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加藤武司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得メダル

1966年世界選手権
体操競技
オリンピック
1968 メキシコシティー 男子団体
1968 メキシコシティー 男子床
世界体操競技選手権
1966 ドルトムント 男子団体
1970 リュブリャナ 男子団体
1966 ドルトムント 男子跳馬
1966 ドルトムント 男子あん馬
1970 リュブリャナ 男子床
1970 リュブリャナ 男子跳馬

加藤 武司(かとう たけし、1942年昭和17年〉9月25日[1] - 1982年〈昭和57年〉7月24日[2])は、日本体操競技選手。愛知県知多郡大高町(現・名古屋市緑区)出身[3]1968年メキシコシティーオリンピック体操男子団体金メダリスト。妻は1964年東京オリンピック体操女子団体銅メダリストの加藤(旧姓・辻)宏子早稲田大学卒業。

経歴

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東京オリンピックは補欠で出場できず、翌年に早大(夜間課程)を卒業しソニーに嘱託社員扱いで入社。一般社員と同じように夕方まで勤務後、母校早大の体育館に通い練習していた。

1968年メキシコオリンピックの団体総合で金メダル、床で銅メダルを獲得し、夫婦メダリストとなった。他に個人総合5位、跳馬4位、平行棒4位、つり輪5位。

引退後、ソニーの正社員となったが、「男なら出世しなければならない。同僚に差をつけられてはダメだ。俺はオリンピックのせいで遅れている……」と妻に繰り返し、連日のように夜遅くまで働き、会社の定期健診で「胃がんの疑いがあり」といわれ入院[4]。再診の結果は胃潰瘍で、胃を3分の2ほど切除した。入院生活を終えた1982年3月、ソニー本社の勤労課長に就任。さらに、母校の早大体操部OB会に出席しコーチ就任を打診され、近い将来引き受けることを約束した。

しかし同年5月に再入院し悪質な直腸がんのため余命3か月の宣告を受け、医師の宣告よりも1か月早く7月24日に死去。39歳没。

妻の宏子は「新技を積極的に磨くのではなく、同じ技を繰り返し練習する。夫はそういう選手でした」と語っている[5]

脚注

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  1. ^ 佐藤友久; 森直幹 編『体操辞典』道和書院、1978年3月、44頁。NDLJP:12122817/28 
  2. ^ 中条一雄『危機に立つオリンピック』朝日新聞社、1984年7月、148-149頁。NDLJP:12138811/78 
  3. ^ 「スポーツ人国記」特別取材班 編『スポーツ人国記』日刊スポーツ新聞社、1977年9月、223頁。NDLJP:12141774/117 
  4. ^ 正社員になり昇進も 後進を育てる夢を叶えぬまま旅立った|東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2023年3月30日閲覧。
  5. ^ 体操団体金と種目別ゆか銅を獲得した「ソニーマン」の苦悩|東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2023年3月30日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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