加藤長家
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時代 | 幕末 |
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死没 | 1892年(明治25年)3月 |
改名 | 加藤条之助、長家 |
主君 | 中川久昭、久成 |
藩 | 豊後岡藩 |
氏族 | 加藤氏 |
加藤 長家(かとう ながいえ)は幕末の豊後岡藩士。勤王派として活動した。
生涯
[編集]幼名は条之助[1]。200石の家督を継いで吟味役となり、大坂藩邸に勤務し、後に先備組頭に進んだ[2]。
小河一敏・中川栖山・渡辺彦九郎・広瀬重武等と交わって勤王論を唱え、文久2年(1862年)春、藩庁に決起を主張したが、家老等には受け入れられなかった[2]。2月小河一敏等が薩摩国に行くと、自身は渡辺彦九郎と江戸へ向かった[2]。藩の佐幕派はこれを聞いて江戸藩邸に急報を送り、江戸から吉田肇・小原隼太が派遣され、遠江国で落ち合い帰藩を促されたが、これを振り切って藩邸に到着し、久昭に対して九州の情勢と大義名分論を説き、帰藩して決起を実行するよう訴えた[2]。
文久4年(1864年)4月久昭は帰国したものの、決起は実行されなかった[2]。小河一敏等のグループが寺田屋騒動で計画を果たせず帰国すると、長家も謹慎を命じられたが、間もなく解除された[2]。
慶応4年(1868年)先手物頭となり、町奉行兼勘定奉行を命じられた[2]。明治3年(1870年)3月参政に転じ、5月権大参事、9月東京詰公議人となり、30人扶持を給された[2]。明治4年(1871年)辞職し、中川久成家令となり、上京した[3]。その後辞職して帰郷し、1892年(明治25年)3月に死去した[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 直入郡教育会『直入郡志』直入郡教育会、1924年2月。NDLJP:972077/187。
外部リンク
[編集]- 「4月2日 覚〔中川修理大夫内発信〕」 アジア歴史資料センター Ref.C09080459400