利用者:Tkmasher/sandbox
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エヴリヤ・チェレビ Evliyâ Çelebi | |
---|---|
誕生 |
1611年3月25日 オスマン帝国、イスタンブル |
死没 |
不明(1685年以降) オスマン帝国、カイロ |
職業 | ムアッズィン、軍人、旅行家 |
言語 | オスマン語 |
ジャンル | 紀行文学 |
代表作 | 『旅行記』 |
エヴリヤ・チェレビ(オスマン語 اوليا چلبي Evliyâ Çelebî, トルコ語 Evliya Çelebi )(1611年3月25日(?) – 1685年(?)はオスマン帝国時代のムアッズィン・軍人・旅行家。
70年余りの生涯の間に当時のオスマン帝国の支配地域および周辺の多くの地域を旅し、晩年に自らの見聞をまとめた大著『旅行記』(en)を著した。
概略
[編集]青少年期
[編集]生い立ち
[編集]エヴリヤ・チェレビは自身の記述によると、ヒジュラ暦1020年のアーシューラーの日(1611年3月25日)にイスタンブルで生まれた。ただしエヴリヤは人生上の重大な出来事の日付をアーシューラーの日に合わせる傾向があり、この誕生日の日付もフィクションであるとみられている[1]。
エヴリヤの父デルヴィーシュ・メフメト・ズッリーは宮廷の宝石・貴金属細工師長を勤めていた。母親の名前は明らかではないが、アバザ人で、後にエヴリヤの主君となるメレキ・アフメト・パシャ(en)の従姉妹であった。
エヴリヤは初等教育を終えた後、マドラサとダールルクッラー(tr)(クルアーン暗誦者の育成校)での教育を平行して受けたものとみられる。マドラサ教育については、シャイヒュルイスラム・ハミト・エフェンディのマドラサに7年間通った[2]。N. ゲミジの推定によればエヴリヤが教育を受けた時期は18歳頃から25歳までの間であり、おそらく修了することなく途中で終えた[3]。
クルアーンの暗誦に関しては、カラマン地区にあるダールルクッラーの教育を11年間受けた[4]。さらにスルタン専属のイマームであったエヴリヤ・エフェンディに師事し、十通りあるクルアーンの正当な読誦法のうちハフスの読誦(Hafs kırâ'ati)とイブン・カスィールの読誦(İbn Kesîr kırâ'ati)を暗記し、またタジュウィード(発生学)に関するシャーティビーとイブン・アル=ジャザリーの書を暗記した。エヴリヤ・エフェンディの死後にも別の師の下で学習を続け、やがて正統七読誦(Seb‘a kırâ'ati)全てを暗記した[5]。
旅の始まり
[編集]以上のように宮廷との結びつきをもつ父の人脈を通じ、恵まれた教育を受けていたエヴリヤであるが、一方で彼は父母、師、兄弟との関わりに重圧を感じており、旅人となる願いを抱き続けていた。
ヒジュラ暦1040年のアーシューラーの日(1630年8月19日)、エヴリヤは夢の中で教友サアド・イブン=アビー・ワッカース(en)から世界の旅人となる運命を告げられ、預言者ムハンマドから祝福を受けたという。この時以来、彼は世界を旅し、その記録を残すことを自らの天命であると信じるようになった。
それからエヴリヤはまずイスタンブルおよび周辺の集落、庭園を巡る旅を始め、それらの地誌の記述に取り掛かった[6]。
宮廷入り
[編集]ヒジュラ暦1045年ラマダーン月のライラトル・カドル(en)(1636年3月5日)、エヴリヤは父の強い勧めを受け、アヤソフィアでクルアーンの読誦を行った。この読誦がスルタン・ムラト4世の目に留まったことでエヴリヤは宮廷に入ることを許され、以降2年間内廷での教育を受ける。
ある日、当時スルタンの太刀持ちを務めていたメレキ・アフメト・アー(後のパシャ)らの仲介によりムラト4世に謁見したエヴリヤは、御前で話芸や音楽の才能を示し、その朋友として迎えられた。ムラト4世はエヴリヤの機知に富んだ話しぶりや巧みな冗談を大いに気に入った。ムラトはエヴリヤを「苦悩を取り払う者」と呼び、落胆した時には他の朋友たちが「エヴリヤを連れてこい」と助けを求めるほどだったという[7]。
1638年、エヴリヤは宮廷での教育を終え、常備軍騎士(sipâh)に任命された[8]。
ブルサ旅行、イズミト旅行
