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利用者:Quark Logo/sandbox高山右近

 
高山右近 / 高山重友
太平記英勇伝九十二:高山右近友祥(落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文21年(1552年
死没 慶長20年1月8日1615年2月5日[1]
別名 友祥、長房、重友
通称:彦五郎、右近大夫、右近允、右近助
号:南坊等伯
霊名 ジュスト(ユスト、寿須、寿子)
墓所 ディラオ広場英語版[2]マニラ市
官位 従五位下大蔵少輔
主君 松永久秀和田惟政荒木村重織田信長豊臣秀吉前田利家利長
氏族 高山氏
父母 父:高山友照、母:マリア[3]
兄弟 右近、太郎右衛門、女(和田惟政室)
正室:高山ジュスタ
長房、忠右衛門、亮之進、ルチヤ(横山康玄室)
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高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将安土桃山時代の代表的なキリシタン大名播磨船上城[4]主であったが、豊臣秀吉バテレン追放令によって所領を没収され、さらに江戸幕府禁教令によって国外追放となって、フィリピン総督領の地で亡くなった。この殉教により、平成28年(2016年1月21日福者に列せられている[5]

「右近」はよく知られた通称で、官途名の右近大夫からきている。より私的な通称では彦五郎。重友(しげとも)、友祥(ともなが)、長房(ながふさ)、などと言った[6]。一般的には重友とされているが、この項目では名乗りを変えた時期が不明なので、通称の「右近」で統一する。

洗礼名ジュストユスト[7])で、寿須寿子を称した。宣教師の史料では大名クラスの武将はしばしば、「ドン」の尊称をつけて書かれているが、ドン・ジュストも称したようで、重出と署名したものがある[8][9]。晩年は剃髪して南坊等伯(みなみのぼう とうはく)を称し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られた。

生涯

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生い立ち

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父は摂津国人高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

高山氏摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。

永禄7年(1564年)、三好長慶がに没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政高槻城に置き、彼と伊丹親興池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとる。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。

和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れたが、同地で死亡した[10]

この事件の後、高山父子は村重の支配下に入った。村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。

友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えた。

荒木村重の反乱

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荒木村重錦絵図

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗した。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めた。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスした。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫する。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。懊悩した右近はここにいたって信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭した。荒木村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

キリシタン大名として

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天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った[11]。 その後も小牧・長久手の戦い四国征伐などにも参戦している。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

国外追放

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秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田福井県福井市大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。

死後

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高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請した[12]

同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し[13]、翌平成28年(2016年)1月21日に教皇フランシスコが認可した。今後、正式に福者に上げられる「列福式」は日本で行われる見通し[5]

逸話

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  • 羽目を外さない非常に真面目な人物だったらしく、秀吉を始めとする諸将がそのことを褒め称えた証言や数々のエピソードが残されている。織田有楽斎の『喫茶余禄』による右近の茶道の評価は「作りも思い入れも良いが、どこか“清(きよし)の病い”がある」というものだった。
  • ルイス・フロイスの『日本史』によると、高槻城下である村人が亡くなった時、当時は賎民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させたという。
  • バテレン追放令を出した秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせて棄教を促したが、右近は「主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士である」と答え、利休に説得を諦めさせた。

系譜

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兄弟
姉妹
息子
  • 初(ルチヤ) - 横山康玄と婚姻、後に離縁。父とともに国外追放。
子孫
  • 石川県高山家
長房(フランシスコ)-有道-得重右中-節庵-豊機-久太郎
  • 福井県高山家
忠右衛門?-八左衛門五三郎-辰五郎-正行
  • 大分県高山家
亮之進…淡水英明(元大分市長


高山右近を主題とした作品

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脚注

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  1. ^ 片岡千鶴子「高山右近」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年
  2. ^ 「ディラオ」は黄色の意味で、黄色人種の町、日本人居留地を意味した。
  3. ^ 『戦国人名事典』(新人物往来社)より。実名や出自については不詳。
  4. ^ 明石に築かれたので、別名で明石城とも言う。
  5. ^ a b 高山右近、「福者」認定=国外追放のキリシタン大名-バチカン”. 時事通信. 2016年1月22日閲覧。
  6. ^ 因みに、長房の名は嫡男と嫡孫にも付けられている。
  7. ^ ポルトガル語(またはフランス語等の)読みでは「ジュ」スト、ラテン語(またはイタリア語方言の)読みでは「ユ」ストとなる。右近は自身の花押として「重出」「寿須」「寿子」といった字を用いており、ジュストと発音していたと考えて矛盾はない。意味は聖書の一節より、「正しい者(義人)」。
  8. ^ 高柳 & 松平 1981, p.144
  9. ^ 署名は、高山右近寿須、高山右近寿子、高山右近重出など、すべて先に高山右近が付く。
  10. ^ 惟長が生存したという説もある。詳細は和田惟長のページにて。
  11. ^ この際、戦わずして陣を放棄したため、周囲の非難を浴びたという(黄微古簡集・余呉庄合戦覚書)。また、この件で勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められている(多聞院日記)。
  12. ^ 高山右近を「福者」に認定へ ローマ法王庁”. 日本経済新聞. 2015年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月23日閲覧。
  13. ^ キリシタン大名:高山右近「福者」に…バチカン審査委了承”. 毎日新聞. 2015年6月23日閲覧。
  14. ^ (『綿考輯録』)
  15. ^ (『細川家御家譜』)
  16. ^ H. チースリク「キリシタンとしての蒲生氏郷」(高橋富雄編『蒲生氏郷のすべて』新人物往来社、1988年)58-59頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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