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利用者:Ryouchan123/sandbox

|名称=浜名湖ロマン 浜名湖ロマンとは浜名湖を取り巻く地形の不思議とそこから生まれる偉人や産業との絡みが織りなす新たな伝説のことです。
  この「浜名湖ロマン」の発案並びに提唱者は、ボートデザイナーでNPO浜名湖クラブ理事の小林 昇氏です。

  NPO浜名湖クラブの浜名湖ロマン事業のページでは、小林氏による解説動画も掲載しています。

はじめに

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 東海地方の地図を90度左に回転させると、不思議な事に人の横顔が浮かび上がりますよね。そしてその人物像の眼(まなこ)が浜名湖(はまなこ)になるではありませんか。
浜名湖は、日本のほぼ中央に位置し、湖面の大きさで見ると日本では10番目の湖である。そして、日本最大の標高を誇る美しい山、富士山を有する静岡県にある。

静岡県は四季のある日本においても、比較的一年中温暖な気候として知られ、北側には高い山が連なり、南側は太平洋に面し、白く長い砂浜が続いている。   古来、多くの人々の往来があり、特にいにしえの情景は歌としても残されている。そして経済的にも文化的にも日本の発展に大きく寄与した土地柄である。

この土地柄に関心を持った時、不思議に思う事だが、なぜ、浜名湖周辺から中世においては徳川家康豊臣秀吉のような、先を見通した傑出した指導者が育ったのか、また、近世に於いてはトヨタホンダスズキヤマハ(敬称略)等のような世界企業が生まれたのか、不思議でならなかった。

 それぞれの伝記等を探ると、大きく浜名湖周辺の土地柄が関わっていたように思えるが、今となっては、その真意を知ることは出来ない。 しかし、現在まで過ぎ去ってきた歴史は動かせない事実であり、そこには夢や希望を満たす“浜名湖ロマン”の存在を感ぜずにはいられない。 では東海の地形から生まれる幻想的な結びつきの話、世界一の湖としての浜名湖事実とともに浜名湖ロマンを感じて下さい。

浜名湖新伝説(浜名湖ロマン)

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 浜名湖が含まれる東海地方は運が降りてくる土地柄で強力なパワースポットかも知れない

 偉人や世界企業が育つ浜名湖周辺 

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 不思議にも経済や文化の中心である東京や大阪から遠く離れているのにも関わらず、浜名湖周辺からは、近世、世界企業と呼ばれる、トヨタホンダスズキヤマハ(敬称略)等の世界企業が生まれ育っている。 また、中世においても日本を統一した豊臣秀吉や、徳川家康も、この浜名湖周辺で育ち成功への機会を得た人物である。  ボート、クルーザ、エンジンなどのマリンビジネスに於いても同様で世界的な新技術や産業の生まれる土地柄であり、浜名湖周辺は何とも不思議で魅力のある所である。

 東海の不思議な地形 

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 ある時期、浜名湖周辺の不思議な産業集積や偉人の輩出に疑問を持ちながら、歴史書や郷土史、そして企業の社史などを読む日々が続き、近隣の図書館を訪問した。これらの資料を断片的であるが、一通り見続けているうちに浜名湖を取り巻く地形も考える必要が出てきた。そして、より具体的な地形を見る為に、地球観察衛星のランドサットの撮った中部地区の地形をテーブルに置いて眺めて見た。

見慣れた地形であるが、離席、着席を繰返すうちに、テーブルに置いた地形を90度、方向をずらした時に、不思議にもそこには浜名湖を眼とした、王冠を被ったような人物の横顔が浮かんできた。(浜名湖ロマン事業のページ参照) これには驚きというよりも何か神秘的なものを感じた。確かに浜名湖は“まなこ=眼”である。 この神々しさを感じる人物の眼は、何か愛おしく下方の場所を見つめているように感じる。この場所を地図上で確認すると、見ている場所は天照大神を祭る伊勢神宮ようである。 この人物像の髷の部分は伊豆半島であり、王冠の先端は御前崎、鼻にあたる所は渥美半島である。そして口の中は三河湾になり、顎にあたる所は知多半島である。このように東海地方は神々しさを感じる人物の姿をしているのである。