[編集]1640年、エヴリヤは友人に誘われ、初めての他都市への旅としてブルサへの旅行を行った。4月27日、エヴリヤは父母兄弟に黙ってエミノニュ(en)からムダンヤ(en)行きの船に乗り込み、ヘイベリアダ(en)、ムダンヤ、ブルサ、アルムトル(en)、アヤステファノス(en)を訪れ、1640年6月16日にイスタンブルに戻った[9]。
両親に再会した時、父メフメト・ズッリーは「ようこそ、ブルサの旅人よ」と言ってエヴリヤを迎える。自分がブルサにいたことをどうやって知ったのかと不思議がるエヴリヤに、父はエヴリヤが旅立った夜、夢の中で彼からブルサのエミール・スルタン廟を訪れることを許すよう懇願され、願いを聞き入れたことを告げる。父はエヴリヤが旅人となることを認め、それから旅人として、信仰者として守るべき倫理について忠告を与える。そしてエヴリヤに、自らが訪れた土地について記録し、『旅行記』 Seyahatnâme という名の書物を著すことを命じる[10]。
こうして父から旅人として認められたエヴリヤは、それから間もない6月22日に第二の旅に出発した。目的地のイズミトの他、ヤロヴァ、クズル諸島(en)を訪れ、1640年7月22日にイスタンブルに戻った[11]。
トラブゾンへの派遣、アゾフ遠征
[編集]エヴリヤがイズミト旅行から戻ってからほどなくして、父メフメト・ズッリーがトラブゾン州総督ケテンジ・オメル・パシャの総督代理(kapı kethüdası)になると、メフメトはエヴリヤをトラブゾンに派遣することを決めた。1640年9月18日に出発したエヴリヤは、海路でスィノプ、サムスン、ギレスンを訪れたのち目的地のトラブゾンに到着した。[II, 244b-248b]
トラブゾン滞在後、州総督ケテンジ・オメル・パシャがグルジアとミングレリアに使者を送ると、エヴリヤもそれに同行した。エヴリヤはそのままトラブゾンに戻らず、ゴニオ(en)駐留軍 が行ったアゾフ遠征に加わった。アゾフは1637年以来ドン・コサックの占領下にあり、当時オスマン朝はその奪還を目指していたのである。遠征軍と共にアブハジアの諸地域を通過し、アナパに至ったエヴリヤは、その後同地に停泊した帝国艦隊に合流し、1641年夏[12]に行われたアゾフ包囲戦に参加した。[II, 254a-255b, 257a-258a, 259a-262b]
アゾフ攻略が失敗に終わった後、エヴリヤはイスタンブルへ引き返す艦隊から離脱し、包囲戦に協力していたクリミア・ハンの軍勢に加わってクリミアに向かう。クリミア・ハンのバハドゥル・ギライ1世(tr)に客人として迎えられたエヴリヤは、その年の冬をバフチサライで過す。クリミア滞在中、エヴリヤはクリミア・タタール軍が行ったロシア帝国領内への襲撃に何度か参加している。[II, 262b-264a]
海難事故
[編集]1642年[13]にドン・コサックの撤退によりアゾフが無血で奪還された後、エヴリヤはハンからイスタンブルに戻る許しを得て、バラクラヴァからイスタンブル行きの船に乗った。
ところが黒海の真ん中まで来た時、天候が急変して大嵐になり、彼が乗った船は船体が真っ二つになって沈没してしまう。沈没の直前、数人の異教徒がボートに乗り込んで逃げ出そうとしているのを見たエヴリヤは、友人たちと共に剣を抜いて襲い掛かり、ボートを奪い取って乗り込んだ。多くの人々が海に投げ出され、一部は助けを求めてボートまで泳いできたが、到底乗せきれないとみたエヴリヤたちは剣を振るって追い払った。それから三日間漂流を続けるが、やがてそのボートも大波に遭って転覆してしまう。海に投げ出されたエヴリヤは必死に泳いで近くに浮かんでいた木材にしがみつき、さらに一昼夜漂流した後、黒海西岸のカリアクラ(en)に漂着した。
心身を大きく損なったエヴリヤは、その後同地にあったベクタシー教団のケリグラ・スルタン修道場で長期間療養する。[II, 264b-266a] 8ヶ月間、同修道場のデルヴィーシュたちと歓談に耽った後に帰路につき、1642年10月25日[14]にイスタンブルに戻った。[II, 267b-268a] この経験はエヴリヤにとってトラウマとなり、これ以降、彼は長距離の船旅を避けるようになる[15]。
その後しばらく、エヴリヤはイスタンブルに留まったものとみられ、その間に税関長(gümrük emini)アリー・アーのイマームとなっている。[II, 268a-268b]
有力者の家臣としての活動
[編集]スィラーフダール・ユスフ・パシャ時代(1645)
