利用者:Unclejam/sandbox/1985年の阪神タイガースのリーグ優勝
1985年の阪神タイガースのリーグ優勝では、1985年10月16日に明治神宮野球場で行われたプロ野球セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」)の阪神タイガース(以下「阪神」)対ヤクルトスワローズ(以下「ヤクルト」)第26回戦の試合内容、およびこの試合により阪神が21年ぶりに優勝したことに伴う社会的影響について取り上げる。
この項目では、2022年現在阪神タイガースにとって唯一の日本一(日本シリーズ優勝)が決定した試合である、同年11月2日に西武球場で行われた1985年日本シリーズ第6戦についても記述する。
優勝までにいたる経緯
[編集]阪神タイガースは1964年に優勝して以来20年以上にわたって優勝から遠ざかっており、最後の優勝から20年となる1984年シーズンも勝率.434でリーグ4位に終わった。この年まで監督を務めていた安藤統男が辞任したことにより、翌1985年からは吉田義男が1977年以来8年ぶりに監督に復帰することが決定した。
1985年シーズンは開幕戦こそ敗北したもののその後は勝ち星を重ね、4月を9勝3敗1分の貯金6で乗り切って開幕ダッシュに成功する。特に、開幕直後の対読売ジャイアンツ(以下「巨人」)2回戦において阪神打者が3者連続でバックスクリーン本塁打を放って勝利した試合は、バックスクリーン3連発と呼ばれ大いに盛り上がりを見せた。このシーズンの特徴として、ニューダイナマイト打線と呼ばれる強力打線が活躍したことによって前半戦は首位と3ゲーム差の2位で折り返しており、例年と比較して優勝を期待させる戦いぶりを見せていた。
後半戦は、いわゆる死のロードを5連勝してスタートするものの、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故によって中埜肇球団社長が帰らぬ人となりショックを受けた選手たちは6連敗を喫する。8月終了時点で阪神は首位だったものの、2位巨人と0.5ゲーム差、3位広島東洋カープ(以下「広島」)と1.0ゲーム差の混戦状態であった。9月に対広島戦を2連勝してから阪神は大きく勢いづいて、この月の成績は13勝5敗1分となり、優勝争いをしていた巨人と広島が失速したことも相まって、優勝へと大きく前進する。
9月11日にはマジック11が点灯。世間では阪神優勝が確実視され、達成すれば21年ぶりとなる阪神優勝に期待を寄せる阪神ファンたちは大いに盛り上がりを見せ、関西地区では大きな社会現象と化した。
10月9日の対ヤクルト22回戦に9対8で勝利しマジック6、10月10日の対ヤクルト23回戦に7対0で勝利しマジック5、10月12日の対広島25回戦で5対4で勝利しマジック3、そして10月14日の対広島26回戦で7対3で勝利しマジックを1にまで減らし、この4連勝でマジックを5減らして優勝へとさらに加速し、1引き分け以上で優勝が決定する状況となった。 連勝中の阪神は次戦10月16日の対ヤクルト24回戦が最速の優勝決定試合になるため、この試合には多くの阪神ファンが期待を寄せることとなる。
阪神優勝
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開催日時 | 1985年10月16日 | ||||||
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開催球場 | 明治神宮野球場 | ||||||
監督 | |||||||
観客数 | 約50,000人 | ||||||
試合時間 | 3時間29分 |
1985年10月16日、阪神タイガースはビジター球団として神宮球場でヤクルトとの24回戦を迎える。優勝と監督胴上げの瞬間を見ようと駆けつけた阪神ファンたちによって、2日前の時点で神宮球場外野入り口の14番ゲートには徹夜組が出ていた。優勝に伴う阪神ファンの暴動を抑えるべく、試合当日の神宮球場にはガードマン470人、機動隊員30人を含む警察官100人、学生アルバイト700人が動員され、厳重な警備態勢が敷かれた。