 浜名湖は”まなこ=眼”である 

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 浮かび上がった人物像の眼である浜名湖を見ながら人物を囲むように円を描くと、更に驚愕の事実が浮かび上がった。 まずはその線上の水辺には、伊豆半島の神々が集まる島として有名な神津島諏訪湖諏訪大社琵琶湖竹生島都久夫須麻神社が現れた。 そして山においては山岳信仰で有名な、御正体山八ヶ岳乗鞍岳大日岳、更に日本の聖地と言われる三輪山(大神神社)等のいわゆるパワースポットと呼ばれる場所が次々に並んだ。 紛れもなく、その中心は浜名湖であり、まさに日本最大のパワースポットの地である。これ程の聖地の中心だからこそ、歴史上の人物や世界企業が生まれ育ったのも不思議ではないと考えると容易に納得できそうである。 しかし、浜名湖周辺の人々が常に同じような、恩恵を受けるかというとそうではないと思われる。そこには常日頃からの熱い願望を持った人々に、それを後押しする力が働くという事だと思う。そうした点で浜名湖周辺は、運の降りてくるところなのかもしれない。 浜名湖は、まさに“まなこ=眼”であり、“先を見通す眼力”の源泉があるようだ。先人達がこの浜名湖で熱い思いや熟慮する事で、浜名湖からその人々に贈り物として、力を与えるのではないだろうか。そう考えた方が理解し易いかもしれない。

 東海の地形と不思議な関係 

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 ■ 浜名湖: 浜名橋と角避比古神社
 古代及び中世の浜名湖の南部には、東西を往来する浜名橋が架かっていたという。しかし、今もその場所が何処であったか特定されていない。同じように、その往来時に参拝されたと言われる、角避比古神社も現在どこにあったか特定されていない。

いずれにしても古代、東西を行き来した人々にとって、浜名湖は心の拠りどころであり、何かを願う場所だったと思う。 角避比古神社は明応7年(1498年=室町時代)、天変地異により所在が分からなくなったとされているが、現在、浜名湖畔にある湊神社、細江神社、猪鼻湖神社のほか、周辺の神社の多くが、その流れを受ける神社であるというほど、格式の高かった神社のようである。    角避比古の神はどのような方だったか、文献上にはその存在が殆ど残されていないが天変地異により、むしろ浜名湖一円に広がり眼(まなこ)と重なり、さらに大きな力を生み出していると考えた方が、浜名湖を愛し成功した先人の軌跡が理解し易いと思う。

 ■富士山:富士山と簪(かんざし)
 富士山は日本の最高峰と言われるだけでなく、その神秘的で美しい山の姿から霊峰と崇められ、今も昔も、人々は山の姿を見るだけで何か圧倒され、また、清々しさを感じるようである。

そして富士山は、いわゆる連山ではなく一つの巨大な山という事から、大きなエネルギーの源と感じる人も多いようである。 地形的に見ると富士山の大きく開いた火口は、人物像の髷の根元に位置している。古代の人達が頭上に簪を刺す場所である。  簪が飾りとして用いられたのは後世の事で、古代において簪の棒の部分には呪力の宿る(世界大百科事典 第2版)場所と記されている。富士山の地下深くマグマへたどり着くまでの、細長い溶岩道は、まさにこの人物像の簪である。 現在、富士山は活火山として今なお、巨大なエネルギーの蓄積場所として、その存在感を人々に与えている。何とも不思議な地形との合致である。

 ■御前崎: 御前崎の地名
 浜名湖を眼とした人物像の頭部は冠を被っているように見える。その先端は御前崎である。地名の由来は御厩崎(うまやざき)から転化したという説があるが、何となく釈然としない。

この御前崎には、毎年カツオの食べ頃になると、海に突き出た高台の宿に泊まる事にしている。地元の年配の女性の話によると、不思議にも海辺の高台でも、飲料できる井戸があり、遠く東京や関西から何時、何分に汲み上げた水を求めに来る人達がいたのを子供の頃良く見かけたという。この御前崎も神聖な場所なのである。 話は戻り、この御前崎という地名であるが、御前崎は“御前=ごぜん”の先という意味だと思うが、この“御前=ごぜん”とは、御前会議などの天皇や神々の前を指す事である。  つまり、この地は御前の先であって、人物像が理解できて初めて名が付いたと考えられる。前述の通り、当時の人達はこの地形の意味するものを充分理解していたと考えられる。 この仮説はどうだろうか。当時の人には浜名湖を眼とした人物の地形が形として理解できたのではないだろうか。 例えば、同じような古い時代のナスカの地上絵を考えてみてはどうだろうか。現代人には既に失われたかもしれないが、当時の人達は広い土地であっても、歩くという行為で、頭に地形を浮かべられる能力があったのではないか。  これの一つの実証と考えられるものに、サッカーのような集団で行われるスポーツに於いて、地上では目の高さで見て競い合っているものの、鍛錬された選手の中には俯瞰図で見えるという事がテレビ報道で紹介されていた。鍛錬すれば、既に失われたと思える潜在的な能力を呼び起こせるのかもしれない。

