加地久勝
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時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 権助 |
主君 | 三好長慶、義継 |
氏族 | 加地氏 |
加地 久勝(かじ ひさかつ)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。通称は権助(ごんのすけ)で、『フロイス日本史』でもゴノスケドノ(葡: Gonosuke-dono)と言及されている[1]。
生涯
[編集]『室町殿日記』には、天文12年12月3日(1543年12月28日)付けで室町幕府の人件費100貫文を堺の商人から借金する内容の書状が書き写されており、差出人は久勝と塩田高景(若狭守)の連名になっている[3]。仮にこの写しの内容が正確であるなら、これは三好長慶が管領の細川晴元から離反する前の話であり、当時から堺の町衆と交際があって幕府の資金繰りに関わっていたことになる。
永禄4年(1561年)、三好義興と三好長慶が足利義輝を招いた際には、篠原左近丞とともに冠木門で出迎える御門役を務め、その後も接待に奔走した[4]。
『細川両家記』によると、永禄9年(1566年)の上芝の戦いでは久勝の率いた部隊が敵の首を7つ取っており、野田城・福島城の戦いにも三好方で参加している[5]。
関連項目
[編集]出典
[編集]- ^ a b 「大阪湾の港湾都市と三好政権 ―法華宗を媒介に―」(PDF)『都市文化研究』第4巻、大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター、2004年、93頁、2011年10月19日閲覧。
- ^ 塙保己一 著「第四十九冊職名部廿八 堺代官」、今泉定介 編『故実叢書 武家名目抄』吉川弘文館、1906年 。
- ^ ただし、以下は両者とも加地ではなく、加持となっている。
- 神沢貞幹 編「巻121 雑話 足利衰廢」『翁草 校訂』五車楼書店、1906年 。
- “室町殿日記”. 国文学研究資料館. 2011年10月19日閲覧。
- ^ 塙保己一 編「三好亭御成記」『続群書類従 第23輯ノ下 武家部』経済雑誌社、1926年。全国書誌番号:43007148 。
- ^ 塙保己一 編「細川兩家記」『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社、1893-1894。全国書誌番号:20474265 。「加地權助手七ツ」