利用者:Yaku/1
山口組の2007年3月10日(土) 6時28分(JST)版から転載
■創設―― 大正4年(1915年)、「運河の親分」大島秀吉の大島組に属して活動していた山口春吉が、神戸市兵庫区西出町で沖仲士50人を集めて、港湾荷役人夫供給業「山口組」を結成した。結成当時は、大島組の系列で、独立組織ではなかった。
■2代目継承―― 大正14年(1925年)、山口春吉の長男・山口登が二代目を継承した。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。山口組二代目親分相続披露宴は、神戸市須磨区の料亭で行われた。披露宴には、主筋の大島組・大島秀吉組長をはじめ、大島組幹部や兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。難波島之助が参謀格となった。
■独立 イ―― 昭和4年(1929年)1月、山口登は大島組への上納金をやめたため、大島秀吉から破門された。
■独立 ロ―― 昭和5年(1930年)3月、神戸市が兵庫区浜新町に中央卸売市場の建設を計画した。この利権をめぐり、山口組は大島組と対立した。同年5月、山口組の刺客・田尻春吉が大島組・川端勝次を射殺した。同年8月7日に、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から兵庫区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、中央卸売市場建設予定地の近所であった。昭和7年(1932年)7月、大島組の刺客・守屋謙造が、山口登のいた須磨の待合を襲撃した。若衆・村上常吉が一ヶ月の重傷を負ったが、山口登は難を逃れた。抗争の末、山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、大島組から独立した。
■浪曲興行―― 山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森議員は浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介した。【改行】昭和9年(1934年)7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。松風軒栄楽のマネージャーは、庄村吉之助だったが、山口登は庄村吉之助を引き抜き、彼を支配人にすえて、山口組興行部を作った。また、山口登は庄村吉之助の側に、若衆の笠種次を付けた。
■海員争議―― 同年8月、海員争議が起こり、会社側は山口組二代目・山口登に、紛争解決の調停役を依頼した。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。話し合いはこじれ、乱闘が起こり、西田幸一は殺害され、田尻春吉は重傷を負った。その知らせを受けた田岡一雄(後の山口組三代目)が、岡精義とともに、海員組合争議本部に乗り込み、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。
■田岡出獄―― ■吉本興業―― 同年9月3日、山口登は、庄村吉之助や笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。【続く】 ■広沢虎造―― 同年10月13日から、吉本せいは、東京新橋演舞場で、大阪漫才公演を開催した。山口登は、この東京興行の応援にかけつけた。翌10月14日、山口登は、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいとともに、東京・浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き、浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。
昭和10年(1935年)10月、田岡一雄が神戸刑務所から出所した。
■田岡正式加入―― 昭和11年(1936年)1月20日、山口登は、田岡一雄を二代目山口組の正式な若衆とした。同年7月、山口組は、田岡一雄の仕切りで、広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の大正座、夜席は県会議事堂を会場とした。
■大長八郎斬殺―― その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間三人を傷つけたためであった。昭和12年(1937年)2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は「大阪楼」を急襲した。田岡一雄が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激怒した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴りこんできた。田岡一雄が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同年2月27日、田岡一雄は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。
■籠寅組 イ―― 昭和15年(1940年)7月、広沢虎造は九州巡業を行った。巡業後、広沢虎造は、下関の籠寅組・保良浅之助親分を訪ねた。保良浅之助]は、下関の料亭「春帆楼」で広沢虎造を接待し、当時売り出し中だった女剣劇・不二洋子一座・大江美智子一座との映画競演を持ちかけた。広沢虎造は即決し、吉本興業に無断で、籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。【続く】 ■籠寅組 ロ―― 同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌7月29日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。
■刺傷―― 同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で千円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組は5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄は日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。
■死亡―― 昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
■田岡出獄―― 昭和18年(1943年)7月13日、田岡一雄は「皇紀2600年」の恩典で2年減刑され、高知刑務所を出所した。
■3代目継承―― 昭和21年(1946年)7月に開かれた兄弟会の席で、田岡一雄の山口組三代目襲名が決まった。同年8月、神戸市須磨区の料亭「延命軒」で、山口組三代目の襲名式が行われた。山口組三代目の初代若頭には、山田久一が就任した。