利用者:Quark Logo/sandbox1下克上・再構成
下剋上 / 下克上 (げこくじょう)とは、下位の者が上位の者を政治的・軍事的・身体的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさす。「下、上に剋(か)つ」の意味。
一般に下層階級台頭の社会的風潮を言うが、日本史ではクーデター(事変)や暗殺、権力簒奪の事件ともなっている。
概要
[編集]元々は6世紀頃の中国・隋の書物に見られた言葉。日本では、鎌倉時代後期に出現した既得権益を守るために権力とも戦う「悪党」や、南北朝時代の動乱期の社会的風潮であった「「ばさら」」も下克上の一種とされた。太平記には「臣君を殺し子父を殺す。力を以て争ふ可き時到る故に下克上の一端にあり」とある。
こうした傾向は室町期に顕著となり、「下剋上する成出者」と二条河原の落書に詠われ、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともされた。
公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下克上と理解するのが、当時のほぼ一般的な観念だった。中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。
一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化する例は枚挙にいとまがないほどであり、例えば、島津忠良・南部晴政・里見義堯らの事例がある。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われた。陶晴賢による大内義隆の追放・討滅といった例もある。
中央政界においても、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害といった例があり、将軍位すら危機にさらされていたのである。
しかしながら、こうした家臣が主君を倒した例は、下克上の名の通り実際に下位者が上位者を打倒し、地位を奪う例とは限らない。主君を廃立した後に家臣が主君にとって代わる訳ではなく、主君の一族を新たな主君として擁立する例が多くみられる。上述の赤松・細川・松永氏による下克上の後も、実際には足利氏の者が将軍に擁立されている。大内義隆を討滅した陶晴賢が、自らが大内氏に取って代わるのではなく、大内義長を主君として迎えたのは、その典型である。家臣が主君にとって代わった場合も、その家臣はほとんどが主君の一族である。
そのため、下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。例えば、武田晴信による父武田信虎の追放も、実際には家臣団による後押しがあってのものであり、主君押込めの一例とされている。必ずしも主君を討滅する必要はなく、目的が達成できれば主君を早期に隠居させ、嫡男が主君になるのを早めるだけでもよかったのである。
このように、戦国期の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国期の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。
もっとも、室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎない。守護以外の者が守護に取って代わって支配者となる現象は、戦国時代において頻発していたのも事実である。
従って、確実に下克上と言える事例も多々存在する。例えば斎藤道三の美濃の国盗りは、典型的な下克上の例である。しかしこの下克上は、旧守護土岐氏の家臣たちの反感を招き、後に嫡男・義龍と敵対した際に、ほとんどの家臣が義龍の側につくという結果を招いた。その斎藤義龍は道三の実子ではなく、旧守護・土岐頼芸の子であるという説がある。確証は無いもののそうした噂が立つ事自体が、下克上に対して抵抗が大きかった事を示している(言葉を換えれば、道三と義龍との敵対も、家臣らによる主君である道三の押し込め、義龍の擁立であり、主導したのは家臣らであったという説もある)。