[編集]1645年、その後24年に渡って続くことになるクレタ戦争(en)(第5次オスマン・ヴェネツィア戦争)が始まると、エヴリヤは総司令官スィラーフダール・ユスフ・パシャ(en)の首席ムアッズィン(müezzinbaşı)として遠征に加わった。
イスタンブルを出港した艦隊はナヴァリノ(ピュロス)停泊後、クレタ島に渡って大軍を上陸させ、激戦の末ハニアを征服する。司令官ユスフ・パシャは城の守りを固め、周辺諸都市を服属させ、駐留軍を置いた後にクレタ島を離れた。艦隊は途中でヴェネツィア領ティノス島を攻撃した後、イスタンブルに帰還した。[II, 268b-273b]
デフテルダールザーデ・メフメト・パシャ時代(1646-48)
[編集]1646年、エヴリヤは新たにエルズルム州総督に任命されたデフテルダールザーデ・アフメト・パシャの首席ムアッズィン、側近(musahib)および税関の書記となった。サファヴィー朝との国境に位置するエルズルム州での活動は、エヴリヤに国境を越えて隣国支配下のアゼルバイジャンやコーカサスを訪れる機会を与えた。
サファヴィー領アゼルバイジャン、コーカサスの旅
[編集]まず、オスマン朝とイランとの約定に反してサファヴィー朝領内での略奪を行っていたショシキ(現アール県ハムル郡カルルジャ、tr)の城主に対する懲罰遠征が行われると、エヴリヤはトルトゥム県総督セイディー・アフメト・パシャ(tr)率いる前衛部隊に加わった。ショシキ攻略後、遠征軍は逃亡した城主を追ってサファヴィー領内のマークー(en)にまで至った。
ショシキ遠征の直後、エヴリヤは交易振興のための使節としてタブリーズに派遣される。エヴリヤは往路にエチミアジン、ナヒチェヴァン、マランド(en)を訪れ、タブリーズ到着後にはアルダビールまで足を延ばした。帰路には今日のアルメニア、ダゲスタン、グルジアを通るルートを取り、エレバン、バクー、デルベント、カルトリ王国(en)のトビリシ、オスマン領のアハルツィヘなどを訪れた。1647年、タブリーズ使節から戻って10日後にはエレバンからエルズルムに向かう隊商の安全確保の任務を受け、カルスとキャウズマン(en)を訪れた後、エチミアジンとエレバンを再訪した。
その後、イスタンブルからデフテルダールザーデ・メフメト・パシャの許に勅命が届き、エレバン方面での戦役のため兵力を招集するよう命じられると、エヴリヤは使者としてジャンジャ(ギュミュシュハーネ)、トルトゥム(en)へと派遣される。その時コサックによるゴニオ襲撃の報が届き、トルトゥム県総督セイディー・アフメト・パシャが独断で救援のための遠征を行うと、エヴリヤも同行し、ゴニオでの戦闘および、引き続いて行われたグルジア、ミングレリア方面への襲撃に加わった。1647年11月1日、エヴリヤはセイディーと共にエルズルムに戻った。
ヴァルヴァル・アリー・パシャの乱
[編集]1647年9月16日、デフテルダールザーデの庇護者であった大宰相サーリフ・パシャ(en)が処刑され、5日後に政敵のテズケレジ・アフメト・パシャ(en)が大宰相に就任した[16]。デフテルダールザーデはこの政変が自分にとって不利に働くと考え、中央に反抗する意思を固める。[II, 333b, 338a-338b]
1647年12月15日、エルズルム州総督を解かれたデフテルダールザーデはイスタンブルへの帰路に就く。出発後、都からカルス州総督への降格の辞令が届くが、彼はこれを無視して西進を続ける。ここで当時、政治の不正を訴えるべくユスキュダルに向けて進軍を開始していたスィヴァス州総督ヴァルヴァル・アリー・パシャ(tr)の使者が訪れると、デフテルダールザーデはヴァルヴァルへの合流を決意し、周辺に使者を派遣して非正規兵を集め始めた。[II, 338b-342a]
エヴリヤ自身は反乱軍の一員となることに戸惑いもあったようだが、心情的にはヴァルヴァルらの立場に共感を寄せていたものとみられ、非正規兵の雇用や使者、地元住民との交渉などの任務を抵抗なく引き受けている[17]。
1648年2月22日、十分な兵力を集めたデフテルダールザーデはメルズィフォン(en)から進軍を開始し、およそ2か月後にアンカラに至る。兵団がアンカラからイスタノズ(現在のイェニケント[18])へと移動した際、エヴリヤは使者としてアマスィヤ近郊にいたヴァルヴァル・アリー・パシャの許に派遣され、行動を共にした。ヴァルヴァルの軍勢はその後、チャンクルのクルシュンル山 Kurşunlu Dağı の麓における戦闘でキョプリュリュ・メフメト・パシャ(en)率いる討伐軍を打ち破った。しかし1648年5月20日 、チェルケシュ(en)においてヴァルヴァルはイプシール・ムスタファ・パシャ(en)に敗れ、処刑される。[360a-366b]
