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利用者:Tenko

時は - 皇紀2684年(平成36年)。

個人的な體得言語 - 日本語,英語(修業中),Ruby,JS,ShellScript,PHP,AppleScript,Cocoa(Objective-C) - うち数學など思考に用ゐるのは日本語を基本
人生における習慣 - 思考,瞑想,信仰,讀書,散步 - すべて日本語を基本とする
體得冀望言語 - 羅甸語,佛蘭西語,獨逸語

なにかを把握するには遠い場所にあるものが實態を知るに役立つ。それを紡ぎあげるは自然科學・數學の理想にほかならぬ。


「メロンパンは好きですか?」--Since 皇紀2666年

Wikipedia 編輯法

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我が基準。Wikipedia の編輯は基準が定めれてゐるけれども。文語文は現代語による物として、所謂「口語文」とする。古來の中古語による文語は、主に使用しない。

國語表記

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國語表記だけは Wikipedia の總意が無い。いい加減な戰後の國語施策の爲に幾らも混亂が見られる。

假名遣

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橋本進吉博士の定義による假名遣の基準。「現代仮名遣い」の本則である表音主義は、「表音的表記」の基準と重なる。

  • 一般記事に於て特に問題が認められない限り、總意に基づき假名は「現代仮名遣い」の規則に準じて綴られる。
  • 「じ・ぢ/ず・づ」の扱ひは、「現代仮名遣い」で認められてゐる「歷史的假名遣」の語意識を活かす。「いなづま/いなずま」
  • 「歷史的假名遣」で綴るものは、「歷史的假名遣」で綴られた資料の引用・拔萃となる。
  • 引用等に於て「歷史的假名遣」の誤つてゐる物、「字音」の搖れがある物、いづれも原典にあはせる。
  • 一般記事以外の署名文では「歷史的假名遣」。「拗音」「促音」など小書きの假名の扱ひは、「歷史的假名遣」でも行ふことがある。

眞名遣

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眞名とは漢字のこと。

  • 一般記事に於て特に問題が認められない限り、總意に基づき漢字は「常用漢字」を用ゐる。
  • 「常用漢字」で對應が怪しいときは、必要と認められればどの字であるか(あつたか)を斷はる。「豊・豐」など。
  • JIS規格など技術的問題があるとき、表外字でも略字となる可能性がある。「瀆・涜」など。
  • 「交ぜ書き」及び「表外字の同音漢字による書き換へ」は、適正な漢字使用と認めず、これを一切行はない。
  • 「歷史的假名遣」と同じく「当用漢字」以前の表記で綴られた資料の引用・拔萃となる。
  • 一般記事以外の署名文では「当用漢字」以前の表記基準。

表音的表記

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必要と認められれば行ふ。「現代仮名遣い」の本則である表音主義もまた、表音的表記であり、必要とあればこれを行ふ。

Wikipediaの作り方(假名遣ひを中心に据ゑて)

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Wikipediaは何の爲にあるのか。Wikipediaは「日本語」が對稱であるといふ。では「日本語」のprototypeは何か。「日本語」を綴る上での注意事項をどうすべきか。これらは私がここを些か編輯する上で感じて來た疑問點に他ならない。

日本語版か日本國版か

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どちらの方針であるかで、これは多いに異なる。

日本國版とするならば、Wikipediaの方針であるらしい「日本國内法準據」であるとか「假名遣ひは現代仮名遣い」なども納得がゆく。

けれどもWikipediaは「日本語版」である。然らば、何の爲の「日本國内法準據」であり「假名遣ひは現代仮名遣い」なのか。更には「漢字の字體」に就てはどうするのか、「漢字の讀み」は湯桶讀みを「シチ」と「ナナ」の混同を許すのか。日本語版であるならば、假名遣ひを現代仮名遣いとする根據は何か。そもそも、假名遣ひを何か一つに限定できる物なのか。

喩へば間違ひがあれば、英語では假名遣ひにあたるのはスペルであり、スペルミスはさつさと自然と修正される。では假名遣ひは何か。假名遣ひは何を根據にし、誰が必ず正しく綴れるのか。ここはコンセンサスを形成する價値があると思案する。

漢字の字體も假名遣ひであり正書法でありスペルである。繁體・簡體の違ひを指摘する者が居る事は承知する。しかし支那は廣い。文化的にも言語的にも隔たりがあり、同じ印歐語佛でありながら蘭西語・獨逸語の違ひ程度はあると思はれる。廣東と北京の違ひである。よつて、支那に於ては正書法で言語を分る事は理解はできるが(勿論兩樣が、全部で四通りあるべきだが)、日本ではそれにあたらない。