 こうした能力は浜名湖を見る東海の人達もナスカの人達も同じだったと思う。この能力を考えると、唯一、現代人に残された臭覚の能力が似ていると思う。 例えば背中の後ろに、ある料理が運ばれてきた場合、それを見なくても判別できる能力はまだ失われてはいないようである。しかし、将来は退化してしまうかもしれない。現代人は進歩しているのか退化しているのか、分かり難い狭間で行動しているようである。

因みに、御前崎の元日の日の出は、伊豆諸島の神の集まる島である神津島方面から上がり、日の入りは本州最南端の潮岬、そして九州最南端の佐多岬に下がり、太平洋側の岬が重なる。これらは当時、東海の地形から現れる人物像を知り、太陽神を敬う海洋民族とっては大変意味のある土地柄だったかもしれない。今となっては尋ねる事も出来ないロマンである。

 ■渥美半島: 花の伝承
 浜名湖を眼とした人物像の“鼻”の部分は長く伸びた渥美半島である。渥美半島の生産物としては、電照菊やメロンなどが有名であり“花”の関連の出荷量は概ね日本一である。

 “花”と“鼻”は昔から花緒、鼻緒や花紙、鼻紙など同様に用いられてきた。顔の鼻、草の花、いずれも見栄えを意味するものかも知れない。ここで考えなければいけないことに、古代の大和言葉である。 古来、大和言葉は人間も植物も生きているものは同じように表現していたようである。芽と目 花と鼻 葉と歯 穂と頬 実(み)は沢山の実がなる事から複数の耳(みみ)の様である。 漢字が伝来すると、それぞれに意味合いをつけ区分したのかもしれない。いずれにしても、人間と植物を見る時に一緒に目で感じていたのは、古き時代の感受性の豊富さだったようである。  確かに人物像の鼻の部分は、日当たりの良い鼻筋の通った地形で、浜名湖と伊勢神宮を結ぶ、日の出の光と花(鼻)の道であり、花が栄える潜在的な力を宿した土地柄と考えると納得できる気がする。

 ■東三河: ほの国
 愛知県の東三河地方(豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、設楽町、東栄町、豊根村)は大化以来“ほの国”と呼ばれていたと、豊橋市の観光関連の広報に記されている。現在、豊橋周辺には“ほの国”の名が付く公共施設や劇場があり、また、豊橋で行われるマラソンの冠名にもなっている。

 広報にはひらがなの“ほのくに”や漢字の“穂の国”と書かれており、漢字が導入される以前の大和言葉では、前述のように穂(ほ)は頬(ほ)と同じ意味に使われていたようである。興味深いのはそれを裏付けるが如く、古代この地方は寶飫(ほお)郡と呼ばれていた(世界大百科事典 第2版の解説)ことである。 まさに、この地方は人物像の頬(ほお)の位置にあり、集合した市町村の地形も頬を造り出している。古代の人々はこの地方の位置づけを、明確に知っていたのではないだろうか。  頬(ほお)は人の顔の形成を表す最も表現豊かな所である。植物の穂も豊かに実る姿は全く同じようである。こうした事から“ほの国”は豊さを表現する土地柄を意味し、地名として東三河では、豊橋、豊川、豊根のような地名がついたと思う。

 ■南信州 下伊那郡: 果実(実・実=耳)の村
 下伊那郡は長野県の南部に位置する複数の町村で構成されている、いわゆる三遠南信と呼ばれる地域であり、諏訪湖周辺から産出した古代の生活用具の黒曜石の供給ルートで、古くから浜名湖とは縁の深い地域である。

現在でも諏訪湖を源とする天竜川の水は三方原用水として浜名湖周辺に流れている。また、東海道を通る東名高速道路からも三遠南信につながる道路も着工され、今後、増々海辺と近くなる地域である。 下伊那郡は人物像では耳に位置する所である。耳はいわゆる大和言葉では実・実=耳である。ここでも実のなるものとして葡萄、林檎、梨などの果実が多量にできる、日本有数の実の栄える実・実(耳)の地域である。

 ■知多半島: 舌は味覚のかなめ
 浮かび上がる人物像の顎にあたる部分は知多半島である。この付根の舌の部分は愛知県半田市碧南市そして武豊町にあたる。舌は甘味、塩味、うま味、酸味、苦味などの味を感じる所であり、料理と深い関係がある。この料理に大きく影響を与えるのが調味料である。

