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マヤーク核技術施設
[編集]ロシア語で灯台(Mayak)を意味するマヤーク(ロシア語: производственное объединение «Маяк», 「生産連合体『マヤーク』」あるいは化学コンビナートマヤーク、チェリャビンスク-65とも呼ばれる)はロシアのオジョルスク近郊、チェリャビンスク州にある核施設である。これはソ連時代の核爆弾のための核分裂可能物質を工業生産する初の工場だった。1987年からマヤークでは核爆弾にできる物質は製造していない。それ以来、放射性同位体生産と核燃料の再処理が主な事業だ。この施設の平常運転やさまざまな事故、とくに1957年キシュテム事故により非常に大量の放射性物質が環境に撒き散らされた。部分的にはいまもなお秘密事項であること、そしてオジョルスク町の施設への厳しい入場制限により今もなお十分に確認できないままの情報が知られている。
歴史
[編集]以前からあった工場集合体を元に、「化学コンビナート・マヤーク」は、1945年から1948年の間に、今日のオジョルスク町と合同でソビエト連邦の原子爆弾開発(en:Soviet atomic bomb project)として急いで建設された。1945年11月には町の最初の建物が建った。建設の総指揮は以前、白海・バルト海運河建設で建設指揮次官だったヤコヴ・ダヴドロヴィッチ・ラッポートが取った。1947年からは最初の原子炉建屋建設とそれに続く建築の指揮はミハイル・ザレヴスキーの任務となった。原子力技術長はニコライ・アントノヴィッチ・ドレジャリ(ru:Доллежаль, Николай Антонович)で、彼は最初の原子炉Aの構造の責任者でもあった。[1] この初めてのウラン・黒鉛炉は1948年に稼動し始めた。同じ年の12月に原子炉で生産されたプルトニウム加工用の放射化学施設が稼動を開始した。[2] 最初の学術長はヴィタリ・フロピン(ru:Хлопин, Виталий Григорьевич)で、彼は特に再処理工場Bの責任者であった。工場Vでの冶金的再処理は1949年に開始され、原爆のためのプルトニウム半球が製造されたが、その指揮はアンドレイ・アナトリェヴィッチ・ボチュマーが取った。[1] CIAの報告によればこの建築作業には約7万人の強制労働者がつぎ込まれた。この工場でソ連時代に特に兵器用プルトニウムが核爆兵器生産のために得られた。これはソ連初の原爆だった。[1]
ソ連時代にこの工場ではとくに兵器生産用のプルトニウムが獲得されていた。とくにソ連で最初の原爆。[3]
マヤークには時に25000人が就業していた。2003年にもまだ14000人が働いていた。[3][4] 1948年から1987年まで合計10基の原子炉が稼動している。1987年からマヤークでは核兵器用の原料は全く生産されていない。1991年までに8基の原子炉が停止された。まだ稼動している2基の原子炉は医学用および軍事・研究用の同位元素を生産している。さらに原子力潜水艦と原発用の燃料材料をマヤークでは生産し、使用済み燃料の再処理を行なっている。[3] 2007年からこの研究施設の総監督は物理学者のセルゲイ・バラノフ(1957年生まれ)だ。
その1957年にはこの施設で放射性廃棄物の貯蔵容器が爆発した (キシュテム事故)。この事故はINES・国際原子力事象評価尺度によって2番目に高い段階である6とされ、これによって1986年・チェルノブイリ原子力発電事故、2011年・福島第一原子力発電所事故に次ぐ、歴史上3番目に重大な原子力事故となった。 およそ27万人が住んでいた2万平方キロメートルが放射性物質で汚染された。
マヤーク周辺地域はフランシス・ゲーリー・パワーズが1960年5月1日に最後の一つになったスパイ飛行をおこなって追撃されたところだ。[5]