考慮すべき書記法

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  • 和文假名遣ひ
    • 歷史的假名遣、正かな、傳統(traditional)的假名遣
    • 現代かなづかい(現代仮名遣いへ移行)
    • 現代仮名遣い
    • 字音假名遣(音讀の假名遣ひ、)
    • 表音式表記(敢て假名遣ひとはしない)
    • 送り假名法(敢てここに入れる)
  • 漢字字體
    • 正字體、康熙字典體、繁體字
    • 当用漢字(常用漢字へ移行)
    • 常用漢字
    • JIS漢字(所謂「新旧JIS」と「2004JIS」を包括)
    • 人名用漢字

編輯方針試案

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  • 歷史的假名遣で綴られた文書の引用は、原則として歷史的假名遣とする。
  • 現代かなづかい(現代仮名遣い)で綴られた文書の引用は、原則として現代仮名遣いとする。
  • 引用に於ける漢字の字體は、なるべく原典に沿ふ物とする。
  • 古典の引用は、歷史的假名遣及び正字體などであるが、原典を重視する
  • 假名遣は、歷史的假名遣や現代仮名遣いの誤りを修正する可能性もある。
  • 「交ぜ書き」及び「表外字の同音漢字による置き換え」は、機械的(一律)でなく一方通行なので行はない。
  • 文書ではない発言(會話)であつても、議事録などは、當時の議事録における表記を尊重する。
  • ノート及び利用者ページ等は、個人の判斷に基づく表記とする。
  • 上記例外を除く各項目、通常NameSpace記事本文では、wikipedia 全體で合意を得た假名遣とする。
  • 送り假名法の統一は極めて困難と見られるが、上記假名遣本則に準じるとすべし。

假名遣ひではどれを選ぶかになるだらう。現代仮名遣いが歴史的假名遣ひを參照してゐる限りでは、參照先の歴史的假名遣を遣ふのが筋かと思ふ。換言すると、「歴史的假名遣に妥協する限り」、「歴史的假名遣に屈服する限り」だ。「表意」「表音」の二元論を掲げる歴史的假名遣を超越できるやうな、「表音」一邊倒の表音主義による理論があればみてみたい。

「個人の判斷に基づく表記」とした理由は、「個人の思想」でない點は「ブラウザによつてはこの漢字は表記できない」などの本來の理想的思想に反する現實的判斷を含むゆゑであつて、「表記」とした理由は「假名遣」以外の表音符號的表記をも含むからである。

假名遣の技術的問題

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カナは和文のどの文字セットでも普く表示できるので、技術的には問題が無い。

字音假名遣ひは音讀の假名遣ひであり、普通は必要ないけれど、振り假名が必要とするだらう。これは徹底すべきか、歴史的假名遣ひ論者でも意見が分かれるやうだが、徹底すべきである(ただし、何時の時代までがよいかは考へ物だが)。歴史的假名遣ひで尤もややこしい意思の「よう」と樣態の「やう」があるが、樣態は字音假名遣ひであるのに、和文には可成りの頻度で「假名」として登場し、最早溶け込んでゐる。歴史的假名遣ひからみるならば、「表音」にも「歴史的假名遣」にも徹しきれない中途半端な「現代仮名遣い」の轍を踏まぬ爲にも、「字音假名遣ひ」を、やるならやるやらぬならやらぬ、かういつた筋を通すべきであらう(勿論、こちらは表語を目指す物ではないのだから、少し思案が必要だ)。

漢字字體の技術的問題

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漢字字體は、實用的なレベルでは一部の水準は表示できないから遣はぬといふ理屈は筋が通つてる。よつて、現實的な問題として表記できるか否かといふ點がある。人名用漢字はあまり意味が無いので省く。常用漢字はJIS漢字に於て擴張されてゐることがあり、これを正面から扱ふのは、漢字の字體をどう扱ふかを決めてからでないと危險である。

常用漢字論者の類ひに多い「可讀性」と雖も「常用漢字」に無い物は、「可讀性」も何も常用漢字は「使ふことがない」といふ前提があるので、讀めるわけがない。それでは、常用漢字にない字體をどうすべきかになるけれども、基本的には正字體となる。しかし、擴張された物があり、やゝこしいことに擴張された物でなければ表示基準として怪しいことになることがある。擴張された物は「常用漢字」に無いわけだから、表外漢字として「可讀性」が無いのと同じである。よつて技術的に許すなら、擴張JIS漢字であれ正字體であれ表示可能である。