父の死
[編集]ヴァルヴァルの敗死後、エヴリヤはデフテルダールザーデの許に引き返した。ベイパザル(en)滞在中、エヴリヤの許にイスタンブルから父デルヴィーシュ・メフメト・ズッリーの訃報が届けられると、エヴリヤはパシャから許しを得て兵団を離脱し、1648年7月21日にイスタンブルに帰還した。エヴリヤは母、姉妹と再会した後、父の墓を訪れ、遺産を相続した。[II, 366b-369b]
スィラーフダール・ムルタザ・パシャ時代(1648-50)
[編集]1648年8月8日に始まった政変の結果、大宰相テズケレジ・アフメト・パシャとスルタン・イブラヒムがそれぞれ解任、廃位の後に処刑された。デフテルダールザーデ・メフメト・パシャはこの政変を受けてイスタンブルに戻り、新たに大宰相となったソフ・メフメト・パシャ(en)と面会し、マラティヤ県総督位を与えられた。
当時メッカ巡礼を志していたエヴリヤは、任地へと向かうデフテルダールザーデと別れ、代わってシャーム州総督スィラーフダール・ムルタザ・パシャの首席ムアッズィンとなった。
1648年10月28日、エヴリヤはムルタザと共に任地であるダマスカスへと到着した。その後使者として一時期イスタンブルに戻り、翌1649年1月からはムルタザ・パシャが行った州内の税収確保を目的とした遠征に同行し、レバノン、パレスチナの諸地域を旅した。
その後、ムルタザはスィヴァス州総督に転任となった。任地に向かう途中、アレッポで一時エヴリヤはムルタザの許を離れ、使者としてウルファに派遣された。エヴリヤはこの機会にアナトリア南東部、中央部の諸都市を訪れた後、ムルタザの待つスィヴァスへと向かった。スィヴァス州での活動中には負債徴収の任務を受けてアナトリア東部に向かい、ディヴリーイ(en)、ムシュなどを訪れている。
ムルタザはスィヴァス州総督を8ヵ月務めた後、解任されてイスタンブルに呼び戻された。1650年5月2日、エヴリヤはムルタザと共にスィヴァスを発ち、7月14日にイスタンブルに帰還した。
メレキ・アフメト・パシャ時代(1650-59)
[編集]大宰相、オチャコフ州総督、ルメリ州総督時代
[編集]1650年7月30日、エヴリヤは母方の親族であり、かねてより親交のあったメレキ・アフメト・パシャ(en)の首席ムアッズィン、側近となった。メレキはその直後に大宰相就任が決まり、約1年間務めた。
1651年8月21日、メレキは大宰相を解任され、オチャコフ州総督に任じられた。メレキの一行は任地へと急がず、ルセに40日間、ババダグ(en)に1ヶ月滞在するなどトラキア・ドブロジャ地方をゆっくりと進んだ。この間にエヴリヤはニコポルでの徴税、イスタンブルへの使者などの任務を受けている。
ババダグ滞在中の1652年11月末、大宰相の交代に伴ってメレキはオズィ州総督を解任され、ルメリ州総督に任命された。これにより一行は行先を変え、スタラ・ザゴラ、プロヴディフを経てソフィアへと向かった。
1653年5月30日、メレキは中央に呼び戻された。7月にソフィアを発った一行は、エディルネを経てイスタンブルに戻った。
ディヤルバクル、ビトリス、ヴァン
[編集]1654年11月28日、病床にあったコジャ・デルヴィーシュ・メフメト・パシャ(en)が大宰相を解任されると、後任が決まるまでの間メレキが大宰相代理を務めることになった。後任はメレキの親族であり、当時アレッポ州総督を務めていたイプシール・ムスタファ・パシャ(en)に決まった。エヴリヤはイプシールに印璽(mühr-i hümâyûn)を届ける使者に任じられ、コンヤまで行ってイプシールを迎えた。
イプシールとメレキの関係はその後急速に悪化し、1655年2月27日、メレキはヴァン州総督に任じられて中央から追いやられた。エヴリヤはメレキの命を受け、イプシールの意図と動向を探るためイスタンブルに留まるが、その後イプシールがメレキの資産の一部を押収し、有力家臣を処刑するなどの挙に出ると、窮状を伝えるためイスタンブルを脱出した。エヴリヤはベイパザルでメレキに追いつき、イプシールに対抗できるだけの兵力を集めるよう進言した。
一行は道中で非正規兵や兵糧を確保しつつ、任地へと向かった。途中、エルガニ(en)でエヴリヤは負債回収のためディヤルバクル州総督の許に派遣され、その過程でディヤルバクル、マルディン、スィンジャール(en)、メヤーファーリキーン(スィルヴァン、en)を訪れた。
