利用者:Uraniwa/旧幕臣渋谷鷲郎余聞
旧幕臣渋谷鷲郎余聞(初稿:2023年9月19日)
序説
[編集]渋谷鷲郎という人物の事績について、説明を加える必要がある。
彼の主たる肩書きは「関東取締出役」である。江戸時代後期に幕府が設置したもので、高校日本史の教科書には一応出てくると思う。何のための役職かというと、その名の通り関東で一円的に警察をやるための役職であった。
関東というのは国持大名がおらず、旗本や諸藩、寺社の領地が犬牙錯綜していた。領主どうしの連携が悪いので、ある土地で悪さを働かれても、すぐそこの他領に逃げられてしまえば追うことができない、というケースがずいぶん出てきたのである。そこで幕府に必要とされたのが、関八州を限りとして、地境にとらわれずに巡回・取り締まりを担える機能だった。任命されたのは代官の手付・手代[1]で、彼ら自身の地位は高くないが、その職分の性格ゆえ破落戸たちから恐れられたらしい。
渋谷鷲郎は、代官・佐々井半十郎の麾下にいたことが知られている。彼が関東取締出役に加わるのは元治元年(1864年)ころである。京都では池田屋事件や禁門の変が発生してたいへんな時期だ(小並感)。関東でも、水戸の尊攘急進派・天狗党が挙兵して西上を試み、加賀藩に降伏して多くが処刑されるという、大規模な争乱が起きている。首領格の武田耕雲斎をはじめとする数百名に対し、刑を宣告して執行を確認したのは鷲郎であった。
鷲郎の活動が目立つのは、大政奉還後、幕府解体が目前に迫る慶応末期である。上州岩鼻陣屋詰になった彼は、治安維持を目的として、陣屋の支配地域から人員を徴発してゲベール銃を貸与し、西洋式の調練を施して戦力とする試みを主導していた。むろん取り立てられて隊の主力となるのは農民たちであり、不満タラタラな訳だが。
鷲郎が武州に出張して銃隊の育成にあたっていたころ、討幕を唱える浪士の一団が野州出流山において兵を挙げる。挙兵は言ってみれば薩摩藩の使嗾による関東撹乱作戦の一環で、ほかにも庄内藩の番所に鉄砲を撃ち込んだり、江戸城の二の丸に放火したりとさまざまに挑発し、幕府をして開戦に踏み切らせるよう活動したものである。鷲郎はさっそく銃隊を引き連れて出流山麓に赴き、圧倒的火力でこれを撃滅した。浪士たちは槍や刀しか持たず、銃器に対しては無力だったようだ。
自ら主導する銃隊を率いてこの成果を得た鷲郎は、ホクホク顔になったかもしれない。しかし慶応4年正月(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗戦から戊辰戦争が幕を開ける。東進する新政府東山道軍に対し、さらなる農兵銃隊を編成してこれに対応すべく、鷲郎は支配地域一帯に徴発の指令を飛ばした。ところが、今度ばかりは小前たちにとって負担が重すぎ、軽減を求める陳情が起きる。焦る鷲郎は「逆らうと殺しますよ!」[2]と強硬な態度に出るものの、結局農民たちの熾烈な反対運動に遭って挫折。陣屋を出奔すると、旧幕府軍の衝鋒隊という部隊に加わり、戊辰の戦場を駆け巡った。
衝鋒隊の士官名簿の変遷を確認すると、越後までは名前が載っているが、それ以降は姿を消している[3]。明治初頭、望月善一郎より小島鹿之助宛書簡[4]の中で生存者の列挙に鷲郎が含まれており、どうやら生き延びたらしいということだけは明らかになっているが、維新後の消息に加え、そもそも出自についても全然不明である。
契機