これについてそれぞれの市や町も古くからの特産品は、味醂や味噌等の舌で感じる調味料の一大産地である。港近くや運河等では黒板張りの醸造蔵が立ち並び今も面影を伝えている。  なぜこの地に味醂等の調味料の集積地になったかという事については、気候や水が良く、米がたくさん取れたからだと言われているが、それに類する所は他にも多数あり釈然としないものがある。地形的に将来、産地になる事が古代から織り込まれていたのではないかと思うと、それなりに納得がいくようであるが、驚きの何ものでもない。 因みに舌は味覚だけでなく、しゃべるという事にも使われる。そこで知多半島は、舌(した)半島が訛ったものと考えると、更に納得がいくのかもしれないが、考え過ぎのような気もする。

 ■三河湾三島: 神々の食事の地
 三河湾に浮かぶ篠島日間賀島佐久島の三河湾三島は、魚介類の豊富な漁場である。そして古代から伊勢神宮との繋がりの深い土地柄であり、伊勢神宮への食物の朝貢の地でもある。そうした点で島内には関連した施設や行事が長い年月に渡って引き継がれている。

この三島には縄文や弥生時代の遺跡があり、古墳も多数発見されている。古代から伊勢湾、三河湾の水上交通の要の地として栄え、現在も渥美半島知多半島からの定期船や高速船が頻繁に航行している。 三河湾三島は人物像の口の前にあり、まさに、島自体が口の中に入ろうとする食物の様である。三河三島は古くから言われてきた神々の食事の地と言われ続けてきたが地形的にもそれが証明された感じがする。

 伊勢神宮との関係 

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 ■神座のトキワマンサク: トキワマンサク伊勢神宮
 浜名湖畔の西側の湖西市に、嵩山(すやま)という美しい三角形をした山がある。この山頂からは浜名湖が瞳として輝く姿が見える。この麓の地名は神座(かんざ)と言い、古代この山を崇拝した証として、中腹に神座古墳群がある。

 この麓の神座には日本には三ヶ所しかないトキワマンサクの群生地がある。神座はその北限である。この三ヶ所というのは神座と伊勢神宮熊本県の小岱山であり、いずれも古代から神々の宿る場所として知られていると同時に、それぞれ極めて海辺に近い所にある。 不思議にも、出雲大社鹿島神宮香取神宮など日本の古くからの神社の多くは海辺(水辺)の近くに建てられている。これらは何を意味するのだろうか。

一つの大胆な仮説であるが、神座、伊勢神宮、小岱山にあるトキワマンサクの木は自然の群生地ではなく、日本形成時の神々を信仰する人々により、聖地と考えられるこの三ヶ所に植樹をしたのではないかと思われる。

 トキワマンサクは台湾、中国南部、インドなど南方に分布する樹木であり、トキワマンサクの花は、緑の葉の中に白紙が束ねたような花が咲き、いかにも神聖な儀式や祭事に神に対する作法として使う紙垂(現在は白紙であるが以前は木綿であった。)の原型のように思えてならない。  これらは遥か南方から神々しい人々が、九州そして太平洋沿岸の海流に乗り聖地と思われる所に降り立った証ではないだろうか。

これを裏付けるような出来事としては、有名な厳島神社の総本宮であり、ヤマト王朝の樹立に貢献した、宗像大社を崇める宗像海人族が、領域拡大の為に日本海側に椿の木を植樹した事が伝えられている。トキワマンサクも同じような考えで植えられたのでなないでしょうか。

遠い昔の事で今となっては確かめる手段は無いが、日本形成時にこの浜名湖周辺、特に神座の地が日本の発展に大きな役割を果たしたと考えると、興味の尽きない“浜名湖ロマン”である。現在、トキワマンサクの木だけがその事実を知っているのである。

 ■田原神戸、浜名神戸: 田原神戸と浜名神戸
 古代、船の信頼性も極めて低い時代に、伊勢神宮では対岸にある渥美半島の中央の田原市に神戸(伊勢神宮領)を逸早く領した事が記録として残っている。更に浜名湖近隣に浜名神戸も領していた。

本来、領地を造るなら伊勢神宮に近接した行き来し易い所に造るものであり、まして古代に海を渡る遠方の地に、逸早く造った意味は何だったのだろうか。

伊勢神宮はアマテラス大御神を祭る太陽神といわれている。従って太陽は生活を営む為の全てであり、とりわけ日の出は最も重要な事柄だったと思う。

眼である浜名湖方面は伊勢神宮の日の出の地であり、前述したが、当時の人には浜名湖を眼とした人物の地形が理解できたと考えられ、重要視したと思う。日の出という眼から発する光を求め、田原や浜名湖に神戸を領したのは当然の事だった考える。 いずれにしても浜名湖から渥美半島を通り、伊勢神宮までの光の道は、古代人にとって神聖であり、大きな意味を持っていたのかもしれない。