ヴァン到着後、1655年7月5日にメレキはビトリスの反抗的なクルド人首長アブダル・ハンを排除するための遠征を行い、エヴリヤも従軍した。
イラン、イラクの旅
[編集]1655年9月11日、エヴリヤはサファヴィー朝支配下にあるオルーミーイェへの使節に任じられ、ヴァンを発った。オルーミーイェでの任務を果たした後もエヴリヤはサファヴィー朝領内の旅を続け、タブリーズを再訪した。
1655年10月、エヴリヤはバグダードを目指してタブリーズを旅立ち、その際イラン西部の数多くの都市に立ち寄った。ただしこのイラン旅行についてはルートなどに一部不自然な点があり、創作が疑われる箇所もある。この旅でエヴリヤが訪れたと述べる都市にはソルターニーイェ、サラーブ(en)、アルダビール、ニハーヴァンド、カスレ・シーリーン(en)、アラーク、カズヴィーン、ゴム、カーシャーン、サーヴェ(en)、レイ(en)、ケルマーンシャー、バアクーバなどがある。
1655年12月30日、エヴリヤはバグダードに到着し、当時バグダード州総督を務めていた旧主スィラーフダール・ムルタザ・パシャと再会した。ムルタザから家を与えられたエヴリヤは、ここを拠点に南イラクへの旅に向かい、ヒッラ、クーファ、ナジャフ、サマーワ、ナーシリーヤ、バスラを訪れた。その後、エヴリヤはムルタザ・パシャの婚約者を迎える使者としてアマディヤ(en)に派遣され、そこからバグダードに戻る前にジズレ(en)、ハサンケイフ(en)、ヌサイビン(en)、モースル、ティクリートに立ち寄った。
バグダードからヴァンに戻った後、エヴリヤは使者として一時イスタンブルに戻り、1656年2月28日から1ヶ月余り、イスタンブルで起こった一連の政変(プラタナス事件、en)を目撃した。
ビトリスでの拘留と逃亡
[編集]ヴァンに戻ってから間もなく、エヴリヤは負債の取り立てを命じられてビトリスを再訪した。
当時、ビトリスでは前年夏のメレキ・アフメト・パシャによる遠征の結果、オスマン朝に反抗的であった前ハン(首長)のアブダル・ハンが逃亡に追い込まれ、その息子のズィヤーエッディン・ハンが傀儡のハンに立てられていた。
ところが1656年2月26日、メレキがヴァン州総督を解任されると、それを好機と見たアブダル・ハンがビトリスに復帰する。市内ではメレキに近しい人物に対する粛清が始まり、エヴリヤも危険な立場に立たされる。やがてある夜、自らの目の前で新ハンのズィヤーエッディンが殺害されるのを目撃したエヴリヤは、同僚と二人の奴隷のみを連れてビトリスを脱出し、追手を振り切ってアフラト(en)に逃げ込んだ。
その後、アクサラブでメレキと会ったエヴリヤは、アブダル・ハンの兵がメレキを待ち構えていることを知らせ、ビトリスを避けてエルズルム経由でイスタンブルに戻るルートに進路を変更するよう説得する。一行はそれからマラズギルト(en)、エルズルム、トカトを経て、1656年6月23日にイスタンブルに帰還した。
ベッサラビア、ウクライナ遠征
[編集]1656年7月23日、メレキ・アフメト・パシャはオチャコフ州総督に任命された。任地に向かうメレキの一行は、途中ヴァルナに侵攻したロシア・コサックを撃破し、その後マンガリア(en)へと向かった。マンガリア滞在中、メレキが病に倒れ、エヴリヤは医者を連れてくるため一時イスタンブルに戻った。メレキはシリストラで2か月治療を受けた後、回復した。
1656年、トランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世がオスマン朝の承認なしでポーランドに侵攻したことに対し、ポーランド王から不平を訴える使節が訪れると、オスマン朝はこの要請を受けてラーコーツィに対する懲罰遠征を決定した。翌1657年5月27日、シリストラにいたメレキは遠征参加を命じられ、ベッサラビア地方に向け出征した。エヴリヤはメレキの軍勢と共にババダグ、アッケルマン(ビルホロド・ドニストロフスキー、en)、ベンデルへと行軍し、オルヘイ(en)でラーコーツィに協力するワラキア、モルダヴィアの軍と交戦した。
オルヘイの戦いの後、ホティン(en)においてエヴリヤはメレキの許しを得て、ラーコーツィ追跡の任務を負ったブジャク・タタールの軍勢に加わった。8月25日に出発したタタール軍は、10月2日にリヴィウ付近でラーコーツィの軍勢を撃破したものの、本人は取り逃した。
