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加藤長家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
加藤 長家
時代 幕末
死没 1892年明治25年)3月
改名 加藤条之助、長家
主君 中川久昭久成
豊後岡藩
氏族 加藤氏
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加藤 長家(かとう ながいえ)は幕末豊後岡藩士。勤王派として活動した。

生涯

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幼名は条之助[1]。200石の家督を継いで吟味役となり、大坂藩邸に勤務し、後に先組頭に進んだ[2]

小河一敏中川栖山渡辺彦九郎広瀬重武等と交わって勤王論を唱え、文久2年(1862年)春、藩庁に決起を主張したが、家老等には受け入れられなかった[2]。2月小河一敏等が薩摩国に行くと、自身は渡辺彦九郎と江戸へ向かった[2]。藩の佐幕派はこれを聞いて江戸藩邸に急報を送り、江戸から吉田肇・小原隼太が派遣され、遠江国で落ち合い帰藩を促されたが、これを振り切って藩邸に到着し、久昭に対して九州の情勢と大義名分論を説き、帰藩して決起を実行するよう訴えた[2]

文久4年(1864年)4月久昭は帰国したものの、決起は実行されなかった[2]。小河一敏等のグループが寺田屋騒動で計画を果たせず帰国すると、長家も謹慎を命じられたが、間もなく解除された[2]

慶応4年(1868年)先手物頭となり、町奉行勘定奉行を命じられた[2]明治3年(1870年)3月参政に転じ、5月権大参事、9月東京公議人となり、30人扶持を給された[2]。明治4年(1871年)辞職し、中川久成家令となり、上京した[3]。その後辞職して帰郷し、1892年(明治25年)3月に死去した[3]

脚注

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  1. ^ 直入郡教育会, p. 319.
  2. ^ a b c d e f g h 直入郡教育会, p. 320.
  3. ^ a b 直入郡教育会, p. 321.

参考文献

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外部リンク

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