過去数年間にマヤークでは稼動許可が完全にあるいは一部撤回されている。1997年春には、稼動許可は高度放射性廃棄物のガラス固化処理を条件としていたが、ガラス固化処理工場内の不具合のため、ガラス固化処理が不可能となり、再処理工場は停止した。同じ年内に、新しいガラス固化処理工場の稼動までに十分な中間保存場が確認された後、再処理工場は再び稼動し始めた。[6] 2003年1月1日にこの原子力施設はロシアの担当役所によって新たに一時的に停止された。理由は、ロシア環境保護法によって禁止された、放射性廃棄物の河川への垂れ流しが起きていたからだ。[7][8] この施設の再稼動は、放射性物質の河川へ流れる量を減らすための技術装置の設置後初めて許可された。
ドイツ・ハーナウの、一度も稼動されなかった燃料棒工場をマヤークに売却する計画は2000年に放棄された。[9]
2010年には環境保護団体グリーンピースがスイス・エネルギー会社Axpoを批判した。理由はこの会社がマヤークで再処理された燃料棒を、それと明示せずに使っていたからだ。この燃料材はベツナウとゲスゲンの原子力発電所で使用されている。[10] これに応じて、スイスの電力会社は燃料材の由来をチェックし、発送契約を見直すと発表した。[11]
マヤーク施設は2010年にロシア山火事で危険にさらされた。2010年8月9日に火事の炎が施設に近づいてきたので、担当官庁は緊急事態を発令した。[12]だが、すぐその後、これは解消された。[13]
2010年9月にはドレスデン・ロッセンドルフ研究所(de:Forschungszentrum Dresden-Rossendorf)から出た951本の燃料を、アーハウス使用済み核燃料中間貯蔵施設(de:Atomülllager Ahaus)からマヤークへ送るべきかという計画が公表された。そこで廃棄物を再処理して、即、ロシアの原発で使うことになっていた。この企画はドイツとロシアの環境保護団体から批判された。ことにマヤークで確実に安全貯蔵される可能性が疑われた。[14]2010年12月に当時の環境大臣ノーべルト・レットゲン(de:Bundesumweltminister de:Norbert Röttgen)は、この輸送を拒否した。彼はそこで核廃棄物の、規則にしたがう無害なリサイクルが保障されるか確信できないとした。[15]
建設と構造
[編集]この施設敷地はおよそ90平方キロメートルに及ぶ。[2]オジョルスク町がそこに隣接、マヤークで仕事に従事している人たちの大部分がそこに住んでいるが、マヤーク自体と同じく、ソ連の公的地図には記されていない。施設と時を同じくして建てられたこの町は施設からの排気ができるかぎり届かないように、風向きをみて位置が選ばれた。[16]敷地にはいくつかの原子炉、再処理工場、そして分裂元素と、とくに放射性廃棄物の保存場などがある。[3]マヤーク周辺およそ250平方キロメートルの地域が立入禁止地区になっている。[2]
近郊には南ウラル原子力発電所建設現場がある。
原子炉
[編集]さまざまなタイプの原子炉が合計10基、マヤークで稼動してきた。[3]
原子炉名 | 原子炉タイプ | 稼動開始日 | 停止日 | 注釈 |
---|---|---|---|---|
A (アヌシュカ) | ウラン・黒鉛炉 | 1948年06月01日 | 1987年06月16日 | 100 MWtherm, 後500 MWtherm |
AI | ウラン・黒鉛炉 | 1951年12月22日 | 1987年05月25日 | 研究用原子炉 |
AW-1 | ウラン・黒鉛炉 | 1950年07月15日[1] | 1989年08月12日 | 300 MWtherm[17] |
AW-2 | ウラン・黒鉛炉 | 1951年03月30日 | 1990年07月14日 | |
AW-3 | ウラン・黒鉛炉 | 1952年09月15日 | 1991年11月10日 | |
OK-180 | 重水炉 | 1951年10月17日 | 1966年03月03日 | |
OK-190 | 重水炉 | 1955年12月27日 | 1965年10月08日 | |
OK-190M | 重水炉 | 1966年 | 1986年04月16日 | |
ルスラン | 軽水炉 | 1979年06月18日 | 稼動中 | 元は重水原子炉だったのを改造, 1000 MWtherm |
リュドミラ (LF-2) | 重水炉 | 1987年12月31日 | 稼動中 | 1000 MWtherm |
