加藤武司
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獲得メダル | ||
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1966年世界選手権 | ||
体操競技 | ||
オリンピック | ||
金 | 1968 メキシコシティー | 男子団体 |
銅 | 1968 メキシコシティー | 男子床 |
世界体操競技選手権 | ||
金 | 1966 ドルトムント | 男子団体 |
金 | 1970 リュブリャナ | 男子団体 |
銀 | 1966 ドルトムント | 男子跳馬 |
銅 | 1966 ドルトムント | 男子あん馬 |
銅 | 1970 リュブリャナ | 男子床 |
銅 | 1970 リュブリャナ | 男子跳馬 |
加藤 武司(かとう たけし、1942年〈昭和17年〉9月25日[1] - 1982年〈昭和57年〉7月24日[2])は、日本の体操競技選手。愛知県知多郡大高町(現・名古屋市緑区)出身[3]。1968年メキシコシティーオリンピック体操男子団体金メダリスト。妻は1964年東京オリンピック体操女子団体銅メダリストの加藤(旧姓・辻)宏子。早稲田大学卒業。
経歴
[編集]東京オリンピックは補欠で出場できず、翌年に早大(夜間課程)を卒業しソニーに嘱託社員扱いで入社。一般社員と同じように夕方まで勤務後、母校早大の体育館に通い練習していた。
1968年メキシコオリンピックの団体総合で金メダル、床で銅メダルを獲得し、夫婦メダリストとなった。他に個人総合5位、跳馬4位、平行棒4位、つり輪5位。
引退後、ソニーの正社員となったが、「男なら出世しなければならない。同僚に差をつけられてはダメだ。俺はオリンピックのせいで遅れている……」と妻に繰り返し、連日のように夜遅くまで働き、会社の定期健診で「胃がんの疑いがあり」といわれ入院[4]。再診の結果は胃潰瘍で、胃を3分の2ほど切除した。入院生活を終えた1982年3月、ソニー本社の勤労課長に就任。さらに、母校の早大体操部OB会に出席しコーチ就任を打診され、近い将来引き受けることを約束した。
しかし同年5月に再入院し悪質な直腸がんのため余命3か月の宣告を受け、医師の宣告よりも1か月早く7月24日に死去。39歳没。
妻の宏子は「新技を積極的に磨くのではなく、同じ技を繰り返し練習する。夫はそういう選手でした」と語っている[5]。
脚注
[編集]- ^ 佐藤友久; 森直幹 編『体操辞典』道和書院、1978年3月、44頁。NDLJP:12122817/28。
- ^ 中条一雄『危機に立つオリンピック』朝日新聞社、1984年7月、148-149頁。NDLJP:12138811/78。
- ^ 「スポーツ人国記」特別取材班 編『スポーツ人国記』日刊スポーツ新聞社、1977年9月、223頁。NDLJP:12141774/117。
- ^ “正社員になり昇進も 後進を育てる夢を叶えぬまま旅立った|東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2023年3月30日閲覧。
- ^ “体操団体金と種目別ゆか銅を獲得した「ソニーマン」の苦悩|東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2023年3月30日閲覧。