[編集]ウィキペディアの[[渋谷和四郎]]という記事にこの名前をつけたのは他ならぬ私だが、これを[[渋谷鷲郎]]へ改名せんとすることは長らく懸案事項だった。そもそも和四郎にしたのは「鷲郎と書くようになったのは衝鋒隊に投じてからではないか」という長谷川伸『相楽総三とその同志』の推測[5]を受けてのことで、そんなら経歴の大部分では和四郎と書いたのだろうと信じてこそ、そうしたのである。ところが爾後出会う文献読む文献、ことごとく「鷲郎」としており、しかも衝鋒隊に加わる前、岩鼻における農兵銃隊取立の関連文書を中島明氏が引用したものでも「鷲郎」としてあるので[6]、じゃあ長谷川の推測は外れてるんじゃないのかと思った。あと鷲郎のほうが字面がかっこいい。
記事を立項して「和四郎」を採ったのは高校時代である。大学に入り、レポートの参考文献としてやはり『その同志』を用いようとしたところ、ゼミでお世話になっている先生から忠告を受けた。小説家たる長谷川伸の著作は参照すべきでない、とおっしゃる。長谷川はバリバリ大衆文芸の人だから警戒するのは当然であるものの、同書は読むからに大変な労作で、先行研究として高木俊輔氏[7]や中島氏[8]も価値を認めるところだし、講談社学術文庫から再版されているくらいだから、使えるところは今後も使っていきたい……が、やはりちょっと粗が多いかも。要は史料を吟味する能力が肝腎で、学部生の分際では手に余る代物ともいえる。
何はともあれ9月13日、改名提案を準備すべく草稿を練ろうとし、実際のところ両方の表記にどのくらい用例があるのか確かめようとした。国立国会図書館デジタルコレクションで「渋谷和四郎」「渋谷鷲郎」とそれぞれ全文検索をかけたのも、その他愛ない調査の一環だったのである。利用者登録は済ませてあるので、入手困難になった資料を著作権保護期間が満了していなくとも閲覧できる、個人向けデジタル化資料送信サービス(個人送信)も利用可能だ。このサービスは昨年5月に始まり、1年とすこし経った。
結果として「鷲郎」のほうが多いものの、私の予断よりは拮抗しており、わざわざ改名するほどのものか、ちょっと判断に翳りが生じたのも確かであった。「渋谷和四郎」の検索結果を精査すると、長谷川伸が書いたとおぼしき用例がずいぶん多いので、これを改名提案の論拠に掲げてみるのも手かなあ、などと考えながらページを送っていくうち、ふと、ひとつのプレビューに目が釘付けになった。
……州さまと呼ばれていた渋谷和四郎は、維新後剃髪して僧形となり、千家の茶道や俳道に親しみつつ一生……
なん……だと……?
驚倒の記事
[編集]それは1962年1月、富山の郷土研究誌『高志人』第27巻第1号への寄稿である。「仏滅の日に結婚」と題されたその稿の書き手は、甲府・啄美幼稚園長、渋谷俊(以下敬称略)。
イヤ先々代すなわち私の祖父——幕末の頃、八州取締り、俗に八州さまと呼ばれていた渋谷和四郎は、維新後剃髪して僧形となり、千家の茶道や俳道に親しみつつ一生を終え、その妻女すなわち祖母は、日夕般若心経を読誦しつつ、大正になってから八十三才で世を去ったのだが—『高志人』27 (1), p. 40.
さすがに目を疑った。鷲郎は、前述のとおり生き残ったらしいということは判明しているものの、その後の動静は伝えられておらず、後裔の存在も初耳である。もし維新後の話が本当なら……。
さらに渋谷俊なる人物による鷲郎への言及を漁ったところ、すぐに真理運動の機関誌『真理』第27巻第4号(1961年4月)への寄稿が見つかった。「随想 花咲く下にて」と題されており、こちらは祖母の回想を中心に書いている。
この祖母は幕末のころ、八州取締り……俗に八州さまと呼ばれていた旧幕臣渋谷和四郎の妻、小石川の邸にいたころ、一夜水戸の浪士連中に襲われ、危く隣屋敷にのがれ凶刃をまぬがれたという人、その時家来の一人が防戦中凶刃にたおれたので、渋谷の姓を与えて本郷菊坂町の長泉寺に葬ったとか、井伊大老桜田門外の変など、小学時代の私によく話してくれた祖母—『真理』27 (4), p. 5.
