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加納久徴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
加納 久徴
時代 江戸時代後期(幕末
生誕 文化10年6月5日1813年7月2日
死没 元治元年3月22日1864年4月27日
改名 汲次郎(幼名)、久徴
戒名 徳性院勇達日徴
墓所 東京都台東区谷中墓地
東京都新宿区須賀町の戒行寺
官位 従五位下、大和守、備中守、駿河
幕府 江戸幕府
上総国一宮藩
氏族 加納氏
父母 父:加納久儔、母:高木正剛の娘
石川総佐の娘
養子:加納久成加納久恒
養女:(久儔の娘・加納久恒室)
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加納 久徴(かのう ひさあきら)は、上総一宮藩の第2代藩主。一宮藩加納家6代。通称玖次郎[1]

経歴

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文化10年(1813年)6月5日、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第4代藩主・加納久慎の世子である加納久儔(後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる[2]

天保元年(1830年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁した。天保9年12月16日(1839年)、従五位下・大和守に叙任される。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年(1842年)10月21日、父の隠居により家督を継いで一宮藩主となる。

嘉永2年(1849年)1月28日に大番頭に任じられ、安政2年(1855年)2月に講武所総裁を兼任する。安政4年(1857年)閏5月1日に奏者番に任じられ、文久元年(1861年)7月15日に若年寄に任じられるなど、幕末期の要職を歴任した。和宮江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、江戸までの警護役を務めた[2]

文久2年(1862年)閏8月25日、若年寄を辞職する。

元治元年(1864年)3月22日に死去。江戸の戒行寺に埋葬された。享年51[3]

久徴には実子がおらず、養子として七日市藩前田家から迎えていた久成が文久3年(1863年)に早世していたため、久留里藩黒田家から久恒を迎えて一宮藩主が継承された。なお、久恒も若くして他界したため、養嗣子として加納久宜が三池藩主立花家から迎えられて第4代藩主となった[3]

治績

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若くして山鹿流軍学を学ぶとともに、歴史・文学・芸術を愛する教養人でもあり、文武に優れた藩主であった[2]

天保15年(1844年)、領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた[4]。この記念碑は1981年昭和56年)に一宮町指定史跡に指定されている[3]

内憂外患の幕末動乱においては、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない、天保15年(1844年)には高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ、弘化2年(1845年)には他藩に先駆けて九十九里浜に砲台を建設。さらには家臣のみならず町民や農漁民を募り、オランダ式の部隊編成や練兵訓練を施して「加納の陣立て」と評判を呼んだ[2]

文久3年(1863年)11月、真忠組の乱が起こると、下総佐倉藩多古藩陸奥福島藩と協力して文久4年(1864年)1月に鎮圧するという功績を挙げた[2]

系譜

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父母

正室

養子女

脚注

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  1. ^ 加納久徴』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 高崎哲郎 (2014). 国際人・加納久朗の生涯. 鹿島出版. pp. 33-39 
  3. ^ a b c 洞庭湖記念碑【一宮町指定史跡】”. 一宮町ホームページ. 2016年7月15日閲覧。
  4. ^ 上総一宮郷土史研究会記念誌編集委員会 編『ふるさと今昔』上総一宮郷土史研究会、2004年10月、90-91頁。