利用者:Quark Logo/sandbox高橋鑑種・下書
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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死没 | 天正7年4月24日(1579年5月19日) |
改名 | 一萬田親宗→高橋鑑種→宗専 |
別名 | 親宗、通称:右馬助、三河守、法名:宗専(宗仙) |
官位 | 左衛門尉、左衛門大夫、三河守 |
主君 | 大友義鑑→義鎮(宗麟)→毛利元就 |
氏族 | 大友流一萬田氏→大蔵流高橋氏 |
父母 | 父:一萬田親泰(親敦)、養父:高橋長種 |
兄弟 | 一萬田親実(鑑相)、鑑種、宗像鑑久 |
子 |
長宗、元光、力姫 養子:鎮種(紹運) [1]、種冬[2]、元種[3] |
高橋 鑑種(たかはし あきたね / かねたね )は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。筑前国宝満山城、岩屋城主。豊前国小倉城主。
生涯
[編集]大友氏庶流一萬田氏(いちまたし)の一族。一萬田親泰の次男で一萬田親実(鑑相)[4]の弟。初名は親宗で、一萬田 親宗(ちかむね)を名乗った。
大蔵流筑後高橋氏の高橋長種には子が無く、大友義鑑に請うて親宗を養嗣子とした。親宗は義鑑からの偏諱と高橋氏の通字「種」をもらって鑑種に改名した[5]。通称はもともと右馬助などを称していたが、高橋氏の慣例である三河守と以後は改めた。
義鑑から家督を継いだ大友義鎮(宗麟)は、初め武勇に優れ才気ある鑑種を重用して、天文20年(1551年)に義鎮の弟・晴英(大内義長)が大内氏の家督を継ぐことになると、橋爪鑑実[6]と共に義長に付き従って大内家に入る奉行人となった。
天文22年(1553年)正月、一萬田鑑相、宗像鑑久(むなかた あきひさ)、服部右京亮の討伐を命じた。大友の老中吉岡長増たちは反対していたのだが、義鎮は命令を強行させている。これにより一萬田家当主である兄の鑑相、弟の鑑久、甥たちを殺された(甥の中で鑑相の嫡男・鑑実は生き残った)。
鑑種が筑前に配置された時期はよく分かっていないが、立花山城督となった立花鑑載の与力であった。
扶持2千石を与えられ、御笠郡郡代であったとした。
時期はよく分からないが、何れも天文22年もしくは
の末頃、筑前国守護代杉興連が大寧寺の変で死んだ後は空席となっていた守護代[8]
)に鑑種が任命された。守護代として九州最高の行政機関大宰府も管理することになった鑑種は、
山腹に少弐氏の居城有智山城(当時廃城)があった宝満山の山頂に宝満山城を整備し、宝満城督となり、その支城として岩屋城、升形城などをさらに築いて、支配体制を強化した。
しかし義長は弘治3年(1557年)に毛利元就に攻められ自害させられてしまう。鑑種は義長に使者として豊後に送られていたため一命をとりとめたようである。その後、大友氏に帰参した。鑑種は武勇に優れた人物であり、重臣小原鑑元の反乱で宗麟も避難するほどの大乱が起こり戦局は激しいものだったが、鑑種は鑑元が篭る城に火を放つことに成功して勝利の元を作る大功を成した。
永禄3年(1560年)、伊予西園寺氏を討伐した際、西園寺家臣の土居清宗を討ち取ったのも鑑種だといわれている。さらに秋月文種を討つ大功を挙げた。
永禄4年に門司合戦に出陣したが大友は敗れた。永禄5年(1562年)7月、毛利氏の誘いを受けて毛利に寝返った。原因は不明であるが、兄・鑑相の妻を宗麟が横恋慕したことに憤慨したとも、宗麟から大内義長を助けるために対毛利攻めのために諸豪族の調略を命じられ、この下準備に奔走していたにも関わらず、両家が急に和睦してしまったために調略活動が水泡に帰し、面目を失ってしまったためとも伝わる。鑑種を味方にしたことに毛利隆元は大喜びした[9]。鑑種は豊前の香春岳城をくれるよう求めたが、毛利家臣の杉連緒が所持しており、毛利元就・隆元親子は「香春岳城を鑑種に渡すと杉連緒が大友に行ってしまうかもしれない」と言って二人を維持して味方させることに頭を悩ませている。また毛利家が筑前一国を手にした場合、その中から6郡くれるよう要求、毛利親子はこれは了承している[10]。鑑種は表立っては謀反は起こさず水面下で宗像氏貞や秋月種実や毛利家臣と好を結んでいった。永禄9年(1566年)、「鑑種に謀反の志あり」と次々に大友に報告が入った。当初大友宗麟は「近年鑑種がいろいろと勝手なことをしていると聞いているけれども忠節無比の人なので」と言って噂を信じていなかった。宗麟は吉良という苗字の家臣を送り鑑種に詰問したが鑑種は何も答えず吉良を追い返した。謀反が確実であることを知った宗麟は「大切に育んでやったのに」と悔しがっている。討伐隊が来ることを察すると秋月種実、龍造寺隆信を誘い大友に反旗を翻らせた。秋月種実は永禄10年4月上旬に挙兵、隆信は6月か7月に挙兵している。これに合わせ毛利氏も宗像氏貞、筑紫惟門・鎮恒(しげつね、広門の弟)親子、原田隆種・親種親子を呼応させ大友に蜂起させた。
永禄10年7月宗麟は戸次鑑連(のちの立花道雪)らを指揮官とした討伐軍を派遣。この軍の主兵力として、豊後国の朽網氏、吉岡氏、豊後斉藤氏、筑後国の蒲池氏、田尻氏、溝口氏、三池氏、問註所氏、そして甥・鑑実を中心とする一萬田氏までもが加わっていた。永禄12年(1569年)に尼子義久の家臣山中幸盛が出雲国に攻め込んだために、毛利元就は九州から撤退してしまう。そのため、後ろ盾を失った高橋鑑種は進退窮まり大友義鎮に降るが、高橋家の家督を剥奪されてしまう。
その後、毛利元就に引き取られ小倉城主となる。当主を失った高橋氏は断絶の危機を迎えるが、吉弘鎮理こと後の高橋鎮種(紹運)により名跡が引き継がれ存続した。
鑑種は耳川の戦いで大友氏が衰退すると、秋月氏より養子・元種を迎えた。 天正7年(1579年)には豊前国蓑島城にて毛利氏に反旗を翻した杉重良を討ち取り、大友方の千手鑑元の守る香春岳城を攻め落し養子の元種を城主として置き、続く馬ヶ岳城の長野重勝を降し秋月種実の弟・種信を入れて長野氏(ちょうのし)を継がせ、同年4月24日に小倉城にて病死した。
子孫
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 塙保己一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 高橋記」『続群書類従. 第23輯ノ上 合戦部』続群書類従完成会、1927年、101-169頁 。
- 近藤瓶城 編『国立国会図書館デジタルコレクション 高橋紹運記』 第15、近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年、491-560頁 。
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年、1495頁 。
- 肥前史談会 編『九州治亂記全』肥前史談会〈肥前叢書: 第2輯〉、1937年。
- 「永禄9年(推定)11月24日大友宗麟書状 問註所鎮連(問註所統景の父)宛」 問註所文書(1)(2)
関連項目
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