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松田 雪重(まつだ ゆきしげ、1903年頃(行年から推定) - 1969年3月6日)は、ヤクザ、暴力団・松田組初代組長。 大阪府大阪市西成区の博徒。
博徒とは正規の職業ではなく、松田は西成において、斯界では「盆」と呼ばれる私設賭博場を経営していた。 初代松田組の幹部には、樫 忠義(松田没後、二代目松田組組長)、村田岩三(後に二代目松田組舎弟頭、松和会代表)、佳山留五郎、桜井房太郎、森 秋夫、藤井 隆、菅谷一夫、石田宗右衛門、大山 明、西口善夫、平松嘉一、出崎武男の名がある(1964年5月の『松葉会長 二代目本多会長 結縁披露芳名録』〔題名ママ〕の松田組参列者による)。
その生い立ち他は明確でないが、『博徒侠客系統調査表』によると、26歳の松田は有名な木津勘助が一家を起こしたとする二代目三阪・有田円太郎(浪速区木津勘助町三丁目)の直属配下乾児であり浪速区堺町三丁目に住居を構えていたとある。 同じく直属配下乾児の浪速区栄町三丁目を住所とする「菅谷三造(28)」とあるのは三代目山口組の菅谷政雄の兄で西成区山王町三丁目(旧飛田遊廓)に主たる事務所を置いた菅谷組の組長の博徒・菅谷三蔵(すがたに さんぞう)である。
飯干晃一『戒厳令下の山口組』(徳間書店・角川文庫)によると松田組は、奈良県吉野の出身で西成界隈の博打打ちだった松田が終戦直後の1945年暮れに結成、飛田遊廓の隣に賭場を立てたのが始まりという。 また、同著は松田が昔気質の博徒としての筋を通し、ひとかどの人物として周囲の尊敬を集めていったと評し、松田組も盆が30ヵ所という大きな組織に成長したとされる。 風説ではあるが虚業であるヤクザの組において、その財政状態は景気やタイミングに左右されやすいといわれるが、関西の多くの組が全国的にも桁違いの経済力を有するとされたのは、この賭博場の収益が大きいとされる。
当該社会において松田は、前述の『松葉会長 二代目本多会長 結縁披露芳名録』によると、儀式における業界の証人役としての意味合いがあり大親分がなる事が多い見届人となっている(この年、松田は58歳?)[1]。
また、法曹界の大家で、あまりに有名な向江璋悦による『無罪の記録』によると、山村辰雄たち広島ヤクザの裁判に全く無関係ではあるが証人として出席し、立派に渡世の義理を果たしている。 この点でもヤクザではあるが器量人とする評価に説得力がある。
1969年に病気により死去。 行年66歳。
脚註
[編集]- ^ この時、見届人に名を連ねたのは、横山新次郎(大船。錦政会 堀井一家)、小高龍湖(札幌市。会津家小高初代)、稲川裕芳(熱海市。錦政会会長)、磧上義光(本所。住吉一家四代目総長)、森田政治(銀座。日本国粋会 生井一家)、岡村吾一(銀座、北星会)、久野益義(新小岩。松葉会 助川一家二代目総長)、益戸克巳(浅草)、唐牛豊一(いわき市)、和田 薫(新宿)、小松沢 繁(栃木市)、星辰太郎(盛岡市)、石井初太郎(川崎市)、本橋政夫(池袋)、関山義人(渋谷区八幡、興論社)、野口啓一郎(船橋市)、小川春信(不明)、大沢武三郎(下谷)、内匠義昌(小岩)、武井敬三(市川市)、醍醐安之助(仲蒲田)、醍醐幸右衛門(不明)、高橋義人(入谷)、渥美幸一郎(深川弁天町)、諏訪健治(西宮市)、与浦文四郎(泉佐野市)、永田熊吉(阿倍野区丸山通り)、石田郁三(西成区天下茶屋)、石川弥太郎(大阪、小緑組)、上瀧 英(佐賀市)、永露 勇(不明)、合田幸一(下関市)、松田雪重(西成区山王)、工藤玄治(小倉北区古船場)、山村辰雄(呉市)、福田留一(佐賀県小城郡芦刈町)、百済 栄(不明)、松田信定(佐賀県鹿島市)、高松弥太郎(福岡市博多区)、辻野清八(天王寺区南河堀)、森岡信勝(須磨区前池)、高木 策(大阪市西区江戸堀)、竹田辰一(尼崎市)、大森良治(長田区二葉)、上条義夫(名古屋市千種区)、図越利一(下京区)、山田祐作(西成区)、藤原秋夫(大阪市西区本田)、大坂鶴一(大阪市西区南堀江)、中山国治(不明)、大野鶴吉(大阪市港区夕凪)以上である。
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