 ■伊勢神宮の位置: 崇高な地に建つ伊勢神宮
 伊勢神宮は日本人にとって心の拠りどころとなる神社である。それは社の中に入った途端に、多くの人は空気の違いを心で感じ、なぜか穏やかな気持ちになる事からわかる。不思議な力である。

昔から伊勢神宮には諸々の伝説や言い伝えがあるが、過去に何があったのかという事は今となってはわからない。前述したように伊勢神宮も他の神社と同様に海辺近くにあり、もしかすると高い文明や支配力を持った人々が海を渡り、日本へ渡来してきた時の拠点であり、そのリーダーの生死をかけた由緒ある地であったのかもしれない。

伊勢神宮が現在のような高い格式を持つ神社になったのは、壬申の乱以後と言われている。それ以前からも当然、伊勢の地に何かしらの神社が存在していたと考えられる。そこで、最初の伊勢神宮をなぜこの地に建てたか、浜名湖ロマンの視点から大胆な仮説を立ててみた。

伊勢神宮の成り立ちには鎮座地を探した元伊勢伝承があり、各地に元伊勢と呼ばれる所がある。これは既に神社のある所、或いは関連のある場所に対して、鎮座が相応しいか確認するものである。これとは全く別に、初めての地に神社を建てるという考えもあったと思う。どちらにしても、伊勢の地が相応しいか探したはずである。 その場合、仮説であるが最初に伊勢に神宮を立てようと決めた人々は、もしかするとこの地形から浮かぶ人物像を理解できていたかもしれない。 それは人物像から伊勢神宮を見ると神宮が何か愛おしいように見える。また逆に伊勢神宮の方から人物像を見ると人物そのものを崇めたいように見える。結果として、この関係の様が素晴らしいと考えて建てたのではないだろうか。  それを補足するかのような興味深い点は、伊勢神宮から見た人物像は、古代、最も重要な日の出の方向にあり、時により浜名湖(まなこ=眼)方面から上がる日の出の位置ではなかっただろうか。太陽を敬う人々にとっては最も大きな事柄だったと思う。 その光は湖面を渡り、渥美半島の鼻筋を通り、神島を過ぎて海面を渡り伊勢神宮に光を射すような情景である。古代の人々はこの事実を知って神宮を建てたと考えると、現在の荘厳な伊勢神宮の神秘性をより強く感じる事ができ、壮大なロマンが浮かび上がる。

 浜名湖ロマン十景 

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 浜名湖ロマン十景の選定にあたって 

今回、浜名湖ロマンの切口で、変わりゆく自然景観に思いを馳せると同時に、いにしえの人々の感性に触れる良き機会として、気軽に訪問できるよう浜名湖ロマン十景を設定した。

〔浜名湖ロマン十景は次の通りである〕  新居浜と浜名橋 白須賀と浜名川 江尻鼻と瞳水面 嵩山(すやま)とトキワマンサク  瀬戸と猪鼻湖神社 浜名神戸と浜名惣社神名宮 細江神社と澪標(みおつくし) 井の国と天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 内浦と曽許乃御立(そこのみたち)神社 弁天島と今切舞阪港


 新居浜と浜名橋 

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 古代から中世にかけて、浜名湖南部の新居浜近くには、東西を往来する為の浜名橋が架かっていたという。しかし、今もその場所が何処であったか特定されていない。同じように、その往来時に参拝されたと言われる、角避比古神社も現在、何処にあったか特定されていない。

角避比古神社は明応7年(1498年=室町時代)、天変地異により所在が分からなくなったとされているが、現在、浜名湖畔にある湊神社、細江神社、猪鼻湖神社のほか、周辺の神社の多くがその流れを汲むというほど、格式の高かった神社のようである。

角避比古の神はどのような方だったか、文献上にはその存在が殆ど残されていないが天変地異により、神社は浜名湖(まなこ=眼)一円に広がり、さらに大きな力を生み出しているようである。

現在、日本最大のパワースポットといわれる浜名湖に於いて、古来、東西を行き来した人達に親しまれ、歌に詠まれた浜名橋や角避比古神社は、何処にあったのか、新居浜周辺を探訪し、時空を超えた推理に挑むのはどうだろうか。

〔周辺の観光施設〕・新居の関所・今切口・海湖館

 白須賀と浜名川 

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 明応7年(1498年)の大地震以前の浜名湖は、現在の今切口は無く、浜名湖南部の白須賀近くを流れる浜名川により、太平洋に注いでいた。 古来、太平洋は徐福伝説を含め多くの海人(海神)が黒潮に乗り、夢ある地を探し求め、沿岸に上陸したようである。日本の古くからある大きな神社の殆どが水辺にあるのは、こうした事からかもしれない。