試合開始は18時20分。先攻は阪神、後攻はヤクルト。1回表の阪神の攻撃は、ヤクルト荒木大輔投手の初球を阪神1番真弓明信が打ち上げてセカンドフライにとられるところから始まる。2回裏、ヤクルト4番杉浦享が阪神ゲイル投手から34号ソロ本塁打を放ち、阪神に対して先制の1点を決める(阪神0-1ヤクルト)。4回表、この回先頭打者の阪神1番真弓がヤクルト荒木投手から33号ソロ本塁打を打って阪神1-1ヤクルトの同点に並ぶ。さらに6回表、阪神2番吉竹春樹が三塁打で出塁し、続く3番バースが52号ツーラン本塁打を打ち、阪神3-1ヤクルトで勝ち越す。しかしその6回裏で四球を与えたことや、ヤクルト2番角富士夫の活躍、ゲイルから交代した阪神福間納投手が打ち取られたことにより、阪神3-5ヤクルトで阪神が2点ビハインドとなる。息詰まる攻防で7,8回は両チームとも無得点となり、阪神側のコールド負けによる敗色が濃厚となった9回表、阪神4番掛布雅之が39号ソロ本塁打で1点を返す(阪神4-5ヤクルト)。さらに阪神5番岡田彰布が二塁打で二塁へ出塁、6番北村(代打)のバントで二塁岡田が三塁へ進み、7番佐野(代打)の犠牲フライで三塁岡田が本塁へ帰りもう1点を追加、阪神5-5ヤクルトの同点に追いつく。9回裏を無失点に抑えた阪神は、延長10回に突入。1985年当時のセ・リーグ規則では試合開始から3時間20分が経過した場合はそれ以上の延長を行わないという規則があったため、10回打ち切りが事実上確定となる。10回表に阪神は無得点だったものの、10回裏は後攻ヤクルトが二死の状況下でヤクルト2番角の打球を阪神中西清起投手がピッチャーゴロにとり3アウト試合終了。阪神5-5ヤクルトで引き分けた阪神タイガースは試合が終了した21時59分この瞬間に21年ぶりのリーグ優勝が決定した。引き分けによる優勝決定はセ・リーグにとって初の優勝事例となった。
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順位 | 4月終了時[1] | 5月終了時[2] | 6月終了時[3] | 7月終了時[4] | 8月終了時[5] | 9月終了時[6] | 最終成績[7] | |||||||
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1位 | 阪神 | -- | 阪神 | -- | 阪神 | -- | 広島 | -- | 阪神 | -- | 阪神 | -- | 阪神 | -- |
2位 | 大洋 | 1.5 | 巨人 | 0.5 | 広島 | 0.5 | 阪神 | 2.0 | 巨人 | 0.5 | 広島 | 7.5 | 広島 | 7.0 |
3位 | 中日 | 2.0 | 広島 | 4.0 | 巨人 | 2.5 | 巨人 | 3.0 | 広島 | 1.0 | 巨人 | 8.0 | 巨人 | 12.0 |
4位 | 広島 | 2.5 | 中日 | 大洋 | 5.0 | 大洋 | 9.5 | 中日 | 9.5 | 中日 | 13.5 | 大洋 | 14.5 | |
5位 | 巨人 | 4.5 | 大洋 | 4.5 | 中日 | 10.5 | 中日 | 11.0 | 大洋 | 11.0 | 大洋 | 15.0 | 中日 | 15.0 |
6位 | ヤクルト | 7.5 | ヤクルト | 11.0 | ヤクルト | 14.5 | ヤクルト | 19.5 | ヤクルト | 20.0 | ヤクルト | 22.0 | ヤクルト | 26.5 |
期間 成績 |
9勝3敗1分 勝率.750 |
12勝10敗 勝率.545 |
10勝7敗3分 勝率.588 |
9勝9敗 勝率.500 |
13勝10敗1分 勝率.565 |
13勝5敗1分 勝率.722 |
8勝5敗1分 勝率.615 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪神タイガース | 74 | 49 | 7 | .602 | 優勝 |
2位 | 広島東洋カープ | 68 | 57 | 5 | .544 | 7.0 |
3位 | 読売ジャイアンツ | 61 | 60 | 9 | .504 | 12.0 |
