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賀茂真淵

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加茂真淵から転送)
賀茂 真淵
弟子による肖像画(『國文学名家肖像集』)
人物情報
別名 三四、衛士(通称)
県居(号)
春栖、淵満
生誕 元禄10年3月4日
(1697-04-24) 1697年4月24日
日本の旗 日本遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現・静岡県浜松市
死没 明和6年10月30日
(1769-11-27) 1769年11月27日(72歳没))[1]
日本の旗 日本武蔵国江戸
居住 江戸
両親 父:岡部政信
学問
時代 江戸時代中期
研究分野 国学
特筆すべき概念 ますらをぶり
たをやめぶり
からくにぶり
主な業績 和歌における古風の尊重
国学における道の提唱
主要な作品 『歌意考』
『万葉考』
国意考
影響を受けた人物 杉浦国頭
荷田春満
影響を与えた人物 #門下
主な受賞歴正四位
従三位[2]
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賀茂 真淵(かもの まぶち、元禄10年3月4日1697年4月24日〉- 明和6年10月30日1769年11月27日〉)は、江戸時代中期の国学者歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した[3]

荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる[4]

概要

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賀茂真淵記念館内にある胸像

万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重(万葉主義)を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、「日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿である」として、古道説を確立した[5]

弟子の加藤千蔭の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」[6]という。

主な著書に『万葉考』、『冠辞考』、『祝詞考』、『神楽考』、『にひまなび』、『源氏物語新釈』、『ことばもゝくさ』などがある。とりわけ『歌意考』、『語意考』、『国意考』、『書意考』、『文意考』は「五意」と総称される[7]

全集として、明治期に『賀茂真淵全集』(6巻、國學院編、吉川弘文館)が刊行された。また、昭和初期に『増訂 賀茂真淵全集』(12巻、佐佐木信綱監修、吉川弘文館)および『校本 賀茂真淵全集』(思想編上下、弘文堂)、昭和後期に『賀茂真淵全集』(28巻ただし7巻分は未刊、久松潜一監修、続群書類従完成会)が刊行されている。

生涯

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元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市[3]に岡部政信の三男[8]として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[3]、父政信は分家筋で農を業とした[注釈 1]

宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭のもとで手習いを受ける[3][注釈 2]。国頭は江戸の国学者・荷田春満の弟子で[9]、春満の姪真崎(まさき)[3]を妻とし、浜松で私塾を開いていた。

享保8年[10]1723年)に真淵は結婚する[注釈 3]が、翌年に妻を亡くす[11]。真淵は享保10年(1725年)に浜松宿脇本陣[注釈 4]梅谷(うめや)家の養子になる[注釈 5]

30歳を過ぎたころ[3][注釈 6]、家を捨てて京都に移り、荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去する[12]と浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える[要出典]。翌元文2年(1737年[3][注釈 7]には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた[注釈 8]延享3年(1746年)、すでに50歳となっていた真淵は、御三卿田安徳川家の和学御用掛となり、徳川宗武に仕えた[13]。宗武の知遇を得たことは世間の信頼をも高め、門人の数も急増したことで、真淵は公用の傍ら歌会や講会にも頻りに顔を出した[14]

宝暦13年(1763年)、真淵は宗武の命により大和へ旅に出る。この旅の途中で伊勢神宮への参拝を終えて伊勢松阪旅籠「新上屋」に宿泊していたところ、情報を聞きつけた本居宣長が訪れ、生涯一度限りの出会いを経験する(「松阪の一夜」)[15]。宣長は後に真淵の門下生となり、以後文通による指導(『万葉集問目』)が続いた[15]。なお、真淵が江戸に戻ってきたのは同年の夏頃で、足かけ半年にわたる大旅行であった[16]

賀茂真淵県居の跡
東京都中央区日本橋浜町

明和元年(1764年)、真淵は住居を浜町に移し、「県居」と号した[17]。明和6年(1769年)に死去。享年73。

賀茂真淵の
東京都品川区北品川三丁目

墓は東海寺大山墓地にある[18][19]戒名は「玄珠院真淵義龍居士」、墓石の表には「賀茂県主大人墓」とある[20]。この墓には国学者たちの参詣が末永く後を絶たず、とりわけ江戸の門人たちは忌日に墓参りと献詠を怠らなかった[21]

没後

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縣居神社の入口

天保10年(1839年)に真淵を祀る「縣居翁霊社」が創建され、明治17年(1884年)に「縣居神社」と改称した[21]。なお、境内には真淵の歌碑がある。

賀茂真淵記念館
静岡県浜松市中央区東伊場一丁目22-2

昭和59年(1984年)に「賀茂真淵記念館」が開館した[注釈 9]。昭和60年(1985年)には本居宣長記念館と友好提携を結んだ[22]

ゆかりの地

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  • 賀茂神社:真淵の先祖をまつっている神社。
  • 賀茂真淵翁顕彰碑:真淵生誕の地に建てられた。「賀茂真淵生誕の跡」碑がある。
  • 五社公園:真淵生誕300年を記念して、万葉歌碑が建てられた。歌碑の文字は、真淵直筆の「万葉集遠江歌考」より転写した。

