7 | 8 | -- | 36 | -- | 4 | 5 | -- | .264 | .352 | .322 | .674 |
背番号
[編集]- 16 (1941年 - 1942年)[5]
脚注
[編集]- ^ 1942年南海 スタメンアーカイブ
- ^ a b 野球殿堂博物館(鎮魂の碑)
- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、184ページ
- ^ a b 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)
- ^ 福岡ソフトバンクホークス 背番号16 - 背番号Maniax
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 北原昇 - NPB.jp 日本野球機構
- 北原 昇|クラシックSTATS鑑賞 南海013