マヤーク初の原子炉は水冷の黒鉛原子炉Aで、従業員はアヌシュカとも呼んだ。 これは1948年6月7日に初めて臨界状態となった。 当時のソ連で使用可能な量にあたる、150トンのウランが搭載されていた。ソ連初の原爆RDS-1の核分裂物質・プルトニウムは原子炉Aで得られた。 この原子炉Aはそもそも100 MWの熱仕事率があったが、後に500 MWに改造された。 故障や事故の際、空中に漏れた分裂物質はいくつかの空気フィルターを通し、さまざまな放射性物質を受けとめることになっていた。[1]
特に稼動開始の年月には原子炉には多数の技術的問題がおきた。ウランペレットを入れるためのアルミニウム管が主な問題で、これは腐食や過熱で傷つきやすく漏れが生じた。その修理には原子炉から燃料を取り出す必要があった。普通なら燃料は下方へ取り出し、水の中に保存する。だがその後原子炉に供給するための燃料が不足していたので、分裂物質は上部の原子炉空間に取り出され、その際従業員は高い放射能を浴びてしまった。[1]
1950年から1952年までに、3基のAW原子炉がさらに稼動し始めた。この建築内容は似ているか同じものだった。[1]1951年に最初のOK重水炉が稼動した。1955年と1966年に2基のおなじタイプが続いた。これらのうち最初の2基はそれぞれ15年もしくは10年後、停止された。その理由は明らかにされていない。
現在(2011年末)稼動するルスランとリュドミラ(LF-2とも呼ばれる)原子炉は熱仕事率が1000 MW で、とりわけ14C, 60Co、192Ir、238Puとトリチウムの製造にあたっている。[3][1]
再処理
[編集]核兵器の製造や原発での再利用には燃えた燃料集合体を再処理しなければならない。1948年には燃え尽きた燃料集合体から核兵器にできるプルトニウムを得るため施設Bが稼動し始めた。1969年には施設DBがそれに代わり、これは1987年まで稼動した。その先の工程で、準備されたプルトニウムは1949年に建てられ、タツィシ集落近郊(マヤークと周辺の衛星写真参考)にある施設Vの中で核兵器使用のために冶金加工がされた。[18]1987年に核兵器製造は停止したものの、この施設は今も稼動中だ。その現在の課題は明らかではない。[3]
平和利用のために1977年以来、燃料物質は施設RT―1で再処理されている。現在、そこでは(原発の)原子炉タイプ・WWER-440、BN-350、そしてBN-600に由来する燃料物質および海軍や研究原子炉由来のものを再処理している。再処理された核燃物質は続いてRBMK原発用燃料物質の製造か、MOX燃料の製造に使われる。元来、一年に410トンと設計されたが、この施設は2004年にはおよそ150トンの使用済み燃料しか再処理しなかった。これは施設の老朽化と同時に放射性廃棄物が環境に垂れ流しになるのを法律で規制したことによる。[3]平和利用のための再処理は、放射性同位元素の製作にならんでマヤークの今日の主な業務である。
再処理過程で生じる高度放射性廃棄物は(中間貯蔵後、液体として)ガラス固化施設で中間および最終貯蔵のために準備を受ける。再処理過程で生じる低度や中度の放射性廃棄物は主にカラチャイ湖へ始末されている。[6]
放射性同位元素の製造
[編集]すでに1950年代の初めからマヤークでは特殊な放射性同位元素(放射性同位体)が製造されていた。 特に核兵器用のトリチウムを獲得した。(例えばいわゆるブースト型核分裂兵器) 他の同位元素は放射性同位体熱電気転換器や医学的、農業的、産業的な目的での使用のために生産された。
今日ではまだ稼動中の原子炉で医学的、軍事的、学問研究の目的で同位元素が生産されている。 マヤークからの情報によれば、ここは137Csや、241Amをベースにした中性子源の輸出では世界一、さらに60Coでは世界市場の30パーセントを占める。生産高の90パーセントを輸出している。[19]
分裂材の貯蔵場
