利用者:Uryah/2009年夏に思ったところ
2009年4月26日の朝日新聞に、2009年の若者たちの苦しみを一世代前の若者たちと比べて述べる記事があった(「耕論 若者たちはバカになったのか?」)。そのなかに、一昔前はみなが同じ方向へ進むように既定されていた、それに引き換え現在の若者たちはその道がないから苦しい、旨の記述があった。
いまの若者の苦しみを苦しみとして表現・描き出すのはいい。というかどんどん描き出してくれ。でも、“引き合い”に出して昔の若者はラクでよかったな、みたいな論調はやめてくれ、と言いたい[1]。一世代前の若者たちの苦しみは、たとえばドラマ「未成年 (テレビドラマ)」に描かれている。みなが同じ方向へ向くことで苦しむ者たちがいた[2]。
ドラマ「未成年」の中で、さらに一世代上の大人が、俺たちは自由のために闘った、君たちはどうなんだい?と当時の若者たちに語りかけるシーンがある。いま同じように思う。いま(2009年)の君たちはどうなんだい?って。
いつの頃からか、 “若者の右傾化” が言われるようになった。学校裏サイトとか、トイレの個室で食事とか、互いに締め付け合おう、他人の自由を許すまじとしているのは(そういう意志・衝動を発しているのは)若者たち(の世代)自身に見える[3]。大人がそれを見て驚いて、なんとかしなきゃ、規制か?制限か?とあわてている[4]。互いに自由を認め合う精神は、戦後では、時代が下がるごとに、どんどん小さく、どんどん少なくなっていくように「見える」。いまは、長いものに巻かれたい精神が “若者たちの気運” になっている(なってしまった)ように「見える」。
本当にそうなのか?Uryah 2009年8月12日 (水) 10:38 (UTC)
脚注
[編集]- ^ 前向きな(あるいは虚勢を張りたい)話もそう。Wikipedia上でも、2,3 そういう匂いを嗅いだことがある(驚いた。訂正してみた)。自分たちの素晴らしさは、自分たちの素晴らしさとして胸を張ってくれ。一世代前二世代前三世代~を矮小化して自分たちを素晴らしい「ことにする」のはやめてくれ。飲みの場での会話とかならともかく、百科事典の本文に書いたりする調では勘弁してくれ。前の世代に失礼であるのみならず、それを繰り返すことは日本の縮小再生産、衰退・滅亡の道途に繋がる。だって、それが事実の場合は別にして、後の世代が前の世代を乗り越えていくんじゃなくて前の世代の壁が低かった「ことにして」渡っていったら、そこで自身を納得させて止めていったら、それを何回(何世代)か繰り返したら地べたに落ちることになるでしょ?
- ^ 一世代前の若者たちの気持ちで、自分がまだ若者だと自覚していたころの曲 DA.YO.NE を聴くと、なぜだかいつもにんまりと笑ってしまう。
- ^ あるいは、携帯電話・インターネットが与えた(若者)社会の変化か。
- ^ 放っておけば自由にのびのびと育っていくなんていうのはたぶんうそだ。放っとけば、差別に走る奴とか陰口に走る人とかが必ず出てくる。そういう者が「居る」こと自体は至極まっとうな状態かもしれないけど、そういうものが「大勢を占め」たら、こりゃかなわん。世の趨勢を決めたらこれはたまらんということになる。そこを修正するのは、個人や社会の価値観・信念・宗教や信心や道徳、といったものだ。これが空虚になったらどうなるかというと、失ったその人がまたは失ったその世の中全体が、漠然と「イライラした」状態になる。