戦国時代の下克上の最大の成功例は、織田信長によるものである。信長は主君の下尾張守護代・織田信友を討滅し、続いて自ら擁立した尾張守護・斯波義銀を追放し、さらには将軍・足利義昭も追放して、事実上その地位を奪っている。だがそうした信長の姿勢は皮肉にも家臣の豊臣秀吉に継承された。
しかし、この風潮は徳川家康の下克上によって終止符を打たれた。
こうして家康以降は、下克上の風潮は廃れたが、主君押込めの風潮はその後も残った。幕末に至るまでしばしば主君押込めが見られた。名君として知られる上杉鷹山も、その改革の成功は、改革に反対する家老たちによる主君押込めの試みを乗り切ったうえではじめて成ったものであった。
なお、真に下克上と言われる場合においても、倒すのは直接の上位者であり、さらなる上位者の権威は否定せず、むしろその権威を借りる場合が多い。織田信長は最終的には追放に至るものの途中までは斯波義銀や足利義昭の権威を借りており、朝廷の権威は終生に至って借りている。安芸守護を討滅した毛利元就も、室町幕府と朝廷には忠実であった。極悪人とされる宇喜多直家も、勤王家としての側面を持っていた。下克上の最たる例とされる後北条氏においても、一時期であるが関東公方(古河公方)家を擁した時期がある。
また、近年の批判として実際には主君の方が家臣の生殺与奪の権利を掌握し、中世日本を通じても下克上とは反対の現象――上位の者が下位の者を討つ上克下/上剋下の方が多く、ほとんどの場合は上下の者が対立した場合には下位の者が下克上を行う前に上位の者から勘気を蒙って殺害(すなわち上克下)されており、上克下を無視して下克上だけを取り上げるのは現実の中世社会とは乖離しているとする指摘もある[1]。浅井氏による江北の支配も、形式的には当初は京極氏を推戴する「主君押込め」であり、後に京極氏が追放されるのは、京極氏による支配権奪還の失敗、つまり京極氏が「上克下」を行おうとした事への反撃であった。
元々は6世紀頃の中国・隋の書物に見られた言葉。日本では、用語としては鎌倉時代から南北朝時代より見られ、鎌倉時代後期から出現した自らの既得権益を守るために権力と戦う悪党や、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」も下克上の一種とされた。足利尊氏は1336年に制定した幕府の施政方針を示した政綱である「建武式目」にてばさらを禁止している。
こうした傾向は室町期に顕著となり、「下剋上する成出者」と二条河原の落書に詠われ、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともされる。公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下克上と理解するのが、当時のほぼ一般的な観念だった。中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。
一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化する例は枚挙にいとまがないほどであり、例えば、島津忠良・南部晴政・里見義堯らの事例がある。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われた。陶晴賢による大内義隆の追放・討滅といった例もある。
中央政界においても、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害といった例があり、将軍位すら危機にさらされていたのである。
しかしながら、こうした家臣が主君を倒した例は、下克上の名の通り実際に下位者が上位者を打倒し、地位を奪う例とは限らない。主君を廃立した後に家臣が主君にとって代わる訳ではなく、主君の一族を新たな主君として擁立する例が多くみられる。上述の赤松・細川・松永氏による下克上の後も、実際には足利氏の者が将軍に擁立されている。大内義隆を討滅した陶晴賢が、自らが大内氏に取って代わるのではなく、大内義長を主君として迎えたのは、その典型である。家臣が主君にとって代わった場合も、その家臣はほとんどが主君の一族である。
そのため、下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。例えば、武田晴信による父武田信虎の追放も、実際には家臣団による後押しがあってのものであり、主君押込めの一例とされている。必ずしも主君を討滅する必要はなく、目的が達成できれば主君を早期に隠居させ、嫡男が主君になるのを早めるだけでもよかったのである。
