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加藤愛夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤 愛夫(かとう あいお(まなお)、1902年4月19日[1] - 1979年10月23日[2])は、北海道出身の詩人[3]、養鶏家。

略歴

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本名は加藤松一郎。1902年(明治35年)4月、北海道雨竜郡北竜村生まれ。真竜小学校を卒業後、1914年(大正3年)に早稲田実業学校へ進学する。

1916年(大正5年)に帰郷。1921年(大正10年)、詩人の生田春月に師事し、春月主宰の同人誌「文芸通報」をはじめ、各種の詩誌に掲載されるようになる。『日本詩人』に参加、尾崎喜八更科源蔵らと関わる。他に小熊秀雄鈴木正輝下村保太郎入江好之、渡辺茂などと交流し、『北緯五十度』『港街』に詩を発表。

1932年(昭和7年)、岩見沢に住まいを移し、養鶏場を経営しながら、詩人として活躍。また小西米作らと文化活動をはじめ、後に文化連盟を結成する。

1937年(昭和12年)、日中戦争に出征、1938年(昭和13年)には小説「支那農村記」を発表。1941年(昭和16年)、小田邦雄、山下秀之助、更科源蔵らと「北方文芸」を創刊。

太平洋戦争後、奥保伊藤廉長井菊夫と「詩人種」を創刊。1958年から北海道詩人協会の監事、理事を歴任し、のちに会長に。「情緒」同人として活躍。1968年(昭和43年)、弟子の枯木虎夫が第一回小熊秀雄賞を受賞する。

1969年(昭和44年)、「文学岩見沢」(加藤愛夫編、文学岩見沢の会)が創刊される[4]。1972年(昭和47年)、北海道文化賞を受賞。

1973年(昭和48年)、翌年の岩見沢市開基90年、市制30周年を祝すための「交響詩岩見沢」の作詞を行う。作曲は川越守。1977年には岩見沢市鳩が丘公園に歌碑がたてられ[5]、「交響詩岩見沢の会」が結成されるなど、市民に親しまれた。1979年(昭和54年)10月23日、肺癌のため死去[2]

2019年(令和元年)11月23日から翌年2月16日にかけて、没後40年を記念して岩見沢郷土科学館において企画展「郷土の詩人、加藤愛夫」が開催。

著書

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詩集

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  • 「従軍」(国詩評林社、1938)
  • 「進軍」(河出書房、1940)
  • 「幻虹」(北海道詩人協会、1961)
  • 「夕陽無限」(北書房、1972)

随筆・評論

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  • 「百姓ぐらし」(白都書房、1946)
  • 「鶏」(加藤松一郎名義、柏葉書院、1947)
  • 「詩人のいる風景」(青土社、1970)
  • 「バイエルンの秋」(情緒刊行会、1977)北海道新聞文化使節団員としての紀行文

評伝

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  • 「中村武羅夫 その人と作品」(長井菊夫との共編著、中村武羅夫文学碑建立期成会、1969.5)
  • 「中村武羅夫 文学と生涯」(いわみざわ文学叢書刊行会、1976)
  • 「辻村もと子 人と文学」(いわみざわ文学叢書刊行会、1979.8)

編書

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  • 「輝く郷土部隊 第1編 盧溝橋事件より徐州会戦まで」(加藤愛夫編、北方文化出版社、1941)
  • 「輝く郷土部隊 第2編 廣東・漢口攻略戰より昭和十四年末まで」(加藤愛夫編、北方文化出版社、1942.1)
  • 「日本凍苑 北海道詩人集」(北方民生協会、1952)

没後の刊行書

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  • 「加藤愛夫追悼集」加藤成美、1980.10
  • 「いたどりの道 : 北竜町のルーツ」加藤愛夫著、加藤愛夫遺稿刊行委員会、1985.9

脚注

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  1. ^ 『北海道年鑑 昭和54年版』(北海道新聞社、1979年)p.789
  2. ^ a b 『北海道年鑑 昭和55年版』(北海道新聞社、1980年)p.868
  3. ^ 『北海道歴史人物事典』(北海道新聞社、1993年)p.100
  4. ^ 市民の創作を支え50年 「文学岩見沢」100号で終刊:朝日新聞デジタル(2020年5月3日記事、2020年9月4日閲覧)
  5. ^ 北海道の文学碑

参考文献

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  • 『北海道歴史人物事典』(北海道新聞社、1993年刊)
    上記の事典においては「愛夫」の読みは「あいお」ではなく「まなお」となっている。