[編集]英語では英語: fissile material storage facility, FMSF、ロシア語では ロシア語: хранилище делящихся материалов ХДМ, ) と呼ばれる分裂物資の貯蔵についてはロシアと合衆国の間の共同作業でNunn–Lugar Cooperative Threat Reduction (CTR)プログラムが作られた。その目的は高濃度で兵器になりうる分裂物質を安全にしかも物理的な攻撃にも耐える貯蔵所を建設することにあった。建設開始は1993年で2003年に完成した。しかし、初の物質は2006年7月になって貯蔵された。その理由は装置がそれ以前はまだ完全な機能を持たず、アメリカ側の監視法律と合致しない点があり、さらにその経営と監視のために十分訓練された人員が不足したからだった。[3][20][21]この建設にはさまざまな民間とアメリカとロシア軍事界が参加し、重要なのはUnited States Army Corps of Engineers と 米建設会社Bechtel Corporation[3]で、 全建設費用はおよそ4億米ドルに上った[22]。貯蔵所はリヒターマグニチュード8の地震、洪水、飛行機の墜落にも耐えられることになっている。貯蔵容積はプト二ウム50トン、ウラン200トンにのぼり、これは、はずされた核弾頭12500個に由来する分裂物質となる。だが2004年にはこの施設の使用割合は25パーセントに計画されるに留まった[3]。計画された使用期間は100年だ[20][22]。この施設の横には、使用済み処理施設RT –1敷地内にウラン560トンまで収容できるプールがある。 2004年には、この他、原子力潜水艦の燃料40トン容器が154個納まる貯蔵所を建設中だった。[3]
湖・河川
[編集]施設周辺の湖や河川は放射性廃棄物の捨て場となっていた。とくに再処理のときに生じる放射性で液体廃棄物はプルトニウム生産開始後数年、テチャ川に流された。排水口近くの川底に沈殿した放射性同位体が川下へ流されるのを防止するため、時代の流れとともに、運河やダムを使った大規模システムが造られた。もともとテチャ川はイルチャシュ湖から出てキュスユルタシュ湖を通っている。今はこの川の水は大部分、湖に来る前に左側・北へ斜めに続く運河を通って40 kmほど移され、その後、もともとの川へと流れている。
この措置の中で、いくつかの人工的なダム(V-3、V-4、V-10、V-11)が元の川の流れに作られ、そのうちV―10は最も汚染のひどいところで、およそ8500テラ・ベクレル(TBq, 8.5×1015 Bq) の放射性を示している[3]。以前、V-10ダムの場所でテチャ川に合流していたミシェリャック川も右側・南の運河でダムへ導かれている[23]。これらの運河は広さ30平方キロメートルのアサノヴォスキー湿地へ流れ込み、ここは220 TBq (2.2×1014 Bq) の強さで汚染されている[24]。
V-3ダムは1951年に0.78 平方キロメートルの広がりに設置された。V-4(1.6平方キロメートル)ダムは、1956年にすでに存在したダムを高く改造した、かつてのメトリンスクダムを元に造られた。V-3とV-4の貯水容量は弱放射性下水が一年に流れる量に大体一致する。V-10(18.6 平方キロメートル)は1956年に設置されV-4ダムから流れてくる水をためる。最後のダム水槽V-11は47.50 平方キロメートルの最大のものだ。これは1963年に造られた。V-10ダムがすぐに満水になるので、それに続くダムとした[24]。だが、V-11ダムの水準も同じように危険な高さになっている。この水準を下げるためには建設中の南ウラン原発の冷却水のタンクとして水を使うべきだろう。水温が上がると蒸発が強くなるからだ[3]。北の運河は1962年に南のは1972年に建設された[24]。
液体の放射性廃棄物が貯めてある他の湖死水域はカラチャィ湖(約4 エクサ・ベクレル, 4 · 1018 Bq) とスタロジェ・ボロト池(ダムのせいで起きた汚染・約74 ペタ・ベクレル, 7.4×1016 Bq). である。このカラチャィ湖は現在ほとんどの部分をセメントで埋め、放射性材が飛び散るのを防いでいる。この湖の広さは1962年には0.51 平方キロメートルだったが1994年には0.15 平方キロメートルまで狭められた。[25]
事故
[編集]原発装置安全協会によれば1948年から2008年までに8件の重大な出来事が記録されている。[26]
