後唐
後唐(こうとう、923年[2] - 936年[3])は、中国の王朝で、五代の一つである[4]。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐とした[2]ので、区別するため後唐と呼び習わす[5]。都は洛陽[2]。
歴史
[編集]唐末の混乱期に、突厥沙陀部族出身の李克用が河東節度使として晋陽(太原)に駐屯し、山西地方に打ち立てた軍閥(晋国。後世には前晋とも呼ばれる)がその前身である[6]。
李克用は895年唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた[7]。朱全忠が唐を滅ぼして「後梁」を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った[7]。
李克用の死後、子の李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり[8]、力を得た李存勗は923年皇帝を名乗って「後唐」を建てた[2]。
この時、李存勗が国名に唐を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓李を賜っていたからである[7]。
こうして、後唐は唐の後継を自認し、同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した[2]。
後梁に形式的に臣従し[9]、王に封じられていた南方の諸国(十国)は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した[10]。このときに使者を派遣しなかった四川地方の前蜀は[10]、925年に李存勗(荘宗)により攻められて滅ぼされた[11]。
四川征服後、後唐の初代皇帝の李存勗(荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り[10]、さらには朱全忠が廃止した唐の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失った。
926年、地方の反乱がおきて、皇帝の李存勗(荘宗)は部下によって殺された[2][10]。
その後、李克用の養子の李嗣源(明宗)は、各地の反乱を収拾させると自ら後唐の2代皇帝になった。李嗣源(明宗)は宰相馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年、再び帝位をめぐる混乱が起こった。
933年、明宗(李嗣源)が病床に倒れると、秦王李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の死後、李従厚(閔帝)が後を継いで3代皇帝になった。
しかし、この動きに、明宗の養子の李従珂が反対し、李従珂が鳳翔で挙兵すると、李従厚(閔帝)はその軍勢に対抗することができず、洛陽を脱出して衛州に逃れた。
こうして、明宗の養子の李従珂が、次の後唐の皇帝になる流れができあがった。
しかし、李従珂と共に明宗(李嗣源)の古くからの腹心で、明宗(李嗣源)の女婿でもある石敬瑭は、李従珂が4代皇帝に即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。この時、石敬瑭は北の契丹(遼)に援軍を要請して、石敬瑭は自ら帝位について「後晋」を建てた(936年)。
936年、後晋軍は李従珂を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡)
後唐朝では、宰相馮道の提案により経書の木版印刷が932年から開始された[12][* 1]。この事業は当初従来の王朝と同様に石刻によることが計画されたが、経費がかさむことから木版印刷となり、後周の代953年(広順3年)に完成をみた[12]。
後唐の皇帝
[編集]代数 | 廟号(諡号) | 名前 | 在位 | 備考 |
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1 | 荘宗 | 李存勗 | 923年 - 926年 | 李克用の子 |
2 | 明宗 | 李嗣源 | 926年 - 933年 | 李克用の養子 |
3 | 閔帝 | 李従厚 | 933年 - 934年 | 李嗣源の子 |
4 | 末帝[1] | 李従珂 | 934年 - 936年 | 李嗣源の養子 |
系図
[編集]朱邪執宜 | 朱邪赤心 (李國昌) | 李克用 (太祖) | 荘宗李存勗1 | 某 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永王李存覇 | 某 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
邕王李存美 | 魏王李継岌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
薛王李存礼 | 守王李継潼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
申王李存渥 | 光王李継嵩 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸王李存乂 | 真王李継嶦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
通王李存確 | 川王李継嶢 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雅王李存紀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李廷鸞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李落落 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李存矩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李霓 (徳宗) | 明宗李嗣源2 | 李従審 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秦王李従栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
李従璨 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
許王李従益 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
閔帝李従厚3 (宋王) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永寧公主 (李皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宣憲皇后 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高祖石敬瑭 (後晋) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
末帝李従珂4 (廃帝) | 李重吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(王某) | 雍王李重美 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実子 | 養子(仮子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後唐の元号
[編集]元号 | 年数 | |
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1 | 同光 | 923年 - 926年 |
2 | 天成 | 926年 - 930年 |
3 | 長興 | 930年 - 933年 |
4 | 応順 | 934年1月 - 4月 |
5 | 清泰 | 934年 - 936年 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 廟号も諡号もなし
- ^ a b c d e f 愛宕他 (1997)、p.15
- ^ 愛宕他 (1997)、p.16
- ^ 愛宕他 (1997)、p.3
- ^ 愛宕他 (1997)、p.69
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.14-15
- ^ a b c 愛宕他 (1997)、p.14
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.11-13
- ^ 愛宕他 (1997)、p.10
- ^ a b c d 周藤、中嶋 (2004)、p.39
- ^ 愛宕他 (1997)、p.30
- ^ a b c 愛宕他 (1997)、p.66
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 愛宕元、斯波義信、森田憲司 著「第1章 五代」、松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志 編『中国史 3:五代 – 元』山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年、3-71頁。ISBN 4-634-46170-6。
- 周藤吉之、中嶋敏『五代と宋の興亡』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年。ISBN 4-06-159679-9。
関連項目
[編集]- 王妃の紋章(映画)
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