このように、戦国期の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国期の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。
もっとも、室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎない。守護以外の者が守護に取って代わって支配者となる現象は、戦国時代において頻発していたのも事実である。
従って、確実に下克上と言える事例も多々存在する。例えば斎藤道三の美濃の国盗りは、典型的な下克上の例である。しかしこの下克上は、旧守護土岐氏の家臣たちの反感を招き、後に嫡男・義龍と敵対した際に、ほとんどの家臣が義龍の側につくという結果を招いた。その斎藤義龍は道三の実子ではなく、旧守護・土岐頼芸の子であるという説がある。確証は無いもののそうした噂が立つ事自体が、下克上に対して抵抗が大きかった事を示している(言葉を換えれば、道三と義龍との敵対も、家臣らによる主君である道三の押し込め、義龍の擁立であり、主導したのは家臣らであったという説もある)。
戦国時代の下克上の最大の成功例は、織田信長によるものである。信長は主君の下尾張守護代・織田信友を討滅し、続いて自ら擁立した尾張守護・斯波義銀を追放し、さらには将軍・足利義昭も追放して、事実上その地位を奪っている。だがそうした信長の姿勢は皮肉にも家臣の豊臣秀吉に継承された。
しかし、この風潮は徳川家康の下克上によって終止符を打たれた。
こうして家康以降は、下克上の風潮は廃れたが、主君押込めの風潮はその後も残った。幕末に至るまでしばしば主君押込めが見られた。名君として知られる上杉鷹山も、その改革の成功は、改革に反対する家老たちによる主君押込めの試みを乗り切ったうえではじめて成ったものであった。
なお、真に下克上と言われる場合においても、倒すのは直接の上位者であり、さらなる上位者の権威は否定せず、むしろその権威を借りる場合が多い。織田信長は最終的には追放に至るものの途中までは斯波義銀や足利義昭の権威を借りており、朝廷の権威は終生に至って借りている。安芸守護を討滅した毛利元就も、室町幕府と朝廷には忠実であった。極悪人とされる宇喜多直家も、勤王家としての側面を持っていた。伊勢氏出身の幕府官僚であった北条早雲による伊豆国侵入(堀越公方家の討滅)も、幕府の足利義澄の将軍擁立と連動したともいわれる。後を継いだ後北条氏も、名目上は常に関東公方(古河公方)を擁し、幕府からの正式な補任はなされないまま、山内上杉氏に対抗して関東管領を自認していた。
また、近年の批判として実際には主君の方が家臣の生殺与奪の権利を掌握し、中世日本を通じても下克上とは反対の現象――上位の者が下位の者を討つ上克下/上剋下の方が多く、ほとんどの場合は上下の者が対立した場合には下位の者が下克上を行う前に上位の者から勘気を蒙って殺害(すなわち上克下)されており、上克下を無視して下克上だけを取り上げるのは現実の中世社会とは乖離しているとする指摘もある[1]。浅井氏による江北の支配も、形式的には当初は京極氏を推戴する「主君押込め」であり、後に京極氏が追放されるのは、京極氏による支配権奪還の失敗、つまり京極氏が「上克下」を行おうとした事への反撃であった。前述の後北条氏の下克上も、上克下への反撃としての主君押込めの事例も見られる。
下克上の一覧
[編集]上記の通り、真の意味で下克上と呼ぶには異論がある場合もある。なお色のついたものは失敗例である。
下克上をした者 | 下克上をされた者 | 事件 | 年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
上杉憲実 | 足利持氏 | 永享の乱 | 1438年 | さらなる上位者である室町幕府将軍足利義教が、持氏討伐を命じている。 |
赤松満祐 | 足利義教 | 嘉吉の乱 | 1441年 | 義教は多くの守護大名家の家督に介入しており、満祐は不安を覚える立場だった。なお満祐は義教謀殺には成功するも、後に討伐されている。 |
長尾景春 | 上杉顕定 | 長尾景春の乱 | 1476年 | 太田道灌の活躍によって鎮圧。 |
朝倉氏景 | 斯波義孝 | 1482年 | 斯波義俊を名目上の主君として擁立。 | |
