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来歴
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明治43(1910)年2月2日東京浅草の生まれの桐塑人形作家。本名園子。父は岡山県出身の日本画家大林千萬樹。大正12(1923)年関東大震災で被災し、13歳で奈良に転居。奈良女子高等師範学校附属高等女学校を卒業後は、病弱のため静養していたが人形に興味を持ち始め、大阪文楽座横で人形を作っていた人から初めて手ほどきを受ける。本格的に斯道に入ることになったのは、昭和15(1940)年30歳で東京に戻り、人形作家平田郷陽に指導を受けてからである。その後は同17(1942)年日本画家小林古径の紹介で彫刻家平櫛田中に師事し、その後は人形作家堀柳女にも教えを受け、ますますこの道の研鑽が深められていった[1][2]。
昭和31(1956)年、艸の実会(くさのみかい)を主宰して後進の育成にも力を注いだ。1996年に人間国宝に認定された秋山信子(重要無形文化財である衣装人形の保持者)などは、艸の実会創設初期からのメンバーであった。
昭和46(1971)年5月20日、京都にて逝去、61歳。日本工芸会に正会員として所属。全日本女流人形美術展、現代人形美術展、京展、京都美術懇話会展などで活躍[1]。
年号 | 年齢 | |
---|---|---|
明治43年(1910) | 2月2日、人物を得意とした院展系画家・大林千萬樹の次女として東京の浅草に生れる。本名園子。 | |
大正12年(1923) | 13歳 | 関東大震災に遭い奈良に転居。 |
大正15年(1926) | 16歳 | 奈良女高師附属女学校を卒業。卒業後は病弱のため静養が続いたが、人形に興味を持ちはじめ、大阪文楽座横で人形を作っていた人から初めて手ほどきを受ける。 |
昭和15年(1940) | 30歳 | 東京に移転、平田郷陽に師事。 |
昭和17年(1942) | 32歳 | 小林古径の紹介で、平櫛田中に師事。その後、堀柳女からも指導を受ける。終戦までは文学、特に文楽に主題を求めたものが多く、主として日本人形社展に出品。 |
昭和22年(1947) | 37歳 | 第3回日展に「母子」初入選。 |
昭和23年(1948) | 38歳 | 第4回日展に「姉妹」出品。 |
昭和26年(1951) | 41歳 | 第7回日展に「あね」出品。(東京国立近代美術館工芸館:金沢 所蔵) |
昭和29年(1954) | 44歳 | 第10回日展に「お母さんの子」出品。 |
昭和31年(1956) | 46歳 | 艸の実会を主宰し、後進の育成に力を尽くす。 |
昭和32年(1957) | 47歳 | 第4回日本伝統工芸展に「人形つかい」出品。 |
昭和33年(1958) | 48歳 | 第5回日本伝統工芸展に「游君」出品。技術賞を受ける。 |
昭和34年(1959) | 49歳 | 京都に移転。第6回日本伝統工芸展に「おんな」「ふみ」出品。第11回京展に「満月」出品。 |
昭和35年(1960) | 50歳 | 第7回日本伝統工芸展に「心」「長夜」出品。 |
昭和36年(1961) | 51歳 | 近畿支部第3回日本伝統工芸展に「青い木の実」出品。 |
昭和37年(1962) | 52歳 | 第9回日本伝統工芸展に「西銀座昼の月」出品。(東京国立近代美術館工芸館:金沢 所蔵) 第14回京展に「不遜な十六歳」出品。 |
昭和38年(1963) | 53歳 | 第10回日本伝統工芸展に「をどり」出品。第15回京展に「青衣少女」出品。 |
昭和40年(1965) | 55歳 | 第12回日本伝統工芸展に、鑑査委員として「庄屋の孫娘」出品。第17回京展に「虫めずる姫君」出品。 |
昭和41年(1966) | 56歳 | 第13回日本伝統工芸展に、鑑査委員として「べに」出品。(岡山県立美術館 所蔵) |
昭和46年(1971) | 61歳 | 5月20日、61歳で京都にて逝去。 日本工芸会に正会員として所属。 全日本女流人形美術展、現代人形美術展、京展、京都美術懇話会展などで活躍。 |
『人形 大林蘇乃 人形は作者の「ひとりごと」』株式会社フジアート出版(平成6年5月24日発行)より引用・追記 |
技法・作風
[編集]技法としては、桐の挽き粉に生麩糊を混ぜて粘土状にした桐塑に、やや粗めの胡粉彩色仕上げの手法を用いた大らかなフォルムによって、詩情溢れる世界を創出している。桐塑は可塑性があることから、肉付けが容易で、木彫りや張り抜きよりも自由がきき、仕上げに用いられる和紙や布との相性がよく、素材が生み出す質感を自在に表現へと変換できる[2]。
大林蘇乃の作品は、「欠点があるところに人間の美しさがある」と自ら述べているように、人間が誰でももつ欠点や弱さを率直にさらけ出したような独特の魅力を持った作品である[3]。
作風は大きく分けると、3期にわけられる。
第1期は初期活動期からほぼ終戦迄で、文学、特に文楽に主題を求めた作品が多く、主として日本人形社展に出品された時代である。
第2の時期は、昭和22(1947)年の第3回日展初入選以後、日展に出品した時期からで、昭和32(1957)年頃(官設日展の最後は同年)まで続く。この時期は主に女性像や子供の像、テーマとしては母性愛を扱ったものが多いが、いかにも愛情深い姿をした中に楚々とした清楚感が見られて、人形作家:大林蘇乃としての独自性が表わされた時期である。
そして第3期は、この後から晩年迄で、この期はどちらかというと、成熟した女性の心情や境地を直接とりあげた時期で、活動の舞台は日本工芸会の伝統工芸展に移った(昭和32年から出品)時期である。自身も、“ 若い時は文学書なんかよく読んだのですが乱読で…。いま人形に出したいなと思うのは水商売の人の年輪といった哀感です。そんなものにひかれます。(昭和39年1月3日,夕刊京都,作家訪問より) ” 、と述べている。いずれにしても清楚にしてきりりとした人形を心がけ、人形芸を単なる飾りから芸術芸にまで高めようと志した時期と言える[4]。
自身の人形に対する想いを感じさせる言葉をいくつか残しているので紹介してみよう。
・「もっと親しみやすい、どこかまのぬけたところのある人形があってもよいのではないか。見る人の感情が、そのぬけたところへ入り込んで、自然に心なごむような人形。人間と対立しない人形。そんなのが作れないかな あと思う」
・「どこまでも人形はサラサラと何気なく仕上げたい。苦心の表面に出た人形などきらいである。長唄にたとえれば「大薩摩」でなく、「吾妻八景」とか「都鳥」のような軽い明るい調子でゆきたい。どこまでも見る人を安らかに気楽に、もう一つ欲をいえば塩気のきいたユーモアを含ませたいものである」
・「自分の作品は、床の間におくものではなく、居間で家人と ともにくらしうるような場所におかれてこそうれしい」[5]
参考文献
[編集]・「岡山県立美術館コレクション」日本文教出版、2022年
・「MASTERPIECES DOLLS 工芸館名品集-人形」東京国立近代美術館、2010年
・「感じる鼓動 東京国立近代美術館工芸所蔵 人形展」ニューカラー写真印刷株式会社、2008年
・「人形 大林蘇乃 人形は作者の「ひとりごと」」艸の実会編、株式会社フジアート出版、平成6年
・「京都市美術館コレクション」京都市美術館、昭和46年