襲撃のエピソードは解像度が高い。尊王討幕を謳う浪士たちによる出流山での挙兵を破綻に追い込んだ鷲郎の自邸は、慶応3年12月20日夜に挙兵浪士の同志らによる報復に遭い、家僕1名を殺害されるのである。この点、長谷川伸は落合直亮「殺傷用捨ナシ」や金井之恭「家族ヲ鏖ニス」などといった証言を採り上げているので[9]、当時こちらが優勢に流布していたのではないだろうか。渋谷邸については、一次史料によるとどうやら家族は無事だったようであり[10]、この通りの証言が1960年代に見られるとすれば、単なるホラ吹きとも思えないのである。渋谷俊さん……あなたが間違いなく鷲郎の孫であると、信じていいのか?
この渋谷俊という人物は何者なのか。彼が園長を務めた啄美幼稚園は今も甲府にあり、学校法人渋谷学園が運営している。しかし今の園長が渋谷姓でないところを見ると、渋谷俊のご子孫ではないかもしれない。一体、大忙しの幼稚園にかくなるケッタイな理由で押し掛けてお話を伺うほどの行動力が、私にはない。やい歴史学徒、そんなことでまともなフィールドワークができるものか、と叱られると、駁しようもないが。
とにかく幼稚園にアポを取るのは後にして、何らかの手がかりが掴めそうな文献を探したところ、渋谷俊郎なる人物の編集による『渋谷俊遺稿集』が1986年に個人出版され、山梨県立図書館が「県人著作」として配架しているではないか。これこそ件の渋谷俊ではないか?
懸案事項としては、県立図書館の書誌情報に登録された編者の読みが「シブヤ トシロウ」であることだ。『藤岡屋日記』に「強ひものないとうへ見ぬ鷲郎が宿へ来られて面は渋谷」という落首が書き留められており、字数的に最後の7字は「ツラはシブタニ」であるから、鷲郎の姓は「しぶたに」と読むのではないか、というのは中根賢氏の指摘したところである[11]。無関係の渋谷さんだったらどうしよう。しかし図書館の登録の方が誤っていないとも限らないし、逆に中根氏の見当が外れて「オモテはシブヤ」かもしれない(?)し、100年くらいの間に読みが変わったということも考えられるので、予断は禁物である。
どうせ大学は夏休みだ。一路、甲府へ。
甲府にて
[編集]9月14日。中央本線に揺られて、甲府駅に降り立つ。山梨県立図書館へのアクセスの良さには驚愕した。駅から徒歩3分、空中に歩道が架けられているので横断歩道を渡る必要もない。そして内装の透明感がまた先進的だ。
県人資料の棚は2階にあった。請求番号と照らし合わせて手に取った『渋谷俊遺稿集』は、発兌から40年近くの時を経たにしてはやけに綺麗で、誰の手垢もついていない。素通りされつづけた本、という印象を受ける。
頁をパラパラと繰り、巻末の年譜に差し掛かったとき、手を止めた。
(昭和十八年十二月十五日条)郷土文化研究会にて村松芦州氏の講演により、祖父渋谷昌翁が、野州出流山勤王義挙に際し、幕府軍の大将として討伐に向える事実を知る。
これだ。件の寄稿の主たる渋谷俊に違いない。そして「昌」というのが鷲郎の本名もしくは変名らしいということも、同時に知られるのである[12]。蘆洲村松志孝は、山梨の郷土史研究に大きな足跡を残した人物であった。山県大弐のことが大好きなひと、というイメージが強い。
問題は、本文に収録された遺稿のなかに鷲郎への言及があるかどうかである。拾い読みしたところ、俊は現役時代には新聞記者だったらしく、小説も評論も短歌もかじっている。これだけの物書きなら、祖父について触れたものも1本くらいあれかし。
祈りながら探すと、それはすぐに見つかった。「家」と題された、遺言の書であった。
前科三犯の記者
[編集]私は山日のデスクにおります渋谷と申します。新聞紙法違反で前科三犯……どうぞよろしく—渋谷 1986, p. 224.