古代の浜名湖にも多くの神々の足跡があり、海流に乗りこの白須賀の地に上陸し、浜名川を多くの人がロープで船を引きながら遡上し、湖内に入って行ったと思われる。 その夢ある活動姿が清々しさとしてこの地に残り、白須賀の潮見坂から太平洋を見下ろす時には、自然と感じる事ができる。そして何かしらの活力や幸運が体にまつわり付くような気がする所である。是非、感じて見てはどうだろうか。 因みにこの白須賀は、後に天下をとる徳川家康に運が舞い降りたところでもある。 (白須賀の密談: 概要は、天下分け目の戦は関ヶ原であるが、勝敗を決したのは、小早川秀秋の裏切りが極めて大きいと史実では言われている。当時、この裏切りについて、小早川秀秋の家老が西国からこの白須賀まで来て、家康と面談して確約したと言われている。当時の家康は天下まで獲るとは考えていなかったと言われ、まさに運を掴んだ地である。)

〔周辺の観光施設〕・おんやど白須賀・潮見坂・白須賀(旧東海道)

 江尻鼻と瞳水面 

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 浜名湖は眼(まなこ)であり、その瞳は水面として江尻鼻や女河浦の湖畔から見る事ができる。いずれも瞳を妨げるものは無く、清々しく見る事ができる場所である。 また、この場所からは今切口に架かる浜名大橋、東名高速道路の浜名湖橋、そして瀬戸に架かる新瀬戸橋の“浜名三橋”を見る事ができる。とにかく浜名湖全体を手に取るように見る事ができるのがここである。

雄大な水面を前にして、瞳を閉じながら瞑想すると、些細なことに気を病むことは消え、新鮮な心持になれる。大きく深呼吸をして瞳水面の大気を体の中に取り入れて見ては如何だろうか。

 不思議にも村櫛を越えた対岸の地名は、瞳(ひとみ)の語源でもある“人見”である。その湖畔の地は古くから人見(ひとみ)と呼ばれ、現在は瞳ヶ丘団地や瞳ヶ丘保育園がある。

 〔周辺の観光施設〕・本興寺・豊田佐吉記念館

 嵩山(すやま)とトキワマンサク 

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 浜名湖畔の西側の湖西市に、嵩山(すやま)という美しい三角形をした山がある。この山頂からも浜名湖が瞳として輝く姿が見える。この麓の地名は神座(かんざ)と言い、古代この山を崇拝した証として、中腹に神座古墳群がある。 この麓の神座には日本には三ヶ所しかないトキワマンサクの群生地がある。神座はその北限である。この三ヶ所というのは神座と伊勢神宮と熊本県の小岱山であり、いずれも古代から神々の宿る場所として知られていると同時に、それぞれ海辺に近い所にある。 前述したが不思議にも、日本の古くからの神社の多くは海辺(水辺)の近くに建てられている。これらは何を意味するのだろうか。 一つの大胆な仮説であるが、トキワマンサクは台湾、中国南部、インドなど南方に分布する樹木であり、トキワマンサクの花は、緑の葉の中に白紙を束ねたような花が咲き、いかにも神事に用いる紙垂(現在は白紙であるが以前は木綿であった。)の原型のように思えてならない。 このトキワマンサクは単なる群生地ではなく、日本形成時に神聖なる植物と崇め、信仰する人々が渡来して、聖地と考えられるこの三ヶ所に植樹をしたのではないかと思われる。 (似た実証例がある=古代、宗像三神を崇拝する人々は、日本海側の聖なる地に椿を北限の秋田まで植樹していった例がある。) 日本の形成時には、浜名湖や特に神座が聖なる地であったと考えると、興味が尽きない。嵩山頂上より水面に映り迫る日の出を見る事は、神聖な気持ちを得るようだ。現在、トキワマンサクの木だけがその事実を知っているのである。

〔周辺の観光施設〕・摩利支天・湖西連峰

 瀬戸と猪鼻湖(いのはなこ)神社 

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 猪鼻湖は浜名湖の北側に位置し、西から北にかけ山が連なり一年中緑の木々に囲まれ、湖面は比較的穏やかで風光明媚な北の湖である。

古くから山側には神社仏閣が建てられ、猪鼻湖の北には山側の東海道として本坂街道(姫街道)が通っている。この本坂街道の名の由来は、猪鼻湖の北側から豊橋に向かう坂道の事で、豊橋は古代“ほの国”と呼ばれ、“ほ”の坂の道から、本坂街道と呼ばれるようになったという説が強い。

