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利用者:Sinhako/ビルマ連邦 (1988年-1989年)

ビルマ連邦
မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်း
myanmarninengan hpaat d rayy shinn
ビルマ連邦社会主義共和国 1988年 - 1989年 国家平和発展評議会
ビルマの国旗 ビルマの国章
国旗(国章)
国歌: ガバ・マ・チェ
ビルマの位置
公用語 ビルマ語
首都 ラングーン
国家法秩序回復評議会議長
1988年9月18日 - 1992年4月23日 ソウ・マウン
首相
1988年9月18日 - 1992年4月23日ソウ・マウン
面積
1974年676,578km²
人口
1983年4月1日
国勢調査
34,124,908人
変遷
軍政樹立 1988年9月18日
国名の変更を発表1989年6月18日
通貨チャット

ビルマ連邦(ビルマれんぽう、ビルマ語: မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်းmyanmarninengan hpaat d rayy shinn英語: the Union of Burma)は1988年のクーデターで発足し、1989年6月18日に国名をミャンマー連邦に変更するまで存在した軍事政権

歴史

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1988年ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)議長ネ・ウィンの退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン率いる軍部が再度クーデターにより国家法秩序回復評議会の発足を宣言して政権を掌握し、再度ビルマ連邦へ改名した。

軍政は総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し、体制維持をはかった。民主化指導者アウン・サン・スー・チーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウン・サン・スー・チーは選挙前の1989年自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年ワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行った。

1989年6月4日中国天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。

脚注

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関連項目

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