4位 | 横浜大洋ホエールズ | 57 | 61 | 12 | .483 | 14.5 |
5位 | 中日ドラゴンズ | 56 | 61 | 13 | .479 | 15.0 |
6位 | ヤクルトスワローズ | 46 | 74 | 10 | .383 | 26.5 |
試合が行われた神宮球場では、厳戒な警備態勢が功を奏しファンが一人にもスタンドに乱入すること無く、吉田監督の胴上げが行われた。吉田監督は5回宙に舞い、続いて掛布、川藤幸三、バース、岡田が胴上げされた。
念願の球団初の日本一達成を目標に、阪神は日本シリーズに進出することとなった。
阪神日本一
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開催日時 | 1985年11月2日 | ||||||
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開催球場 | 西武ライオンズ球場 | ||||||
監督 | |||||||
観客数 | 32,371人 | ||||||
試合時間 | 3時間10分 |
10月26日から始まった日本シリーズ、阪神の対戦相手はパ・リーグを制した西武ライオンズ(以下「西武」)であった。西武球場で行われた第1,2戦は阪神が制したものの、甲子園球場で行われた第3,4,5戦のうち3,4戦目は西武が勝利。しかし甲子園球場での第5戦を制し3勝した阪神は、4勝先取でシリーズ優勝決定となる日本シリーズにおいて日本一に王手をかけ、第6戦もしくは第7戦の勝利で日本一になる状況となった。
11月2日、西武球場で行われた日本シリーズ第6戦。試合開始は13時02分。先攻は阪神、後攻は西武。1回表は二死の状況で阪神3番バースが四球により出塁、4番掛布と5番岡田も連続安打で出塁したことにより走者満塁、6番長崎慶一がシリーズ2号満塁本塁打を放ったことによって一挙に4点先制した。対する西武も1回裏に先頭打者の西武1番石毛宏典がソロ本塁打で1点を返し、阪神4-1西武となる。2回表は二死から1番真弓がシリーズ2号ソロ本塁打を放ち阪神5-1西武。4回裏に西武3番田尾安志の安打と西武4番スティーブの二塁打で西武が1点を返し阪神5-2西武。5回表に1番真弓の四球、2番弘田澄男の安打、3番バースの四球で阪神走者満塁の状況となり、4番掛布の犠牲フライで1点を追加し阪神6-2西武。7回表では一死の中で1番真弓がヒット出塁、2番弘田の送りバントで二死二塁、3番バースの適時打で1点を追加し阪神7-2西武。9回表では1番真弓が二塁打で無死二塁出塁、二死後に掛布がシリーズ2号ツーラン本塁打を打って2点を追加し阪神9-2西武。9回裏で西武6番秋山幸二による適時打で1点を反撃されたものの後続を抑え、最後は西武7番伊東勤の打球をゲイル投手がピッチャーゴロにとりスリーアウト試合終了。阪神9-3西武。1985年11月2日16時12分が阪神タイガース初の日本一達成の瞬間となった。
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日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 |
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10月26日(土) | 第1戦 | 阪神タイガース | 3 - 0 | 西武ライオンズ | 西武ライオンズ球場 |
10月27日(日) | 第2戦 | 阪神タイガース | 2 - 1 | 西武ライオンズ | |
10月28日(月) | 移動日 | ||||
10月29日(火) | 第3戦 | 西武ライオンズ | 6 - 4 | 阪神タイガース | 阪神甲子園球場 |
10月30日(水) | 第4戦 | 西武ライオンズ | 4 - 2 | 阪神タイガース | |
10月31日(木) | 第5戦 | 西武ライオンズ | 2 - 7 | 阪神タイガース | |
11月1日(金) | 移動日 | ||||
11月2日(土) | 第6戦 | 阪神タイガース | 9 - 3 | 西武ライオンズ | 西武ライオンズ球場 |
優勝:阪神タイガース(初優勝) |
社会的影響