リヴィウでの勝利の後、タタール軍はポーランド王の要請を受け、王に反抗的なウクライナの諸地域への襲撃を行った。エヴリヤはこの際に訪問、攻撃した都市としてゴロドク(en)、キエフ、ルブヌイ(en)、チェルカースィ、クレメンチューク、カニウ、チヒルィーン、ドリナ(en)、ウーマニなどを挙げている。ウーマニ滞在後、エヴリヤはタタール軍と共に、アッケルマンにいたメレキ・アフメト・パシャの許に戻った。
その後、エヴリヤは使者としてオチャコフ(en)に派遣されたが、滞在中に同市はコサックの襲撃を受けた。1週間の包囲の後コサックが撃退されると、エヴリヤはこの勝報を伝える使者に任じられて一時イスタンブルに戻った。
アッケルマンに戻った後、エヴリヤはメレキと共にキリヤ(en)に行き、城の修復および周辺での物資調達に従事する。その後、メレキはオチャコフ州総督を解任され、1658年1月7日にイスタンブルに帰還した。
メレキ・アフメト・パシャとの離別
[編集]エヴリヤとメレキはそれからしばらくイスタンブルに滞在したが、その後メレキはボスニア州総督に任命され、1659年3月15日にイスタンブルを発った。
出発後、一行が近隣の町で旅の準備を整えていた際、エヴリヤは大宰相キョプリュリュ・メフメト・パシャ(en)との連絡のため、使者として頻繁に両者の間を往復した。この際、エヴリヤを気に入ったキョプリュリュは、メレキに彼を守衛隊長(kapucular kethüdâsı)に任じることを勧める。メレキはこの提案通りにしようとするが、エヴリヤは固辞した。しかしこの一件は自らの地位を脅かされることを恐れた他の家臣たちとの反目を招くことになる。
一行がビュユクチェクメジェ(en)まで来たとき、エヴリヤはパシャの宝庫番(hazînedâr)および守衛隊長と口論になり、刃傷沙汰にまで及んだ。エヴリヤと宝庫番はイスタンブルに送り返されることになった。エヴリヤはボスニアでの再会を約してメレキと別れ、宝庫番と共にキョプリュリュ・メフメト・パシャの許まで連行された。その後宝庫番は解放されたが、エヴリヤは21日間に渡ってイェニチェリ兵舎で拘留された後、キョプリュリュから自らに仕えるよう命じられた。
キョプリュリュ・メフメト・パシャ時代(1659)
[編集]1659年4月、エヴリヤはジェラーリー掃討を目的として、マルマラ海南岸・ダーダネルス海峡周辺で行われた軍事行動に参加した。エヴリヤはスルタン・メフメト4世自らが加わった本隊と共にブルサまで移動する。その後、軍団はボズジャ島(en)とボアズヒサール(現在のチャナッカレに所在)の救援に向けて移動を開始するが、エヴリヤはウルアバト(tr)で一時離脱し、アイドゥンジュクを訪れた。その後キリデュルバフレイン(チャナッカレ)で再度合流した後、ボズジャ島、ゲリボル、マルカラ(en)、ウズンキョプリュを経て1660年10月13日(1年間違えてる? 1071年サファル月8日)にエディルネに到着した。エヴリヤはそれから半月程度、エディルネに滞在した。
ケマンケシュ・アフメト・アー、キョセ・アリー・パシャ時代(1659-60)
[編集]ヤシ遠征
[編集]その頃、モルダヴィアでは前年にワラキア公を解任されていたコンスタンティン・シェルバン(en)が、トランシルヴァニア公に復位していたラーコーツィ・ジェルジ2世の支援を受け、首都ヤシを占領してモルダヴィア公位に就いた。この報を受けたキョプリュリュ・メフメト・パシャはシュテファニツァ・ルプ(en)を新たにモルダヴィア公に指名し、1659年11月9日、大軍を伴わせてヤシ奪還のため出征させた。
エヴリヤは馬乗り台持ち(iskemle ağası)を務めるケマンケシュ・アフメト・アーに仕え、この遠征に従軍した。軍勢は12月5日にヤシ城下でクリミア・タタール軍と合流し、翌日の戦いで敵軍に大勝した。その後、エヴリヤは敵軍を追撃するタタール軍に同行し、ワラキア・モルダヴィアの諸地域の襲撃に加わった。
1659年12月28日、エヴリヤはヤシを離れ、翌1660年2月16日にエディルネに戻った。その後2か月ほど、エヴリヤはエディルネのケマンケシュ・アフメト・アーの家に滞在し、スルタンの側近たちと親交を深めた。
オラデア遠征
[編集]1660年4月27日、エヴリヤはキョセ・アリー・パシャと共に、トランシルヴァニアのオラデア征服に向かう遠征軍に加わった。ベオグラード、ティミショアラを経てオラデアに至った遠征軍は、同市を包囲し、降服させた(1660年8月27日[19])。