因みに“ほの国”の“ほ”は、大和言葉で顔の頬(ほ)と同じ意味であり、浜名湖ロマンで説明している人物像の頬と同じ位置に豊橋があり、古代の人達が人物像の顔の位置を認識して“ほの国”と名付けたと考えると納得しやすい。  更に時代を遡ると“ほ”ではなく“ほお”(寶飫郡=ほおぐん)と呼ばれていたことが判明した。実に驚きである。

瀬戸は浜名湖から猪鼻湖に入る比較的狭い水路であり、その為に猪鼻湖は独立した山間の湖のように見える。この瀬戸に古くから猪鼻湖神社が鎮座されており、社に向かうには水際を歩くことになるが、その為に独特の参拝気分を感じる事ができる。猪鼻湖神社は大きな社はないものの、緑の木々と赤い橋が湖面全体と調和して大変美しい。 橋の前では湖であるにもかかわらず潮のにおいが漂い、立ち止まって周囲を見渡すと心落ち着く不思議な場所である。

〔周辺の観光施設〕・姫街道三ヶ日宿本陣跡・乎那の峯

 浜名神戸と浜名惣社神名宮 

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 古代、三ヶ日地域は浜名神戸と呼ばれ伊勢神宮領であった。浜名湖畔近くにある神社の社は概ね浜名湖の方向を向いている。しかし浜名惣社神明宮は別の方向を向いている。それは伊勢神宮である。

船の信頼性が極めて低い時代に、伊勢神宮では対岸にある渥美半島中央の田原市に田原神戸、そして浜名湖畔に浜名神戸を逸早く領していた。 本来、領地を広げようとすれば、伊勢神宮に近接した所に造るものであり、まして古代に海を渡る遠方の地に、逸早く造った意味は何だったのだろうか。

伊勢神宮はアマテラス大御神を祭る太陽神といわれている。当時、太陽は生活を営む為の全てであり、とりわけ日の出は最も重要な事柄だったと思う。 眼である浜名湖方面は伊勢神宮にとっての日の出の地であり、当時の人には浜名湖を眼とした人物の地形が理解できたと考えられ、重要視したと思う。 日の出という眼から発する光を求め、田原や浜名湖に神戸を領したのは当然の事だったのかもしれない。 いずれにしても浜名湖から渥美半島(中央に田原神戸)を通り、伊勢神宮までの光の道は、古代人にとって神聖であり、大きな意味を持っていたのかもしれない。まさに浜名湖ロマンであり、魅力的な謎解きである。

川隣りに鎮座する遠州織物の発祥地である初生衣神社も、伊勢神宮との関係が深い古社である。毎年、御衣(おんぞ)を伊勢神宮に奉納する神社でもある。

〔周辺の観光施設〕・みかんの里資料館・摩訶耶寺・大福寺

 細江神社と澪標(みおつくし) 

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 古代、東海道の旅人が浜名湖の往来時に参拝したという格式の高い角避比古神社は1498年、天変地異により神社の形が崩れ、浜名湖一円に分散し、最終地として気賀の赤池に漂着し、その御神体を祀ったのが細江神社と言われている。 この出来事により細江神社を初め、広く浜名湖一円に形を変えた新しい力として生まれ変わり、時空を超えた影響力を発揮するに至ったようである。 細江神社の参拝後に清々しい気持ちになるのはそのせいかもしれない。

 細江神社のある引佐細江の都田川流域は、古代最も神聖な地域として栄えたことが伺える。その証として陸上では、日本有数の銅鐸の出土地であり、また多くの古墳が見られる所である。そして水上に於いては1300年前から都田川河口に、澪標が設置されていた事で理解できる。 澪標は浅瀬を知らせるものであり、その水域の状況を知らない船乗りに警告する為のものである。そうした事から察すると、この地には遠方より多くの船が出入りした事が推測される。 古来、船の出入りが頻繁であった大阪でも、多くの澪標が河口に設置されていたとされ、澪標住吉神社も鎮座していた。現在、大阪市は澪標を市章としており、それと同様に細江町の町章も澪標であった。

遠い昔に都田川を中心に神聖なる文化圏が広がり、時に祭り事に際して銅鐸を船に乗せ、川上へ遡上する船の姿は何とも言えない光景だったと思う。 この地は、澪標を見ながら古代に思いを馳せる事ができる魅力的な場所である。

〔周辺の観光施設〕・気賀関所・姫街道と銅鐸の歴史資料館・陣座ヶ谷古墳

 井の国と天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 

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  浜名湖北部の引佐細江に都田川が注いでいる。都田川の河口から約2km上流の気賀で井伊谷川と合流し、井伊谷川の更に上流で分岐した神宮川沿いに、天白岩倉遺跡がある。古代この地域を井の国と呼んでいたようである。

