利用者:Wolf359borg/sandbox
表示
ここはWolf359borgさんの利用者サンドボックスです。編集を試したり下書きを置いておいたりするための場所であり、百科事典の記事ではありません。ただし、公開の場ですので、許諾されていない文章の転載はご遠慮ください。
登録利用者は自分用の利用者サンドボックスを作成できます(サンドボックスを作成する、解説)。 その他のサンドボックス: 共用サンドボックス | モジュールサンドボックス 記事がある程度できあがったら、編集方針を確認して、新規ページを作成しましょう。 |
秋葉神社 (台東区)
[編集]- 位置
北緯35度42分59.51秒 東経139度47分9.03秒 / 北緯35.7165306度 東経139.7858417度
- 秋葉神社境内掲示の御由緒。杜を訪ねて 秋葉神社(台東区松が谷)・日枝神社(台東区西浅草)を参照。
- 祭神は火産霊大神(ホムスビノオオカミ)、水波能売神(ミツハノメノカミ)、埴山毘売神(ハニヤマヒメノカミ)。
- 明治初年に東京府内に火災が多発した状況を英照皇太后が憂慮、明治天皇の命により皇居(江戸城)内紅葉山から鎮火三神を奉遷し、火災鎮護の神社として秋葉原の場所に創建したのが始まり。
- 明治21年に鉄道駅設置のため境内地を払下げて現在地に遷宮した。
- 秋葉原の駅名は当社名に由来する。
- 明治東亰全圖 (Map). 1:6,000. Cartography by 市原正秀 / 朝倉寛. 小林新兵衛. 1876. 2013年2月26日閲覧。
- 大きな長方形の区画に「火除地」、その中央東寄りに「秋葉社」の表記。<秋葉社の位置は現在のJR秋葉原駅中央改札口から駅前広場に出た辺りに見える>
- 東京市 編『東京市史稿:遊園篇. 第4』東京市、東京、1936年。NDLJP:1915756 。
- 225-248頁(131-143コマ):明治3年10月15日、鎮火社創建 神田佐久間町に東西175間南北65間の火除地を設け、中央に社殿を創建して鎮火の三神を祭り、四方を遊園とする。
- 東京府から神祗官への書状
- 去年11月(12月?)12日夜に神田相生町より出火し、最寄りの町々一帯に類焼が及びました。ところで、この場所は前々から出火または類焼により内神田の町々へ飛び火し、大火になること度々でありまして、多くの人々が苦しんできたことは大変悲しむべきことです。そのため、この場所にだいたい東西175間南北65間ほどの火除地を設け、その中央へ鎮火の神である火産霊神、水波能売神、埴山毘売神の三柱を祭り、周囲は松、杉その他の花木を植え、末永く火災を免れるようにしたいと思います。そこで、別紙絵図面の通りに南側に鳥居を建立いたしまして、東京府直轄の神社と定め、春と秋の祭祀には府下の神主から人選の上神事を取り行う予定です。御官制の則に触れることは無いでしょうか、このことについてお問い合わせ致しました。
- 3月25日
- 追伸 別紙絵図面はご覧になりましたらご返却くださいませ。
- 442-446頁(242-247コマ):明治5年6月9日、鎮火社境内果樹栽培計画が立てられる。
- 444頁に見取り図あり。
- 481-485頁(270-272):明治6年2月12日、鎮火社空地花木栽培 鎮火社の空地に草花樹木の栽培を出願する者あり、これを許可する。ついで12月イラクサ(蕁麻)の栽培を出願する者あり、これも許可する。
- 1頁:明治3年1月10日(1870年)、昨年末の火災を考慮し、神田佐久間町一丁目ほか10か町の家屋を撤去して火除明地とする。その中に鎮火社を設け、10月15日に鎮座祭を行う。「火除明地に鎮火社成立 秋葉原の名の起こる因となす。」と明記されている。
- 1-2頁:明治2年12月12日午後10時頃、神田相生町20番地塗師職金次郎方より出火して8ヶ町を全焼、3ヶ町に延焼、1,100戸焼失、女性1名焼死との報告。明治3年1月20日、神田区役所答申。
- 2-3頁:年寄より、神田佐久間町一丁目・二丁目、神田花田町、神田花房町、神田仲町一丁目・三丁目、神田相生町、神田平河町、神田竹町、神田松永町、神田亀住町の地権者・住人らに対し、防災上の理由(江戸の世から度々出火・飛火で内神田に被害をもたらした/家屋が密集し道幅が狭く消防の手が回らない/冬と春には西風が強く延焼により被害が拡大する)から別紙図面の通りに区画改造する旨の申し渡し。明治3年1月、年寄共。
- 3頁:住人の代地や引越に関する措置
- 4頁:過去の火事の履歴列挙。
- 5-6頁:対象となる各町ごとの土地の内訳。
- 6-7頁:「元数寄屋町出火類焼町々芝源助町下谷上野町其外焼跡町々中添年寄へ」、明治3年1月。
- 7-9頁:「恐れながら書付を以って嘆願建白申し上げます」、明治3年1月24日、神田松永町 町年寄。
- 9-10頁:「神田火除地土地確保にかかる費用を別紙の通り申し立てますのでよろしくお願い申し上げます」東京府 常務局邸宅掛→常務局、明治3年4-5月。
- 11頁:明治3年4月、年寄を経て東京府から地主一同へ申し渡し。
- 11-12頁:「替地場所規約について伺書」明治3年6月。
- 14頁:明治3年3月25日、東京府から神祗官への書状。火除地を作りそこに鎮火三神を祭る神社を建てる件について問題ないかを問い合わせ。
- 14-15頁:明治3年8月24日、東京府から神祗官への書状。社と四方の土手は完成の報告、鎮座式に関して問い合わせ。
- 14頁と15頁の間に火除地の図版あり。
- 東京都 編『東京市史稿:市街篇. 第80』東京都、東京、1989年。全国書誌番号:89041254。
- 560頁:明治23年(1890年)11月1日、日本鉄道会社上野・秋葉原間の運輸開始。