尼子経久 | 京極政経 | 1482年 | 尼子経久は京極氏の一門である。 | |
細川政元 | 足利義材 | 明応の政変 | 1493年 | 足利義澄を擁立。 |
北条早雲 | 足利茶々丸 | 1493年 | 今川氏親が早雲に援助しており、早雲も氏親の遠江進出に協力している。 | |
長尾為景 | 上杉房能 | 1508年 | ||
足利高基 | 足利政氏 | 永正の乱 | 1516年 | 父子 |
浦上村宗 | 赤松義村 | 1517年 | ||
毛利元就 | 武田元繁 | 有田中井手の戦い | 1517年 | 安芸の国人の毛利元就が、安芸守護の武田元繁を打ち破った戦いだが、仕掛けたのは武田であり、また当時の毛利・武田は大内氏に臣従する立場であり、大内氏に対する武田氏の下克上の失敗とも解釈できる。 |
神保慶宗 | 畠山尚順 | 1519年 | ||
浅井亮政 | 京極高清 | 1523年 | 名目上は京極氏が近江守護であり続け、完全追放は京極高吉の代。 | |
島津忠良 | 島津宗家 | 1526年 | ||
里見義堯 | 里見義豊 | 稲村の変 | 1534年 | 近年の研究によって正当な継承者の義豊から義堯が家督を奪った事実が明らかになる。 |
斎藤道三 | 土岐頼芸 | 1541年 | 美濃追放後の頼芸は、晩年には美濃に帰参している。 | |
武田晴信 | 武田信虎 | 1541年 | 父子 | |
伊達晴宗 | 伊達稙宗 | 天文の乱 | 1547年 | 父子 |
三好長慶 | 細川晴元 | 1548年 | ||
大友宗麟 | 大友義鑑 | 二階崩れの変 | 1550年 | 父子。通説では宗麟は不関与だが、関与していた説もある。 |
陶晴賢 | 大内義隆 | 大寧寺の変 | 1551年 | 大内義長を迎えて主君として推戴。 |
織田信長 | 織田信友 | 1554年 | ||
斎藤義龍 | 斎藤道三 | 1556年 | 父子。ただし義龍は実際は土岐頼芸の子という風聞あり。 隠居させられた道三が、国主の座の奪還を狙って失敗したという説があり。 | |
織田信長 | 斯波義銀 | 1557年 | ||
龍造寺隆信 | 少弐冬尚 | 1559年 | ||
宇喜多直家 | 浦上宗景 | 1561年 | ||
三好義継、三好三人衆、松永久通 | 足利義輝 | 永禄の変 | 1565年 | 足利義栄を擁立。 |
織田信長 | 足利義昭 | 1573年 | 室町幕府の滅亡 | |
長宗我部元親 | 一条兼定 | 1574年 | 一条兼定が家臣団による主君押込で追放された事件だが、事実上は長宗我部元親が土佐を統一。一条兼定は翌1575年に 四万十川の戦いで旧領回復を図るも敗北。 | |
明智光秀 | 織田信長 | 本能寺の変 | 1582年 | |
羽柴秀吉 | 織田家 | 賤ヶ岳の戦い | 1583年 | 秀吉が柴田勝家ら他の織田家臣を討伐した戦いだが、事実上は秀吉が織田家の権力を掌握した。 織田家は1592年に、織田秀信が秀吉の家臣の立場で再興。 |
伊達政宗 | 伊達輝宗 | 粟之巣の変事 | 1585年 | 父子。通説では輝宗が畠山義継に拉致された事件だが、政宗が謀殺したとの異説がある。 |
徳川家康 | 豊臣家 | 関ヶ原の戦い | 1600年 | 家康が石田三成ら他の豊臣家臣を討伐した戦いだが、事実上は家康が天下を掌握した。 豊臣家は1615年に大坂の陣で滅亡。 |
鍋島直茂・勝茂 | 龍造寺高房 | 鍋島家の御家騒動 | 1607年 | 鍋島父子に藩の実権を握られた高房が、憤慨の上自決。龍造寺一門は勝茂を藩主に推したため幕府も承認。 |
柳川調興 | 宗義成 | 柳川一件 | 1609年 | 柳川調興が主家から独立して旗本への昇格を狙い、対馬藩の国書改竄の事実を幕府に対して訴え出るも、幕府は宗義成を無罪、柳川調興は津軽に流罪とした。 |
脚注
[編集]- ^ 久保賢司「〈戦国〉期 上克下論」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3)
参考文献
[編集]- 小和田哲男『ひっくり返った下剋上』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<本能寺の変>〉、2014年。ASIN B00MN849MW