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利用者:Uryah/2008年2月・3月に思うところ

「要するに、人が書いたことを消したいだけなんじゃないかと。国立国会図書館にしても、一次資料の限定利用にしても、執筆者が自分を律する課題とすることについてはなんら問題はないし、むしろ尊敬に値するといってもいいくらいです。しかし、彼(ら)からは、より有用な情報を加えて項目を充実させるとか、より信頼性の高い資料からの記述に置き換える、などという発想は見られません。自らに制約を課して記事を書くのではなく、自分の気に入らない記述を除去したい理由として安易に持ち出しているだけです。」

みっちさん 2008年3月3日 (月) 09:30 (UTC)Wikipedia‐ノート:井戸端/subj/DVDや映画パンフレットは検証可能性を満たさない情報源か

まったく共感する。

ここの「2008年1月1日 (火) 11:21 218.110.164.9 (会話) (8,537 バイト) (関連項目に日本における紹介者で研究者の二宮宏之のリンクを追加。竹岡敬温は社会経済史で、二宮宏之は心性史の中心的領域の社会文化史。日本における本家筋への目配りがなさ過ぎ) 」という記述。

私だったら、もし私が218.110.164.9氏が思ったような状況に出くわしたら、この記事に投稿した人は誰々を知っていたのだ、では、私が知っている誰某の本を元にしてそこへ加筆してやろうというファイトこそ湧きこそすれ、「本家筋への目配りがなさ過ぎ」などという発想・感情は湧いてこないと思う。

知っているのなら前へ進もう、高みに行こう、充実させよう、加筆しよう、という感情が湧いてくればいいだけのはずなのに、「~が足りない」、~が気に入らない、~を許せないという 反感の情 が、足を引こうとする情が、マイナスの感情がなぜまず湧いて出てくるのかが、理解出来ない。Uryah 2008年3月4日 (火) 13:44 (UTC)


いつの世でも、若者は上の世代に反発をするものだ。我々の親の世代は、その前の世代と明確に違うものを持っていた。私たちの世代は、親の世代の流れの延長線上にあったけど、新しいものを付け加えた。いまの世代は、そのまま延長線上にあるが、どうも煮詰まってきちゃったんじゃないのか?という気配がすることがある。自分たちの持っているものを前へ押し出して主張しようというのではなく、それが出来なくて(?)、対比する相手の方を押し込めて理解しよう、化して理解したい、という気持ちを感じることがある。

我々が大学生の頃も試験の前にノートが出回ったりしたが、小耳にはさんだところによると、いまの大学生は、良い点が取れそうもなかったら「無かったことにする」ために試験を放棄したりまでするんだとか?それで経歴・成績が汚れないからと?そうまでするのか。「自分の成績表を汚さない」なんて言い方は、自分の頃は、ついぞ聞いたことがなかった。

自分たちが若い頃までは、日本はこれからどんどん良くなる、という気分・予感があったのだけど、いまは汲々と狭く、どんどん窮屈な方向に、向かいつつあるのだろうか。それとも、最近たまたま見聞きした個別の話?

あるいは、また世代が代わると、次の世代は、また希望を持って動く世代が現れるのだろうか?いまの世代を「上の世代は汲々としやがって」とか言い出す世代が?Uryah 2008年3月14日 (金) 22:32 (UTC)


ジョックというと、映画で描かれている姿だとバック・トゥ・ザ・フューチャーで最後に主人公の家の車磨きになるキャラクター、ベスト・キッドの敵役、あるいは、トップガンの敵役のパイロット、などを連想する。学園でのいじめっ子、日本でいえばジャイアンを連想する。ただ、ここを読むと、その深刻さ(?)はジャイアンの比ではないようだ。あるいは日本でも、私の中学生・高校生の頃とは違って、いまは、Paul Graham が述べていることにそのままなぞらえるような深刻な状況なんだろうか。

2008年3月のこの記述、「リア充なんとか(初めて聞いた言葉。もしかして投稿者の造語?←と思ったらいま在る言葉だった。)」と「人種差別」を絡めて書くあたり、書く人がこの世をそう構図して定着させたい、と書いているのか、自分が居る状況に苦しんで、そこから抜け出したいと理解・把握を試みているのか。自分は、まさにジェネレーションギャップ 2008年3月5日 (水) の版を目の当たりにしているのもしれない。

私が若い頃、京大の数学者が、「昔京大でバリストとか言って学園封鎖したけど、けもの道がいっぱいあった。でも今は全部塞ぎたがる」「それは月並みな言葉でいえば管理ですね。最近の若い子は管理してあげないともたないのとちがうか」と若者を評したことがある。最近、その世代の私がWikipediaを見て、「“自分で考える。でも・そして則を越えない。越えたとしても、やりとりのなかで戻ったりする。”ではなぜダメ(不満、不足)なんだ?」と思うことが増えた(い)。ということはもしかしたら、形として見える面・字面の部分の印象とは反対に、魂とか人々の気持ちという部分では、時代が下るほど、世代が下がるほど、世の中はどんどん不自由に、互いに締め付ける/束縛する世の中になってきている?

いやまった、昔は昼は学校で・夜は家族でとON/OFFがあった、夏は田舎へ帰って2週間とか。でもいまは、学校裏サイトとかがあって、1年365日縛り付けられてるとかいうニュースを観たことがあった。文字通り、互いに締め付け合う社会になってきているのか。

ひょんなことから読むことになった『別冊宝島584 音楽誌が書かないJポップ批評13』ISBN 4-7966-2223-3 2001年6月17日発行 のP78-81の一文に、妙なすっきり感を得た。Uryah 2008年3月24日 (月) 10:17 (UTC) 2008年3月24日 (月) 10:36 (UTC) Uryah 2008年4月2日 (水) 13:01 (UTC)

2008年4月2日の朝日新聞の天声人語。新しい世代を中心に、世の中全体が、締め付け合うことになって行こうとしているのか。でもチャップリンの例があるってことは、やがてまた価値観が代わって、伸び伸びとした過ごし易さに振り子が振る時代も来るかもしれない。Uryah 2008年4月2日 (水) 13:01 (UTC)