門下

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真淵は教育者としても長じ、門下生は300人を超過する数であった[23]。その門流は「県居学派」あるいは「県門」と称される[24]。中には春満の門流も少なからずいたが、直接真淵に入門した者はさらに多く、概ね当時の知識階級に属する人々であったが、とりわけ女性は総人数の3分の1に達していた[23]

著名な門下生には、本居宣長荒木田久老加藤千蔭村田春海楫取魚彦塙保己一内山真龍栗田土満森繁子などがいる[3]。その中でも高名な弟子として、特に優れた女性3人を県門の三才女(けんもんのさんさいじょ)[3]、特に優れた男性4人を県門の四天王(けんもんのしてんのう)と称した。

県門の三才女

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県門の四天王

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県門十二大家

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県門の四天王に以下の8人を加え、県門十二大家(けんもんじゅうにたいか)と称される[3]

著書

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「岡部家は代々加茂神社の禰宜(ねぎ)となり、『賀茂県主(あがたぬし)』と呼ばれていた」(三枝康高 1962, p. 43)。「真淵の実父の政信は、分家筋」(三枝康高 1962, p. 60)。「農事をもっぱらにした実父政信」(三枝康高 1962, p. 74)。「政信(中略)家の生計は、もっぱら農事によってたてられていた」(三枝康高 1962, p. 63)。「賀茂真淵県主(あがたぬし)は百姓の子なり」(小山田与清 『擁書漫筆』、三枝康高 1962, p. 17より孫引き)。
  2. ^ 「宝永四年は真淵大人(うし)十一歳になれり、(中略)手習ひ始めなるべし」(杉浦比隅満 『古学始祖略年譜』、三枝康高 1962, pp. 67–68より孫引き。資料に関しては同書309頁参照)。
  3. ^ 「岡部政長の養子となる」(三枝康高 1962, p. 312)。
  4. ^ 「梅谷脇本陣がすなわち真淵の養家にあたり、」(三枝康高 1962, p. 120)。「脇本陣の若主人になったことが真淵にとって」(三枝康高 1962, p. 122)
  5. ^ 「浜松宿の脇本陣、梅谷方良の養子になった」(三枝康高 1962, p. 117)
  6. ^ 「いくつかの説(中略)享保十八年、三十七歳のとき京へのぼり、春満を師とした(中略)これにたいして(中略)真淵自らも『学びのあげつろひ』において、「三十に余りて京へおりおり行て、荷田うしに学びつるも」という。(中略)享保十三年(中略)ならば真淵も三十二歳であり、(中略)上京したとしても不審は無く、(後略)」(三枝康高 1962, pp. 139–140)。「享保十三年(一七二八)に三十二歳で春満に入門してから」(三枝康高 1962, p. 165)。
  7. ^ 「元文二年(一七三七)(中略)江戸の土をふみ、信名のもとに身を寄せた。」(三枝康高 1962, p. 182)。
  8. ^ 「師たるべき位置を与えられた」(三枝康高 1962, p. 184)。「古典についての共同研究を、飽かずにおこなってゆく」(三枝康高 1962, p. 187)。
  9. ^ 同年には「鈴屋学会」が発会している[22]

出典

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  1. ^ 賀茂真淵について”. 賀茂真淵記念館. 2021年5月3日閲覧。
  2. ^ 明治38年11月12日に従三位に追陞(「故賀茂真淵外一名贈位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110212900 )
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 井上豊 「賀茂真淵」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, pp. 399–401)
  4. ^ 国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。
  5. ^ 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版(原著2009-2-2)。ISBN 9784407316599 
  6. ^ 庄田 (2006), p. 29(原文は『賀茂翁家集』「序文」(新編国歌大観 第9巻1 所収)。)
  7. ^ 三枝康高 (1962), p. 276.
  8. ^ 三枝康高 (1962), p. 19.
  9. ^ 三枝康高 (1962), p. 69.
  10. ^ 三枝康高 (1962), p. 100.
  11. ^ 三枝康高 (1962), p. 103.
  12. ^ 三枝康高 (1962), pp. 179–180.
  13. ^ 三枝康高 (1962), p. 224.
  14. ^ 三枝康高 (1962), p. 227.
  15. ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 4.
  16. ^ 三枝康高 (1962), p. 242.
  17. ^ 三枝康高 (1962), p. 246.
  18. ^ 三枝康高 (1962), p. 302.
  19. ^ 内田宗一 (2016), p. 40.
  20. ^ 三枝康高 (1962), p. 303.
  21. ^ a b 三枝康高 (1962), p. 304.
  22. ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 48.
  23. ^ a b 三枝康高 (1962), p. 292.
  24. ^ 内田宗一 (2016), pp. 42–43.
  25. ^ 内野吾郎 「油谷倭文子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1875)
  26. ^ 内野吾郎 「土岐筑波子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1322)
  27. ^ 内野吾郎 「鵜殿余野子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 175)

参考文献

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著書
論文

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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