というのは「家」の書き出しではなく、渋谷俊という男が宴の席で述べたお約束の口上だという。これを受けて同僚から「ヨォー牢名主!」の声がとぶ。
1888年6月20日、千葉県香取郡佐原町の生まれ。幼時、父・忠徳の転勤に従って山梨に移り、長じて小学校教師となるが、若くして罷めて山梨民報記者となり、すぐ山梨日日新聞に転じる。社会部長を経て編集局長まで務めた。当時の新聞紙法に抵触しての前科三犯となれば、記者としての実直さを示す勲章であろう。
大正末年になって甲府市議に当選、副議長を経て退き、市の収入役に就くが、1938年、筆禍により官を去って以降は浪人となった。幼稚園を設立したのは戦後まもなくである。1968年8月10日、数え81にして天寿を全うする。
記者としてのキャリアのせいもあってか、中央文壇・歌壇の人物にそれなりの数の知己がいたらしい。俊自身も歌をよくしたようだが、妻君が与謝野晶子に歌を師事した関係で親交を結んだという。晶子・鉄幹夫妻とともに写っている写真もあり、巻末年譜では武者小路実篤、野口雨情、石井柏亭、佐藤春夫など、錚々たるメンツとの関わりが語られている。
これらの文人墨客との交遊に関しては、まあ、微々たる接触を勿体らしく書き立てた部分はあろうが、それでも一大地方紙のデスクである。これほどの存在感をもつ人物が鷲郎の孫であることを公言していたら、誰かしらの手によって鷲郎の伝記にもその内容が接続されるものではないだろうか? しかし実際のところ、両者を結びつける文献は、俊自身による言及のほかには管見の限りに無いのである。もし既出だったら教えてほしい。
ちなみに「渋谷」の読み方を断定できる箇所は見つからなかったので、今回は決着つかず。
遺言の書
[編集]閑話休題。お待ちかね、「家」(渋谷 1986, pp. 205–226.)の内容を精査しよう。
副題に『子等に誨ゆる「遺言の書」に代う』とある。「誨ゆる」は「おしゆる」と読むそうだ。末尾の日付は昭和18年(1943年)9月10日、満55歳で、遺言を残すには少々早いように感じるが、当時の俊は激化する神経痛に悩まされており、この稿にも「何となくわしも余命幾何もないように思われる」とまで書いている。結果的にはその後四半世紀にわたって生き続けることになるものの、この時は相応の覚悟をもって筆を執ったものだろう。
ただ終始一貫しているのは、父(引用者注:俊自身のこと)はうそいつわりを以てこれを扮飾したり、或は事実を誇張したりしているものでなく、いつも冷静に冷静にと自分を引き緊めながら書いたのだという事を予め知って置いて貰いたい。—渋谷 1986, p. 207.
