利用者:Sinhako/ビルマ連邦 (1948年-1974年)
- ビルマ連邦
- မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်း
myanmarninengan hpaat d rayy shinn -
← 1948年 - 1974年 → (国旗) (国章) - 国歌: ガバ・マ・チェ
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公用語 ビルマ語 首都 ラングーン 通貨 チャット
ビルマ連邦(ビルマれんぽう、ビルマ語: မြန်မာနိုင်ငံဖက်ဒရေးရှင်း、myanmarninengan hpaat d rayy shinn、英語: the Union of Burma)は1948年にイギリス連邦を離脱して独立してから1974年3月4日まで続いた現ミャンマーにあった連邦制共和国。
歴史
[編集]独立
[編集]1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL・パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年1月4日にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代大統領にはサオ・シュエ・タイクが、初代首相にはウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍念日としている。
1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州一部に中国人民軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯の麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[1]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[2]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。
ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
[編集]1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣(1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日に連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争(1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領(1962年3月2日–1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。
1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[2]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年、ビルマ連邦社会主義共和国連邦憲法が制定され、ネ・ウィン大統領が引き続き実権を掌握、軍事独裁政権は変わらなかった。
脚注
[編集]- ^ Ka Kwe Ye means "defence" in Burmese, and is used as the name for regional defence forces. Smith, Martin (1991) Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity Zed Books, London, p. 221
- ^ a b Bertil Lintner. “The Golden Triangle Opium Trade: An Overview”. Asia Pacific Media Services, March 2000. 2009年1月6日閲覧。
関連項目
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