利用者:Sinhako/ビルマ連邦 (1988年-1989年)
- ビルマ連邦
- မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်း
myanmarninengan hpaat d rayy shinn -
← 1988年 - 1989年 → (国旗) (国章) - 国歌: ガバ・マ・チェ
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公用語 ビルマ語 首都 ラングーン 通貨 チャット
ビルマ連邦(ビルマれんぽう、ビルマ語: မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်း、myanmarninengan hpaat d rayy shinn、英語: the Union of Burma)は1988年のクーデターで発足し、1989年6月18日に国名をミャンマー連邦に変更するまで存在した軍事政権。
歴史
[編集]1988年、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)議長ネ・ウィンの退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン率いる軍部が再度クーデターにより国家法秩序回復評議会の発足を宣言して政権を掌握し、再度ビルマ連邦へ改名した。
軍政は総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し、体制維持をはかった。民主化指導者アウン・サン・スー・チーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウン・サン・スー・チーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行った。
1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談。1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- ミャンマーの歴史
- 国民民主連盟:1988年の民主化運動時に結党。
- ビルマ連邦国民連合政府:1990年、ビルマ連邦に対抗して樹立された亡命政府。