日付 | 事故内容 | INES-指数 | 犠牲者 |
---|---|---|---|
15.03.1953 | プルトニウム・窒素化合物の容器内の臨界事故 | 3 | 負傷者3名[27] |
21.04.1957 | 高濃縮ウラン容器内の臨界事故 | 4 | 死者1名 負傷者10 名 [27] |
29.09.1957 | キシュテム事故 貯蔵タンク内の爆発 | 6 | 爆発による負傷者1名、放射能による被害者数 不明 |
02.01.1958 | 高濃縮ウラン容器内の臨界事故 | 4 | 死者3 名 負傷者1 名 [27] |
05.12.1960 | プルトニウム・カルボナットの臨界事故 | 3 | |
07.09.1962 | プルトニウム廃棄物の臨界事故 | 3 | |
16.12.1965 | 高濃縮ウラン廃棄物の臨界事故 | 3 | |
10.12.1968 | プルトニウム液体容器内の臨界事故 | 4 | 死者1 名, 負傷者1 名[27] |
この装置の稼動による作業従事者や住民の放射性汚染の点でマヤークでは過去数年、人間への放射性汚染の影響の調査が強化されている。[2]
1957年4月21日高濃度ウラン入りの容器内の臨界障害
[編集]グローブボックスに入れてあった容器にウラン溶液が多く集まりすぎ、臨界を越えようとした。そのせいで容器は破裂、溶液の一部が手袋の箱に流れた。ある女性作業員は放射能30~46グレイを浴び、12日後死亡した。同じ部屋にいた5人の作業員はそれぞれ3グレイを浴び、放射線病となった。さらに5人が1グレイほどを浴びた。[27][28] INES・国際原子力事象評価尺度ではこの事件は4(事故)となった。[26]
1957年9月29日キシュテム事故
[編集]1957年9月29日、内部の調整器具の火花が、かさが300立方メートルのタンクにあった結晶化した硝酸塩と再利用の際出て来た残留物も一緒に爆発を起こした。核爆発ではない、この化学的爆発は大量の放射性物質を撒き散らした。その中には半減期が長い同位元素例えば、90Sr (29 年), 137Cs (30 年) und 239Pu (24 110 年) があった。マヤーク会社と官庁によれば、事故後、全体として400 PBq (4×1017 B)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって巻き散った。27万人が高い放射能にさらされた。
官庁が公表した放射能汚染をもとにして比較計算すると、事故のせいで新たに100人がガンになると予想される値だ。[1]
国際原子力事象評価尺度(INES)では1957年の事故は第二番目に高いカテゴリーである6とみなされる[29]。1986年のチェルノブイリ事故と2011年のフクシマの事故はこれに対してカテゴリー7にあたる。そういうわけでこの事故は歴史の中で第3番目に重大な原子力事故にあたる。ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによればキシュテム事故はこれまで過小評価されていたという[30]。
1958年1月2日 濃縮ウランの容器内での臨界事故
[編集]臨界実験後、そのウラン溶液は幾何学的にに安全な容器に入れ替えることになっていた。時間の節約のために実験者たちは入れ替え標準手続きを通さなかった。理由は残っている溶液が臨界から程遠いと考えたからだ。しかし入れ替えの際に形が変化してしまい、人の存在により中性子を反射するに十分で、そのせいで溶液は即、臨界に到った。溶液は爆発し、3人の作業者が60グレイの放射線量を浴び、4、5日後亡くなった。3メートルの距離にいた一人の女性は6グレイを浴び、急性放射性病からは生き延びたものの、重い後遺症に悩まされた。[27][28] この工場内での臨界実験はその後中止された。INES尺度ではこの出来事は4(事故)となった。[26]
1967年 汚染物質の嵐