また、常用漢字は「一字一字體」だが、といふのも活用頻度の高い順に選ぶかららしい(そんなもの教養の度合によるだらうに、これに收めよとは厚かましい話である)が、JIS漢字や人名用漢字はそれにあたらず異字體を含む。これが漢字字體で考慮すべき事柄であらう。

表音性による可讀性を信ずるの莫迦らしさ

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可讀性は表語・表意性に宿るのであつて、表音性に求められる物ではない。會話による音聲の場合「へたくそな英語は聞くに堪へない」であらうが、文字は違ふ、文字は綴りが判讀さへできれば「この英文はまるで教養を感じられぬ酷いspellingだね」と多少假名遣を誤つても、「テニヲハがをかしいよ」とそもそもの文章を構成する文法に問題がなければ、ナントナクワカルのである(これが表語性の強みであつて表音性にはない物である)。

文字の認識は、一足飛びに「音聲(表音)」の認識となるわけではなく、目を經由することで「圖形(表意)」から「音聲(表音)」へと結びつける「離れ業」を人間の腦は行つてゐることが明らかにされてをり、統一性のない「音聲(表音)」では、圓滑な「圖形(表意)」を鍵に取得する「音聲(表音)」すら、人は得られぬであらう。いたづらに讀字障礙の患者を増やしてゐるだけだ。

具體的に申し上げると、常用漢字以外は、現代仮名遣い以外は、全く讀み辛いと考へる方も多く見受けられるが、愚かしい考へである。果して、さうか。寧ろ害惡ではないのか。讀む場合には、口を衝いて讀むのか、目で見るのか。口を衝く場合、日本語を母語として是を讀むとして、發音に惑ふか。目で見て圖形と解釋してこれが混亂を招くか。

否、斷じて否である。發音は、相當厄介な書法を持つ言語でも話者にとつては完璧であるから、問題は無い。圖形はどうか。圖形は、圖形から音が類推できるはづであるが、常用漢字に於ては一部の字形の變化によりそれが無視されてゐる。では凡て直せばよい、と思ふのは樂だが、常用漢字は常用する物を列擧しただけであつて、準常用のやうな漢字まではこれを適用しない。準常用・表外漢字などは、普段目にせぬから尚更意味がわかりづらいのだが、字源を無視した常用漢字を習ふことで、更に「可讀性」を損なひ、字源に沿つた字であれば想像できた事を葬り去つてゐる。

うむ、では網羅的にすれば、と思ふならそんなことは無意味とすぐ氣附くはづだ。常用漢字は常用する物を列擧するから意味があるのであつて、常用せぬものまで押竝て一覽に附するのは全く以て無意味であり(而も漢字は多すぎる)、更に云ふなら網羅し字體を變更することも無意味である。元の形があるのに、それを可成り變更・參照した字だけを習ひ使用するのは、草書だけ習つて楷書を習はぬやうな物だ。

常用漢字は、教育指標(標準・基準)漢字へと變化すべきだと思ふがどうだらうか(勿論字體は成る可く字源に沿て戻す)。義務教育の後であれ幾らでも知らぬ慣用句があるやうに、漢字も然り。和語も然り。義務教育では、知らぬことでも大筋で理解できる本當の力を附けさせるべきで、是をいたづらに混亂させるべきではない。中古語で表現するなら、「アダ(徒)」より「マメ(忠實)」だ。

そこで可讀性どうのかうのいふ御仁は、恐らくまともな讀解力が無いのだ(若しくは無知なのだ)と考へて相違あるまい。究極には意味が分らぬことは文脈より判斷する他無い。だから、漢字はといへば漢字は文脈と構成(部首と音符)から、和語はといへば假名遣ひから、多少情報を讀み取れ(これが大きい)、且つ後は個人の讀解力に係る。無知は恥ではないが、考へることを怠ること、怠惰は恥であらう。

讀書に際して

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日本の近現代文学史 - 悩んだ時の指針

自己紹介

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チラシの裏。

  • 崇拝 - 神道(神宮・大社など) の神々※明治において神道は宗教とは認識せず、生活の一部としての崇拝であったので、あへて宗教とはしない(宗教と言えば仏教と耶蘇教)。
  • 宗教 - 仏教(大乗仏教。中観派寄り) ※仏教の理論(論証)は量子力学に通ずるところがってなかなかおもしろい。その先にあるものは何だらうか
  • 思想 - 道徳経(上善は水の若し)とか、仏教哲学とかいろいろ綯ひ交ぜ
  • 趣味 - よく言えば文化的。当代風に言えばインドア派
  • 政治 - ただ日本に関してでは国体の護持。明治天皇陛下の御聖徳であらせられる近代立憲君主制の存続。共和制はイヤ。