加地為利
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 享禄5年6月22日(1532年7月16日) |
改名 | 為利、宗三 |
別名 | 丹後守 |
戒名 | 宗三 |
主君 | 三好元長 |
氏族 | 加地氏 |
子 | 不詳(同時に死亡) |
加地 為利(かじ ためとし)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。官途は丹後守。晩年に出家して宗三と名乗る。
生涯
[編集]細川氏の被官ではあるものの、実質的には守護代の三好元長に仕えて、塩田一忠らとともに「三好殿年寄中」と呼ばれ、家臣団の中核をなした。
享禄5年(1532年)1月、三好元長に倣って出家し、名を宗三と改めた[1][2]。
同年5月、天文の錯乱で三好元長は木沢長政と3万の一向一揆勢に攻められて、三好長家(遠江守)が戦死し飯盛山城と高屋城が落城、一向一揆勢は10万に膨れ上がった。同年6月、最後に立てこもった顕本寺も包囲され、三好元長、三好一秀、塩田胤光(若狭守)とその子2人らとともに、為利と為利の子は自害した[3]。