[編集]優勝決定時の盛り上がり
[編集]多くの阪神ファンを擁する関西地区では阪神優勝時に阪神ファンが狂喜乱舞をした。非常に危険な行為であるが道頓堀(大阪府大阪市中央区)に阪神ファンが飛び込んだり、暴徒化したファンがケンタッキーフライドチキン道頓堀店に設置されていたカーネル・サンダース像を道頓堀に放り込んだエピソードは有名である。
大阪有数の繁華街である梅田(大阪府大阪市北区)では、阪神ファンが夜通し御堂筋を行進しながら合唱する光景が見られた。
阪神タイガースの系列企業である阪神百貨店では優勝記念セールが行われた。阪神百貨店のみならず、阪神とは全くゆかりの無い企業や店が独自に優勝セールを開くこともあった。中には、球団の許可を取らずに阪神グッズを製作して発売していたケースもあるため、優勝に伴う正確な経済効果を把握するのは難しくなっている。
1985年10月16日の阪神優勝決定試合のテレビ中継(関西テレビ)は、関西地区で平均視聴率56.7%、瞬間最高視聴率74.6%を記録し、関西地区における野球中継の視聴率としては最高記録となっている。
社会現象
[編集]当時の阪神ファンは「トラキチ」[注 1]と呼ばれており、阪神優勝に伴い全国的に阪神ファンの熱狂度が広く知られたことによって、「トラキチ」という言葉は1985年の流行語大賞銀賞を受賞した。阪神タイガース私設応援団長の松林豊が阪神ファンを代表して流行語大賞の授賞式に招待されている。
阪神タイガースの球団歌である『阪神タイガースの歌』(通称・六甲おろし)も全国的に知れ渡り、その年のカラオケの歌唱回数で上位につけている。
阪神タイガース主催試合の観客動員数について、優勝前年の1984年が193.4万人だったのに対し、1985年は260.2万人と大幅増。当時としては球団創設以来最も観客数が多いシーズンとなった[注 2]。
阪神フィーバーを受け、国鉄(現在のJRの前身)[注 3]は1985年9月7日と9月15日に「猛虎号」[注 4]と名前のついた電車を走行している。9月7日に走行した猛虎号は、その日に広島市民球場で試合が行われる阪神対広島21回戦[注 5](結果阪神9-6広島)に大阪の阪神ファンを送るために大阪から広島間を走行した。9月15日の猛虎号は新幹線であり、甲子園球場で試合が行われる中日対阪神22回戦(結果中日0-2阪神)に東京の阪神ファンを送るため東京から大阪間を走行した。
その後の阪神タイガース
[編集]翌1986年はリーグ3位に沈み、さらに日本一からわずか2年しか経っていない1987年には球団歴代ワースト勝率でリーグ最下位になってしまう。それ以降は2003年まで18年にわたり優勝から遠ざかり、特にシーズン成績が悪かった1987年から2001年までの15年間は14回のBクラス入りと10回の最下位を記録し、ファンからは「暗黒時代」とまで呼ばれた。
しかし暗黒時代脱却以降は安定してAクラス入りをしており、リーグ内でも安定した強さを持つ球団となっている。
関連項目
[編集]- 阪神ファン
- 阪神タイガースの歌 - 阪神タイガースの球団歌。愛称「六甲おろし」。
- バックスクリーン3連発
- 1985年の野球
- 1985年の阪神タイガース
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「トラ」(タイガース)+「きちがい」の造語である。この場合における「きちがい」は「マニア」などと同様の意味で用いられているため侮蔑的な意味合いは無く、阪神ファン自身が「トラキチ」を自称することが多々ある。
- ^ 球団における観客動員数記録は、阪神タイガースが優勝争いに加わった1992年に再び更新された。
- ^ 1950年から1965年までは国鉄自身もプロ野球球団国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を経営していた。
- ^ ただし、優勝前年の1984年12月2日にも猛虎号は走行している。1984年の猛虎号は、牽引機がEF58 150、客車が12系客車である。
- ^ この時点での阪神は首位であったが、2位の広島とはわずか1ゲーム差だった。広島相手には7勝13敗で負け越している状況下でもあった。