 井の国とは一般的に水の豊富な地域を意味しているようで、この地域一帯は濃い緑の山々から緩やかな平地に向かって、一年中安定した水量の複数の川が流れている。遠い昔から人々が自然と共に豊かに生活を営んでいたことが容易に想像できる場所である。

天白磐座遺跡は古社である渭伊神社の北側の薬師山頂上にある。薬師山は三方を川で囲まれた標高約40mの低い山で、頂上には多数の岩があり磐座全体を構成している。 この地域一帯には多くの古墳が存在しており、古代、生活の為の治水は最も重要な事柄から、天白磐座遺跡は人々が末長く繁栄する事を願い、祈願した古代の祭祀場の様である。 現在でも磐座の巨石に手を当て、目を閉じると、頭上から何かが降りてくる気配を感じる魅力的な所である。

因みに井の国の井伊谷は徳川幕府の重臣であった井伊家代々の地である。その始祖である藤原共保は、浜名湖の瞳に位置する村櫛で育ち成人している。そして養父は当時、陸の孤島であったこの場所をなぜ選択したのか不思議である。

〔周辺の観光施設〕・井伊谷宮・龍潭寺・竜ヶ岩洞・実相寺

 内浦と曽許乃御立(そこのみたて)神社 

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  浜名湖北部の内浦の東に曽許乃御立(そこのみたち)神社がある。この神社は現在の茨城県にある鹿島神宮の祭神である武甕槌神(タケミカヅチ=建御雷神)が、大和に向かう途中に根本山に立ち寄った際に造られた神社とされている。

その証か、曽許乃御立神社の祭神は鹿島神宮の祭神と同じであり、鹿島神宮と同様に境内に御手洗池があり、祭事として御船祭(みふねまつり)が行われている。祭神である武甕槌神(タケミカヅチ)は日本神話の中で出雲の大国主命から力により(諸説あり)国譲り迫ったとされる武神である。  その国譲りで出雲に出かけたのは天鳥船(あめのとりふね)を使ったとされており、鹿島神宮も出雲大社も港近くであり、曽許乃御立神社も浜名湖の内浦近くである。現代人が考える以上に、古代の人達の船の活用は盛んであったのかもしれない。  曽許乃御立神社から約2km離れた北側に、神社と関係の深い根本山があり、山の麓は大規模古墳群になっている。曽許乃御立神社の社の参道は浜名湖の内浦の浜辺に向いており、古代、この地域一帯は、内浦の湾を活用した大きな文化圏が存在し、日本建国神話の国譲りや神武東征に深く関係したかもしれない。 まさに浜名湖ロマンである。 今も残る曽許乃御立神社の鎮守の杜には、力強く枝を伸ばした御神木がある。その下に立ち、見上げると、体全体の気が入れ替わるような気持ちになるのが不思議である。当時、御立(みたち)というこの場所で気を新たにし、出発したのかもしれない。

〔周辺の観光施設〕・舘山寺温泉・浜松動物園・浜松フラワーパーク・大草山

 弁天島と今切舞阪港 

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 弁天島や舞阪港は遠江と呼ばれた頃から現在まで、文献を見る限りこれほど地形が変わったところも珍しい。古代から現在まで、東西を行き来する旅人の舞阪一帯の印象は、その時代ごとの景観の違いにより異なったと思う。 それだけに、この地に立ち、遠くの景観を見るにあたり、地形というものは常に変わるものであり、その変化に挫けず前に進もうという気概が生まれるような土地柄である。 現在、弁天島や舞阪一帯の発掘調査や海底遺跡の発見などから、弥生時代の生活道具等が見つかり、この地に於いて漁業生活を中心に人々が暮らしていたことが分かってきた。 舞阪の古社として岐佐(きさ)神社があるが、明応7年(1498年)の地震と津波により、社殿の一部が現在地に漂着した事により社殿を建てたとの事である。それ以前の岐佐神社が何処にあったかは現在も不明である。また、浜名湖の南部に今切が出現し、外海と繋がるようになったのもこの時である。 この天変地異により、弁天島や舞阪港の周辺は海に没したり、淡水湖であった浜名湖が海水と混じる汽水湖になったり、この地の住人は表現できない様な絶望的な驚きがあった事だと思う。 現在、舞阪港ではアサリやシラス漁等が営まれ、弁天島では観光的な活動が行われ、多少なりとも絶望感のあった時代とは異なっている。 この地には天変地異により地形が変わっても、逞しく進んでいこうとする力がみなぎっているようだ。弁天島や舞阪港を訪問し、地元の海産物を食し、不撓不屈の気力を付ける事が良いかもしれない。

〔周辺の観光施設〕・舞阪宿脇本陣・東海道松並木・弁天島海浜公園・渚園