この決意表明で前置きが終わり、本題に入る。すなわち家系の話である。なお(ウィキペディアにとって)重要な点として、俊はこの稿では「鷲郎」の字を使っている。前述した戦後の雑誌への寄稿で「和四郎」としたのは、どんな事情を経てのことなのだろう。
「家」から新たに明らかになる事柄のうち、見どころのある部分を細大漏らさずまとめることにしよう。
初世:雄蔵
[編集]鷲郎の父、俊の曽祖父にあたる人物は、通称を雄蔵、名を信といった。彼についての記述は、渋谷家の仏壇の過去帳に基づくという。
武蔵国多摩郡押立村(現・東京都府中市押立町)の農家・川崎斉兵衛の出で、享年から逆算すると生まれは寛政2年(ほぼ1790年)になる。その宗家は農政家として知られる川崎平右衛門定孝であり、雄蔵は分家の7代目という。壮年のころ、宗家の招聘にあずかって「代官元締手代」となり、吉野姓を名乗って信州などの代官所に勤める。しかるのちに、断絶していた親戚の渋谷家を再興。嘉永6年3月(1853年)に江戸へ帰ると、小石川の屋敷に隠棲して悠々居士と称し、千家の茶道に親しみ、安政2年12月5日(1856年1月12日)に66歳で没したという。墓所はやはり本郷菊坂町の長泉寺である。
二世:鷲郎
[編集]鷲郎は雄蔵の長男である。当初、甲州の市川代官所(現在の西八代郡市川三郷町市川大門)に代官手付として勤務していたというが、詳細な時期は書かれていないため、時の代官の誰なりしか、惜しくも明らかにならない。しかも、件の村松蘆洲が「うちへ遊びに来た時、おじいさん(鷲郎)の市川代官所時代のことを、蘆洲先生のお母アさんから、話に聞いて居ったことなどを語られた」という。
つまり渋谷俊は、村松蘆洲と知己の間柄だったのである。しかも蘆洲は最近(昭和18年当時)、甲州出身で出流山事件に参加した大柴宗十郎という人物の足跡をたどるうちに鷲郎に行き当たり、渋谷家に来てその話をし、俊から鷲郎の法号、没年月、墓所を訊いて帰ったというのである。これが私にとっては最大の衝撃だった。蘆洲先生! 彼は渋谷鷲郎という重要人物の消息を知っていながら、公刊する機会を得ずに闇に葬ったのだろうか? あるいは、私が見落としているだけかもしれない。
あと、俊が出流山事件と鷲郎の関わりを知った時期は巻末の年譜では 1943年12月ということになっているが、この稿は同年9月付なのでちょっと前後している。年譜のほうが誤認だろうか。
× × ×
鷲郎の妻の名を、この稿ではお信乃と書いている。俊が鷲郎について書くときは、俊にとって祖母にあたるこの信乃による回想を中心としている。『高志人』への寄稿にもあるように、信乃が亡くなったのは大正のころで、俊は青年期までは祖母から思い出話を聞けたということになるだろう。
市川代官所時代の鷲郎についても回想があり、信乃はこの時期には鷲郎に出会っていたことになる。代官所の池の鯉を盗んだ者を代官に代わって裁いた際、「鯉がそのほうの魚籠に勝手に飛び込んだんだろう(適当)」と言って無罪放免にした、という。後年の「故障申者有之候ハ其者ハ切殺、竹ニさしさらし候」[2]とはえらい違いである。
信乃の里方は二十人町秋葉家とあるが、この二十人町というのは仙台ではなく、甲府の地名のようだ[13]。鷲郎は生麦事件前後の政情を評した書状を秋葉家に送っており、虫損が多いものの現存していたという。3月24日付で、生麦事件を「昨年」としているから文久3年(1863年)の筆である。「家」には全文が掲載されているが、見開き2ページの長きにわたるので、転載は別項に譲る。
× × ×
『真理』への寄稿で少し触れられた慶応3年末の襲撃についても、さらに詳細に語られる。
鷲郎おじいさんはね、ソレあの武田耕雲斎一味が加賀の前田家で捕まった時、その仕置の為に幕府の命令で前田家へ乗り込んで行って切腹[14]させたという話です。それ以来水戸の浪士に恨まれて、御維新になるまで附け狙われていたものだよ。わたしも、こわかったよ——そうゝゝ—慶応の三年だったかナ忘れもしない、もう押し詰まった暮の二十日であったかナ、小石川の邸にいた頃、五六人の水戸の浪士に斬り込まれたのだよ、おじいさんは若党の亀蔵と共に闘かい[15]、わたしは裏木戸から隣のお邸へ逃げて行って救いを求めたのだよ。浪士たちは散々暴れた末逃げ去ったが、亀蔵は二十五の血気旺んな年頃だったので、よく働いてくれました。とうゝゝ斬られて死んでしまいました——まるで鱠のやうに斬り刻まれて——(中略)ふびんな事をしましたよ、亀蔵は下総の百姓の子であったが、強かった。可哀そうなので、澁谷の姓を名乗らせて菊坂町の長泉寺へ葬り、小さな墓を建てゝやりました。—渋谷 1986, pp. 216–217.