- 561頁:時事新報明治23年11月1日版、下谷鉄道開通の景況 日本鉄道会社の上野停車場より神田秋ノ原に通ずる鉄道貨物の運搬を初めたり。
- 江戸叢書刊行会 編『武江年表:全十二冊/武江年表補正略:三巻』江戸叢書刊行会、東京〈江戸叢書 巻の十二〉、1917年。NDLJP:952986 。
- 三田村鳶魚 著「秋葉ばら」、朝倉治彦 編『江戸の旧跡江戸の災害』中央公論社、東京〈中公文庫. 鳶魚江戸文庫〉、1998年。全国書誌番号:99018838。
- 378頁:二度の大火から佐久間町を悪魔町というようになった。
- 379頁:武江年表の引用、花園町という名があっても誰も秋葉の原としかいわなかった。
- 380頁:火除地は見世物が出る遊園地みたいになった。明治23年に日本鉄道会社が貨物取扱所にし、秋葉社は前年に下谷坂本に移った。本来なら駅名は花園町となるべきだが通りの良い方を採用したらしい。
- 381頁:秋葉の原の「の」を省いてしまったばっかりに「原」をバラと濁音で読まなければいけなくなり、元の名称もわからなくなる、と三田村鳶魚は述べている。
- 秋葉原表記
- 秋葉の原、秋葉ノ原
- 秋葉つ原、秋葉ツ原
- 秋葉が原、秋葉ケ原
- 猪口教行、2008、「秋葉原 : 地名の由来」、『文学・芸術・文化 : 近畿大学文芸学部論集』19巻2号、近畿大学文芸学部、ISSN 13445146 pp. 1-10
- 神社の名前が鎮火社というのが気に入らない、おかしい。
- 神社の名前を間違えたまま誰も訂正しないのは不自然だ。
- 【仮説】江戸城内紅葉山には祀られていたのは実は秋葉神社で、皇居に神仏習合の神社があっては不都合なので鎮火社と偽って火除地に遷座した。
- 紅葉山に祀られていたのが記紀に登場する筋目正しい神なら遷座でなく分祀すればいいはず。
- 長野県上伊那郡箕輪町に曹洞宗の明音寺は秋葉三尺坊大権現を勧請して祀っていたが、明治の神仏分離令で深沢鎮火社に分離された。秋葉原の鎮火社も似たような存在なのではないか。
佐竹秋葉神社
[編集]秋葉神社 | |
---|---|
所在地 | 東京都台東区台東四丁目21番 |
位置 | 北緯35度42分21.94秒 東経139度46分50.53秒 / 北緯35.7060944度 東経139.7807028度 |
主祭神 | 火之迦具土 |
創建 | 1889年(明治22年)※諸説あり |
例祭 | 11月第2月曜日 |
- オムタン. “秋葉神社”. コマゴマ. 2013年2月24日閲覧。
- 佐竹町会が境内に設置した由来書きには、明治22年4月に秋葉ヶ原から勧請鎮座し、昭和5年4月に現在地に社殿を造営、とある。
- “商店街の歴史”. 佐竹商店街公式サイト. 佐竹商店街振興組合. 2013年2月24日閲覧。
- 明治2年12月11日(1970年1月12日)の大火で下谷にあった秋田藩佐竹氏の上屋敷が焼失して焼け野原の佐竹ヶ原となり、明治5年(1872年)に国に上納、その後陸軍省用地を経て明治17年(1884年)頃から民間に貸し下げられ佐竹商店街が形成された。
- 佐竹の秋葉神社の由来には諸説あり佐竹町会の人達も把握していない。
- 明治22年(1889年)に秋葉ヶ原から下谷の佐竹屋敷跡地に移したとする説。(←境内掲示の由来)
- 吉田東吾著『大日本地名辞書』2949頁、神田區佐久間町の項に佐久間町のあたり、しばしば火災ありければ、明治二年火除空地を存せしめ、秋葉の神を勧請す、即秋葉原の名出づ。二十二年、秋葉祠を下谷佐竹邸址(竹町)へ移し、花岡町と改め、船入溜を造り、上野停車場への鉄道埠頭に供せられ、貨物運送店多し。 との記載。<鎮火社は秋葉山から勧請したと庶民には信じられていた事を考えると、吉田東吾でもこういう記述になってしまうのも無理からぬことだろう>
- 明治19年(1886年)の新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載。
- 明治18年(1885年)1月20日の読売新聞に深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を下谷竹町の佐竹の原へ遷座との記載あり、と地元の研究家からの情報。
- 明治22年(1889年)に秋葉ヶ原から下谷の佐竹屋敷跡地に移したとする説。(←境内掲示の由来)
秋葉原駅
[編集]- 東京市區改正全圖 官報第二千五號附録 (Map). 1:20,000. 内閣官報局. 1890. 2013年2月26日閲覧。
- 調査年はわからないが、地図には上野までの既設線路、かつての火除地は神田花岡町の表記。
- 区画割りや鉄道路線の計画が赤で書き込まれており、それによると上野から神田明神通りまでかなり昭和通り沿いを通り、そこから万世橋まで神田花岡町を斜めに横切っている。
その他資料
[編集]- 『大日本地名辞典 上巻 二版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大日本地名辞典 中巻 二版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大日本地名辞典 下巻 二版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大日本地名辞典 続編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大日本地名辞典 汎論索引 二版』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 坂東/武蔵國/東京/神田區 2942頁
- 秋葉原(東京) 2949頁