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利用者:Uryah/2000年代に感じたジェネレーションギャップ

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ジェネレーションギャップノート)について。

冒頭文

時代時代の若者

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革新を好む。(←→保守ノート:保守
参考情報:
年配の人は演歌を好むが若い人はあまり好まない。
参考情報:
  • 竹内洋 『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』 中公新書 ISBN 4-12-101704-8 p. 219
  • 松本健一 『戦後世代の風景』 1980年 第三文明社
  • 1980年代までの若者、あるいは社会の予感
因習やしがらみを脱したいという気持ちが、新しい個人主義の到来を希望・予感した。
参考情報:
  • 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』(中央公論社 1984年) 文庫版 ISBN 4-12-201409-3 p.68 「一九七〇年代以来のさまざまな社会変化の底には(中略)新しい自我と未来の個人主義にとって、いくつかの希望の芽がのぞいてゐる」「開かれた自己表現の個人主義」。
“身の安全”を志向。知り合い同士あるいは友達同士の間では、場の空気を読み合い、互いに牽制し合い、「突出」をたたき合う雰囲気があり、自己表現を控えることを志向する。その反動か裏返しとして、身内(集団)の外の赤の他人には無関心か、とても冷たく、酷いこと(知る者同士の間では考えられないこと)を言っても/しても平気。平気というか、もしかしたら、進んでしたがる人がいる。
参考情報:
  • 朝日新聞2010年12月23日社会面「いま子どもたちは」 ブログは自己表現のツールとして登場したが、インターネット上のブログや交流サイトは、(日本では)「余計なこと」を書くと「たたかれる」ようになる(なった)ので、交流サイトは中国や欧米では「知らない人と出会うツール」として機能しているが、日本では「知り合いと関係を維持するツール」として機能していると、「文化の違い」にからめながら述べられている。
  • 広井良典 『コミュニティを問い直す―つながり・都市・日本社会の未来』 ちくま新書 ISBN 978-4-480-06501-8 2009年初版 pp.15-18 現代(2009)日本は「一定の『同質性』ということを前提として、凝集度の強い形で結びつく」農村型コミュニティであるとし、「個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づく」都市型コミュニティと比較して述べられている, 30-37 ヨーロッパや、「世界の街のかなりの部分」と比較して、現在(2009)の日本の都市における人々の見知らぬ者への振る舞いはとても冷たい、「それぞれがまず一個の独立した個人である、という感覚が非常に希薄であるように思われる」とし、日本人論1に言及し[1]、それらの論で言われていることは、今まさに濃くなっている、強まっている旨述べられている, 9-10 たとえば1年間の自殺者が3万人を超えているのは、背景には、現在(2009)日本の社会関係に遠因の1つがあるのではないか、と述べられている。
  • 昔と違って今は“いじめ”が苛烈になっていて、よって“身の安全”を志向するようになる、と何かで読んだことがある。ウィキペディアでも、人種差別になぞらえて捉えているような人と遭遇したことがある(123)。

新しい10年への希望・期待

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目立つものを叩き、互いに牽制し合い監視し合う“サマータイムは全部残業になるだろう”“個人の都合で先に帰ることなど許さない”“常に一緒に居ないと疑心暗鬼”「集団」ではなく、牽制や監視を嫌う“群れることが嫌い”「一匹狼」でもなく(集団主義1の両面)、「それぞれがまず一個の独立した個人である、という感覚」を持ち合わせた人たちが、互いに互いを尊重し合いながら生活していく雰囲気、“人格に依って”話すことや都合を“信頼し合える”、各々が開いた自己表現をしながら、利己的になるのではなく頭の片隅では互いに他を各々尊重し合って生活していく風土・文化が出来たらいいのに。

1980年代までの時代に在った希求、「個性の尊重」「多様性の時代」といった言葉は、そういうものを目指した言葉だったと思う。つまり個人主義を望む気運だったのだけど、そうはならず、それらの言葉は集団主義と裏腹に結びついて、いつの間にか 何をやってもいい、他人をないがしろにしていい、という利己主義1にすりかわってしまった。その姿像が、映画告白[2]で描かれている生徒たちの状態だ2と。2000年代の若者の間・文化では、個性が尊重される気運はなく、すべての個が 場の一元性がどこに在るのか/傾くのかを睨みながら、互いに牽制し合って、「突出」を叩き合って過ごす時代(世代)状況になった3と。

2010年代は、2010年代の若者の文化(すなわち、その国その地域その文化の時代の最先端の姿)は、知っている者同士でも見知らぬ者同士でも、お互いに人格信頼できるという意味でマナー12に適った振る舞いを多くの場合(いつの世でもどこの世でも「悪い奴」というのが「居なくなる」ことはないから)(相手に)期待できる世の中(個人主義12)にならないかな。

10年1区切りというなら、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代に続く、新しい2010年代です。社会の質の変化は、社会が大きなプレッシャーにさらされているときしかなしえないという。バブルのころ、成功している国がみずから変わり得るだろうか?と話題になった。でもそれをやらざるを得ないと。でもやっぱり得なかった。ということは、今がチャンスだ。派閥力学に縛られて身動きが取れなくなる集団主義でない、ヴィジョンを語って意見を言い合って「実際に世の中が動く」個人主義社会は到来するだろうか。人権でも経済のやり方でも著作権とかでも、変化が起きない江戸時代ならそれでよかった。でも今は違う。国際情勢でも環境でも人権でも、対内的には輸入大国として、対外的には主体性のない国として、これからもあり続けるのだろうか(『社会認識の歩み』 ISBN 4-00-411063-7 pp.33-34, 35-42, 21-29)。今、たとえば国政を見て、国政の場という特定の社会が、そして日本社会全体が、何が力学になって動いているように見えるだろうか。王侯貴族が自身の悦だけを求めて国が滅んでいくのは世界史にありふれた光景だ。日本は新しい時代へ向かって変わるだろうか。

脚注

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  1. ^ 自戒型(?)日本人論が訴えたことに言及している。傲慢型(?)日本人論(者)は、バブルのころ、成功に目が眩んだ「日本人はいかにすごいか」という悦の上塗りのようなこと以外は言おうとしなかった。傲慢型(?)日本人論(者)は、外国の論者から自民族至上主義だと非難されたり、そこにある傲慢に気づいて「転向」する論者がいたりした。
  2. ^ 『週刊東洋経済』 2011年1月8日号 p.60 映画『告白』(2010年6月公開)と『悪人』(2010年9月公開)は、人間のダークサイド、人間の悪意(1)について描いた映画だそうで、『告白』は悪意に対するのには悪意しかないと言い、『悪人』は悪意に囲まれた中でも世の中頼りに出来る善意はあると言っているのだそうだ。「世の中に渦巻く問題や悪意に立ち向かう」という「フェーズ」(ママ)に世の中が移ってきたから「当たった」のだそうだ(「当たった」理由をそう分析・想像しているという)。プロデューサーの次のテーマは家族と友情で、「喪失感のあるファミリーピクチャー」?だそうだ。