ずいぶん昔のことにも拘らず、日付が正確なのは賞賛に値する。斬り込んだ者たちはどちらかと言えば薩摩をバックに持つ浪士たち[16]のはずだが、水戸浪士として認識しているのが興味深く、信乃は鷲郎が天狗党に対する行刑に関わったことを相当気にしていたのだろうか。俊のほうの記憶違いということも考えられるが、水戸関係者に狙われていたというのは、ありえない話ではないと思う。
鷲郎について最も気になるのは、明治維新後の動向である。僧形になり俳諧を嗜んだという話は「家」にも登場するが、実はその一方で再仕官していたという。
維新後召し出されて東京府の役人となり小笠原島の島司になって、あの南海の離れ小島に、お信乃おばあさんと二人で暮らされたこともあったそうである。(中略)明治二十年頃まで小笠原島に住んでいたらしく—渋谷 1986, p. 212.
関東取締出役の同僚たちの中にも、大蔵省に出仕したといわれる馬場俊蔵、東京府に出仕した広瀬鐘平・百瀬章三、神奈川県の望月善一郎、神山県→埼玉県の宮内左右平ら[17]、官員となった者は多く、鷲郎も同様の道をたどったのだろうか。この時期の東京府職員録を確認したが、それらしき名前は見つからなかった。
退官して品川に上陸した夜、宿屋で火災に遭って系譜や日記などを焼失し、信乃はそれを後年まで惜しんでいたという。私も惜しいと思う。
俊が佐原で生まれたころは鷲郎と信乃も一緒に佐原にいたが、忠徳が甲府へ転勤になると小石川の屋敷に移り、明治23年(1890年)10月、七十代で没したということだった。とにかく死去の時期が明らかになったことは、たいへん大きな収穫である。享年を「七十幾つか」と書くにとどめている以上、鷲郎の正確な生年は俊にもわからなかったのだろう。1810年代生まれとすると、関東取締出役を務めていた時分が40歳前後である。
三世:忠徳
[編集]俊の父である忠徳は、鷲郎の実子ではない。この稿には「甲府勤番井上家」の出とあり、信乃の秋葉家と同じく二十人町の家だという。
安政4年9月7日(1857年10月24日)、井上平助の次男として生まれる。実母は信乃と同じ秋葉氏で、忠徳が鷲郎の養子となったのはこの縁からだろうか。妻は石和の神職の娘・たけ。小学教師を経て官途につき、香取郡書記のとき俊が生まれる。のち山梨県、大蔵省、長野県などに出仕。大正11年(1922年)5月から甲府市議。耕南と号して山梨日日新聞に寄稿、熱心な保守主義者。昭和14年(1939年)12月に死去、数え83歳であった。
忠徳の経歴は、没年月以外は『耕南古稀紀念』に拠った(渋谷 1927, p. 97.)。彼の70歳を祝って上梓された同書には、与謝野晶子、中村星湖、飯田蛇笏、ほか地方政界の名士が祝辞祝歌を寄せており、顔の広さが窺える。
その子・俊の経歴は、第4節に記した通りである。「家」では信乃の思い出話についてさらにたくさん語られ、それがその稿の骨子をなしているくらいだが、鷲郎やその父と子に直接関連する収穫はこんなところだ。
ゲームチェンジャー
[編集]渋谷鷲郎の消息を追うのにそれなりに注力した歴史家は、これまで公・野を問わず一定数いたと思う。が、渋谷俊が残した貴重な記述と接点をもつことはできなかった。忠徳、俊らは、親子にわたって山梨の名望家であるが、彼らは祖先のことを公表することにあまり熱心ではなかったようだ。忠徳のほうは未確認だが、俊が残した言及は3点しか見当たらない。そのうち、子らに遺言として書き置いた「家」は、公刊することを前提にしたためた文章ではない。自らの意志で世に出したのは、晩年に2度だけ筆を執った無名雑誌への寄稿であり、これが国立国会図書館デジタルコレクションに拾われ、かろうじて私の目に飛び込んできたのだった。