オラデア征服後、エヴリヤは征服を知らせる書簡(fetihnâme)をボスニア州総督である旧主メレキ・アフメト・パシャの許に届ける役目を申し付かった。エヴリヤはまずサラエヴォに行き、そこからメレキのいるリヴノへと向かった。
メレキ・アフメト・パシャ時代(1660-62)
[編集]ダルマチア、中央クロアチアの旅
[編集]リヴノに到着したエヴリヤはメレキ・アフメト・パシャと再会し、かつて諍いを起こした宝庫番と和解する。これ以降、彼は再びメレキと行動を共にするようになる。
メレキのいたダルマチア地方は当時、オスマン朝と戦争中であったヴェネツィア共和国との国境地帯であり、常に軍事衝突が起こっていた。エヴリヤの到着後、メレキは中央の命を受け、ザダル、シベニクほかヴェネツィア領の都市を攻撃した。これを受けた周辺都市が和平を求めると、メレキはこれを受け入れ、和平文書(ahidnâme)を届ける使者としてエヴリヤをクリス(en)、スプリトに送った。
エヴリヤがリヴノに戻った後、メレキの一行はバニャ・ルカに移動した。ここでエヴリヤは、敵の捕虜となっていたビハチの司令官(Bihke kapudanı)を身請けするための使者に任じられ、中央クロアチアに向かった。エヴリヤはチャコヴェツでクロアチア総督ミクローシュ・ズリーニ(en)と会い、身請けの任務を果たしてバニャ・ルカに戻り、それから解放されたビハチの司令官を送り届けるためイスタンブルに向かった。バニャ・ルカに戻ったエヴリヤは、褒賞としてズヴォルニクでの徴税の仕事を与えられた。
トランシルヴァニア遠征
[編集]1660年11月15日、ルメリ知事に転任となったメレキはバニャ・ルカを離れ、翌1661年1月初めにソフィアに到着した。一行はそれから4か月ほどソフィアに留まった。
その頃、トランシルヴァニア情勢が再び大きく動き出していた。新たにトランシルヴァニア公となったケメーニ・ヤーノシュはハプスブルク帝国に接近し、オスマン帝国からの分離を宣言した。これを受けてオスマン帝国はケメーニ・ヤーノシュを排除し、新公を擁立するための遠征を決定し、キョセ・アリー・パシャを総司令官に任じた。ソフィアのメレキ・アフメト・パシャの許にも参加の命令が届いた。この時、周辺の諸地域から兵糧と資金を調達する任務はエヴリヤが拝命した。
ソフィアを発ったメレキの一行は、ティミショアラ城下に集結するオスマン軍に合流した。1661年6月28日、進軍が始まり、メレキ率いるルメリ州軍は後衛を務めた。ルゴジ、カランセベシュを経てハツェグ(en)に至ったところで、エヴリヤは「チェテ(çete)」と呼ばれる略奪行動に加わった。軍団はデヴァ、アルバ・ユリア、ゲルラ、クルジュ=ナポカなどを攻撃しつつ北上し、ソメシュ川(en)を渡ってティサ川にまで至る。軍団はそこで戦利品を分配し、やがてメレキらも合流した。
司令官キョセ・アリー・パシャらが新しいトランシルヴァニア公に誰を立てるかを相談した結果、フースト(en)にいるヘリル・ガボル(Helil Gaboru)とコシツェにいるゾロミオール(Zolomioğlu)という人物の名が挙がった。これらの候補者を連れてくる任務がアバザ・サル・ヒュセイン・パシャ率いる兵団に任されると、エヴリヤもこれに同行した。しかし両都市とも町の代表者の賛意が得られず、任務は不首尾に終わる。その後、メレキ・アフメト・パシャの推薦により新公はアパフィ・ミハーイ1世に決まる。
軍団は1661年10月15日にはセーケイ地方(en)に進軍して要塞を攻略した。その後、キュチュク・メフメト・パシャ率いる部隊によりケメーニ・ヤーノシュが討ち取られ、遠征の目的は達成される。軍団は越冬のためベオグラードまで引き返した。
1662年2月半ば、メレキ・アフメト・パシャはイスタンブルに呼び戻される。メレキは帰還する前に、負債の取り立てのためエヴリヤをアルバニア方面に派遣する。エヴリヤはシュコドラ、サモコフ(en)などを訪れた後、ソフィアでメレキと合流し、1662年4月1日にイスタンブルに戻った。
メレキ・アフメト・パシャの死去
[編集]1662年9月1日[20]、メレキ・アフメト・パシャは死去する。政敵に押し付けられた浪費家の皇女ファトマ・スルタンとの結婚により憔悴し、失意の中での死であった。
最大の庇護者を失ったエヴリヤは悲しみに沈んだ。さらに追い打ちをかけるようにイスタンブルで火災が発生し、彼は所有する家と店の一部を失った。
脚注
[編集]- ^ Tezcan, S. (2011).