[編集]1967年の乾季のとき、中間貯蔵場として使われていたカラチャイ湖の水位が下がった。4月10日から5月15日まで放射性汚染された沈殿物質が乾いた岸辺から強風によって1800平方キロメートルから5000平方キロメートルの地域まで運ばれた。この全体の値はさまざまな情報源によれば、22 TBq から 220 TBq (2.2 bis 22×1013 Bq) と見積もられている。[31][32][33]
1968年12月10日 プルトニウム溶液の容器の臨界事故
[編集]プルトニウム溶液を20リットル容器から60リットル容器へ移そうとして、60リットル容器の中の溶液が臨界に近くなった。その結果発した光と熱のせいで、20リットル容器を持っていた作業者がそれを落とし、中に残っていたプルトニウム溶液が床に流れた。建物からはすぐに避難させられ、放射線防護担当者はその領域への立ち入りを禁止した。しかし作業担当長がその建物に入ることを強く願い、放射線防御担当者と一緒に事故がおき部屋の前へ行った。危険に高いガンマ線の値が見られたのにもかかわらず、作業担当長は中へ入り、防御担当者がすぐに外へ出した。たぶん作業担当長はプルトニウム溶液の一部を下水タンクへ入れようとしたらしいが、それも新たな臨界を招くだけであった。 交替作業員長は24グレイを被爆したとみられ、一ヶ月後に亡くなった。作業員は約7グレイの被爆で重い放射線病となった。彼の両足と片手は切断されねばならなくなった。[27][28] 国際原子力事象評価尺度(INES)ではこの事故はレベル4にみなされる。[26]
1994年8月31日 燃料棒の火災
[編集]使用済み燃料の処理中に燃料棒のカバーが燃え始めた。このせいで8 GBq (8.8×109 Bq)の強度の放射能が漏れた。これは年間許容量の4.36 パーセントに当たる。この事故原因として労働規定違反が調査されている。[34][3]
2007年6月26日~28日 パイプラインの漏れ
[編集]放射性液体用の管の破損から液体が2日間にわたって漏れていた。工場長ヴィタリー・サドヴ二コフはこの事故の責任を追って失職した。[35]
2007年10月25日 放射性廃棄物の垂れ流し
[編集]ロシアの公的な発表によれば2007年10月25日に再処理工場から放射能が漏れたが、これは負傷者も出さず、環境への悪影響もなかったという。液体放射性廃棄物がタンクから道路へ流れていた。公的な理由としては、安全規則が十分に実行されていなかったという。汚染土は道路から剥ぎ取られた。[36]
2008年10月22日 漏れのために3人の負傷者
[編集]継ぎ目の故障で貯蔵池から放射性物質がブロック20から流れ、そこで働いていた3人のエンジニアが負傷した。そのうちの一人は、この結果、一本の指を切断して、そこからα線放射性物質が体内に広がるのを防がねばならなかった。[37]
放射能の悪影響
[編集]マヤークの装置を通して放射性物質が大量に撒き散らされ、これは特に1957年のキシュテム事故で著しい。この事故の影響は学問調査の一環として2005年8月1日からSouthern Urals Radiation Risk Research (SOUL) として調査されている。[38]1997年のロシアおよびノルウエー政府による学問的調査によれば1948年来、マヤークからは 90Sr und 137Cs が8,9 Exa-Becquerel (EBq, 8,9 · 1018 Bq) の強度で環境に散っている。[39]これはほとんどチェルノブイリ事故で発散した物質の量にあたるくらいだ(ca. 12 EBq, 12 · 1018 Bq)。その上239Pu のような放射性物質もある。環境保護団体は、これによっておよそ50万人が高い放射能をあびたと見ている。[3]
労働者の被曝
[編集]マヤークの初期には責任者にとってプルトニウムの生産のほうが労働安全より重要だった。再処理装置(工場Bと工場V)、さらに原子炉の傍でも1948年から1958年までは作業者は高い放射能を浴びていた。この期間には急性放射線症候群が2089件も届けられている。 一年の汚染値で合計17245人が少くとも一度は0,25 シーベルト (Sv)を越えている。約6000人が合計汚染値の1Sv以上を浴びている。[1]1958年後、労働安全が少しずつ改善された。
水の汚染