これだけは言えるが、国会図書館の個人送信、殊に全文検索機能は、とんでもないゲームチェンジャーである。渋谷鷲郎の消息が判明した、と声高に宣言したところで、興味をもつ者は世の中にそんなにたくさんいないだろう。とはいえ、天狗党処刑の実務を担い、幕藩制解体期における関東のキーパーソンとなり、長谷川伸がその描写に筆をふるった渋谷鷲郎の消息が、あたら甲州の土に埋もれんとしていたところを(誇張)、個人送信によって一縷のザイルがつながり、手繰って拾い上げた私がネットの海に撒くのである。
個人送信が大きめの発見をもたらした、という類例は、いま全国の研究者の間でバンバン発生しているだろう。喜ばしいが、こんなツールが現れた以上、今後執筆する論文には隙が許されないような気がして、というかそれ以上に、これまで発表された論文には再検討を要する箇所が恐ろしく増える気がして、怖くもある。とにかく、みんな使おう。こんな記事を奇特にも最後まで読んだような皆さんは、全員とっくに使っているかもしれないが。
× × ×
最後にちょっと惜しみたいことだが、『渋谷俊遺稿集』の上梓を山梨日日新聞社が引き受けてくれる歴史はなかったのだろうか。個人出版だと、ウィキペディアの参考文献節に並んだときに座りが悪いのである。印刷製本を担ったのはグループ企業のサンニチ印刷なのに!
といっても、出版書肆がどこであるかに関わらず、『遺稿集』は「自己公表された情報源」にあたり、単独で引き合いに出すのは避けるべきであるとされている。
一般的に自己公表された情報源については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです。—Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源 2023年8月25日 (金) 00:18の版 (https://w.wiki/7Uio)
ただ今回は、出自、維新後の消息、没年という超重要情報を含む文献なので、WP:SELFSOURCEを援用しつつ、なんとか記事でも活用してみることにしよう。というわけだから、然るべき分野の歴史学者がウィキペディアの鷲郎の記事に目を留め、『遺稿集』を種に、信頼のおける二次資料を編んでくださることを希いつつ、擱筆する。
註
[編集]- ^ 代官の部下。関東取締出役を務めた宮内左右平(公美)によると、手付のほうが身分は高いが、業務は変わらなかったという(宮内 1891, 冒頭)。
- ^ a b 「故障申者有之候ハ其者ハ切殺、竹ニさしさらし候」(『渡辺襄家文書』より。中島 1993, p. 445.)
- ^ 今井信郎「北国戦争概略衝鉾隊之記」/ 牛米 2005, p. 108
- ^ 淀川 2000, p. 117. 望月善一郎はやはり関東取締出役を務め、鷲郎とともに出流山事件鎮圧に出動するなどした同僚である。維新後は神奈川県に出仕した(牛米 2005, p. 108.)。件の書簡の署名は「久正」だけで、淀川 2000 はこれが善一郎の改名であると断定するのを留保しているが、神奈川県「旧官員履歴」に「旧幕臣 源久政 望月善一郎」(神奈川県立図書館 1972, p. 98.)、「明治三庚午年改 神県御役人附」に「望月善一郎源久正」(神奈川県企画調査部県史編集室 1973, p. 1046.)の名がそれぞれ見え、同一人物とみて間違いなさそう。
- ^ 長谷川 2015, p. 132.
