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劉貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 貴(りゅう き、? - 539年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人。本貫秀容郡陽曲県[1][2][3]

経歴

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劉乾の子として生まれた[1][2][3]懐朔鎮にあって高歓と友情を結んだ[4][5][6]。のちに爾朱栄の下で騎兵参軍をつとめた。建義元年(528年)、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。左将軍・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍の号を加えられた。永安3年(530年)、涼州刺史となった[7][2][3]

長広王元曄が即位し、爾朱世隆が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の元顕恭と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。晋州刺史に任じられた。普泰元年(531年)、行汾州事に転じた。高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、劉貴は城を棄ててにおもむき、高歓に帰順した。太昌元年(532年)、本官のまま肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。天平元年(534年)、陝州刺史となった[8][2][3]

天平4年(537年)、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、侯景高昂らとともに独孤信洛陽で攻撃した。興和元年(539年)11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・太保太尉公録尚書事冀州刺史の位を追贈され、を忠武といった[8][9][3]

子に劉元孫・劉洪徽がいた。劉元孫は員外郎・肆州中正となり、早逝した。劉洪徽が後を嗣ぎ、仮の儀同三司となって、奏門下事をつとめた[10][11][3]

脚注

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  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 252.
  2. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 250.
  3. ^ a b c d e f 北史 1974, p. 1904.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 12.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 2.
  6. ^ 北史 1974, p. 210.
  7. ^ 氣賀澤 2021, pp. 252–253.
  8. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 253.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 250–251.
  10. ^ 氣賀澤 2021, p. 254.
  11. ^ 北斉書 1972, p. 251.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4