[編集]1948年の操業開始から1951年9月までの生産で、7800万平方メートルに上る高放射性液体廃棄物が[40]全強度106ペタ・ベクレル (PBq, 1,06×1017 Bq)[41]となってテチャ川に流された。この川から周辺住民は一部飲料水を取っていた[30]。川の流れにそって非常な環境汚染を起こしたので1951年以降は液体高放射性廃棄物はまずカラチャイ湖へ流された。この湖から地表に流れ出す川はない。1953年以来、高い放射性廃棄物はタンクに貯蔵されているが中程度の放射性廃棄物は続けてカラチャイ湖へ流れている[40]。
河川の放射性汚染の理由で川の上流130キロメートル以内の多数の村々の住民が移住させられた。川は鉄条網で立ち入り禁止になり、警告の看板が立っている。だがあらゆる村の住民が避難させられたのではない。例えば70キロメートル下流の集落ムスリュモヴォにはまだ4000人の村民が移住を待たされている。環境保護団体グリーンピースは2011年に移住費用200万ルーブル(約5万ユーロ)を着服した責任者を非難した[42]。住民たちは禁止にもかかわらず今日までテチャ川畔を例えば家畜の放牧地として使っている[43]。
1950年以降に生まれた住民で少くとも1950年から1960年の間にテチャ川畔の41村に住んでいた人たちの調査ではガン症例の3パーセント、白血病症例の63パーセントが川の高い放射性に起因する[44]。
2001年から2004年のあいだには担当官庁によれば液体放射性廃棄物が新たにテチャ川に垂れ流しされたという。核技術研究所所長は裁判にかけられたが、大赦を受け裁判は中止となった[45][46]。
カラチャイ湖には1993年まで、特に1980年以前には20 EBq (2×1019 Bq)の強度の放射性廃棄物が流されたと推定されている[41]。元素崩壊、一部は清掃、かつ地下水への漏れによって2004年の強度は4,4 EBq (4,4×1018 Bq)までに下がった[18][3]。それでも、この湖は今なお地上でもっとも強く放射性汚染された土地の一つである[18]。そこは1995年の調査では90Sr と 137Csを、地上で行なわれた核実験で生じた残り全量よりも四倍以上多く含んでいる[41]。湖の汚染水は地下水に混じり、周辺を汚染している。
施設操業者の話では2010年11月19日以降、新しい規則が有効になり、軽度の汚染水は、もはや放射性廃棄物とみなされず、全くチェックなしで環境に流されている。[47]
土地の汚染
[編集]東ウラル地方も同じように高度に汚染されている。この地方の放射性汚染は何年も続く研究プロジェクトSouthern Urals Radiation Risk Research (SOUL)の調査対象となっている。このプロジェクトには11の西側パートナーが参加していてその中にはドイツ語: de:Bundesamt für Strahlenschutz ドイツ国立放射線保護機関ドイツ語: die Technische Universität Münchenミュンヘン工科大学 、カロリンスカ研究所、 テサロニキ・アリストテレス大学、ライデン大学, パレルモ大学、フロリダ大学 、および数カ国の保健機関がある。 この研究は ミュンヘン・ヘルムホルツ・センタードイツ語: Helmholtz-Zentrum Münchenが指揮をしている。[48]
関連項目
[編集]- 原子力事故の一覧
- ロシアの核施設の一覧
- ハンフォード·サイト (アメリカの爆弾生産)
出典
[編集]- Igor Kudrik, Aleksandr Nikitin, Charles Digges, Nils Bøhmer, Vladislav Larin, Vladimir Kuznetsov (1. November 2004). "The Russian Nuclear Industry – The Need for Reform. Bellona Report Volume 4:2004" (PDF; 3,0 MB) (英語). Bellona Foundation. pp. 47–69. 24. April 2010閲覧。
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