- ^ 中島 1993, pp. 450–454.
- ^ 「相楽をめぐる多方面にわたる諸事実は、既にこの本以上のものを期待できない現状にあり、『相楽総三関係史料集』と共に最も基本的な文献である」(高木 1974, p. 169.)
- ^ 「長谷川伸氏の『相楽総三とその同志』、水野純氏の「偽官軍考」、高木俊輔氏の『明治維新草莽運動史』をはじめとする一連の諸研究は、それぞれの立場と史料から相楽総三とその同志について、精緻な研究を展開されている」(中島 1993, p. 307.)
- ^ 長谷川 2015, p. 198. 落合は『薩邸事件略記』、金井は『史談会速記録』にそれぞれ証言を残している。渋谷のほか、同じく関東取締出役だった安原燾作と馬場俊蔵の屋敷も同時に襲撃を受けており、金井の証言にあるような散々な被害は安原邸のものっぽい(淀川 2000, p. 112.)。
- ^ 淀川 2000, p. 111.
- ^ 中根 2012, p. 188.
- ^ これだけだと「昌翁」という名前かもわからないが、『渓中文人録』中「渋谷忠徳」の項に「幕臣澁谷昌に養子し其家名を継ぐ」とあり(渋谷・大塚 1923, p. 139.)、『耕南古稀紀念』の経歴紹介にも「幼時、舊幕臣澁谷昌の養子となる」とあるから(渋谷 1927, p. 97.)、ここでの「翁」は敬称である。
- ^ 現在の甲府市相生1丁目の一部。
- ^ (引用者注)正確には斬首なので、切腹より重いはず。
- ^ (引用者注)襲撃の際、鷲郎は出張廻村中で邸にはいないはずだから、記憶違いだろう。信乃よりはむしろ俊が誤ったものではないかなと思う。
- ^ ただし薩摩出身とは限らず、ひと暴れしたい草莽浪士たちが全国各地から薩摩藩邸に集まっていたのである。たとえば、この襲撃に参加したという峰尾小一郎忠通は武州駒木野の出身である(長谷川 2015, p. 198.)。
- ^ 牛米 2005, p. 108.
参考文献
[編集]- 牛米努「幕末期の関東取締出役」(関東取締出役研究会 編『関東取締出役 シンポジウムの記録』岩田書院、2005年)
- 神奈川県企画調査部県史編集室 編『神奈川県史 資料編』15 近代・現代(5)、神奈川県、1973年
- 神奈川県立図書館 編集・発行『神奈川県史料』第8巻 附録部1、1972年
- 須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』吉川弘文館、2010年
- 高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974年
- 中島明『幕藩制解体期の民衆運動:明治維新と上信農民の動向』校倉書房、1993年
- 中根賢「幕末期の浪士徘徊と広域治安連携:薩摩藩邸焼き討ち事件後の武蔵・相模」(関東近世史研究会 編『関東近世史研究論集』第3巻、岩田書院、2012年)
- 渋谷俊・大塚源一郎 共編『渓中文人録』柳正堂書店、1923年
- 渋谷俊 編著『耕南古稀紀念』偕老荘出版部、1927年
- 渋谷俊郎 編集・発行『渋谷俊遺稿集』1986年
- 長谷川伸『相楽総三とその同志』講談社学術文庫、2015年(初出:1940年 - 1941年『大衆文芸』連載、底本:『長谷川伸全集 第7巻:相楽総三とその同志/相馬大作と津軽頼母』朝日新聞社、1971年)
- 宮内公美 答問「地方の警察民政等八州取締代官手代の事」(『旧事諮問録』第5編、旧事諮問会、1891年)
- 淀川好幸「出流山事件余聞:関東取締出役屋敷襲撃事件をめぐって」(小島日記研究会 編『小島日記』32、小島資料館、2000年)