- ^ Evliya Çelebi: I, 121b.
- ^ Gemici (2012) pp. 189-191, 197.
- ^ Evliya Çelebi: I, 107b.
- ^ Evliya Çelebi: VI, 47b; Gemici (2012) pp. 189-190; 藤木 (2014) p. 138.
- ^ Evliya Çelebi: I, 6b-8a.
- ^ Evliya Çelebi: I, 68b-71a.
- ^ Evliya Çelebi: I, 73a.
- ^ Evliya Çelebi: II, 220b-221b, 240b-241a.
- ^ Evliya Çelebi: II, 241a-241b.
- ^ Evliya Çelebi: II, 242a-244b.
- ^ Danişmend (2011) p. 520 によれば海軍提督スィヤヴシュ・パシャのアゾフ奪還作戦への任命が1641年4月。
- ^ Uzunçarsılı (2011) 2. Kısım, p. 154 によればロシア皇帝がドン・コサックのヘトマンにアゾフ放棄を命じたのは1642年4月末。
- ^ Develi (2013) p. 99, n. 4.
- ^ Dankoff (2004) pp. 146-147; 藤木(2014) pp. 143-144.
- ^ 日付はDanişmend (2011) pp. 539-540による。
- ^ Dankoff (2004) p. 77.
- ^ http://www.yerturk.com/yer-zir-vadisi-yenikent.html#ad-image-0
- ^ Danişmend (2011) p. 569
- ^ Sarıcaoğlu (2004) p. 44.
参考文献
[編集]- 藤木健二 (2014) 「近世オスマン帝国の旅と旅人――エヴリヤ・チェレビーを中心に」長谷部史彦編『地中海世界の旅人――移動と記述の中近世史』、pp. 137-156.慶應義塾大学出版会。
- 藤木健二 (2015) オスマン帝国史史料解題:エヴリヤ・チェレビ『旅行記』 Evliyâ Çelebi Seyâhatnâmesi (東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室)
- Danişmend, İsmail Hakkı (2011). İzahlı Osmanlı Tarihi Kronolojisi, vol. 3. İstanbul: Doğu Kütüphanesi. (2. Baskı.)
- Dankoff, Robert (2004). An Ottoman Mentality: The World of Evliya Çelebi. Leiden/Boston: Brill.
- Develi, Hayati (2013). Evliya Çelebi'nin İzinde. İstanbul: MEDAM.
- Evliyâ Çelebi b. Derviş Mehemmed Zıllî, Seyit Ali Kahraman et al. (eds.) (2011). Evliyâ Çelebi Seyâhatnâmesi, 2 vols. İstanbul: Yapı Kredi Yayınları.
- Gemici, Nurettin (2012). "Evliya Çelebi'nin Arapça Bilgisi ve Arapça Kaynaklarla İlişkisi Üzerine Gözlemler." In Hakan Karateke & Hatice Aynur (eds.) Evliya Çelebi Seyahatnamesi'nin Yazılı Kaynakları, pp. 186-199. Ankara: Türk Tarih Kurumu.
- Tezcan, Semih (2011). "Evliya Çelebi'nin Doğum Günü." In M. Sabri Koz (ed.) Evliyâ Çelebi Konuşmaları/Yazılar, pp. 283-291. İstanbul: Yapı Kredi Yayınları.
- Uzunçarşılı, İsmail Hakkı (2011). Omanlı Tarihi, 3. Cilt, 1-2. Kısım. Ankara: Türk Tarih Kurumu Basımevi. (7. Baskı.)