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利用者:Quark Logo/sandbox贖宥状

贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia, : indulgence)とは、歴史的には中世後期カトリック教会が金銭の寄進をした信徒に対して、自己および他人(特に煉獄にいる死者)の犯した罪の償いを免除するとして教皇の名の下に発行した証明書。贖宥符または免償符とも言う。

日本での通俗的な訳[1]として免罪符ドイツ語: Ablassbrief)とも呼ばれていたが、本来、罪を赦す免罪ではなく[注釈 2]、罪への罰を善行・苦行で償う免償贖宥)という行為をさし、贖宥状はその(有限か長期または永遠に続く場合もある)免償の許しを金銭の支払いに代えて贖ったことを証明するという教会制度である。免罪という表現は、「購う者の罪は直ちに赦される」[2]と贖宥説教者が言い広めて問題となった誤った解釈が元になっており、その後、発言自体も否定されたことから、近年はより宗教教義的に適切な用語の方が用いられる。

14世紀から16世紀にかけて世俗化して堕落した教会は、主に財政的理由から、次第に告解や悔悛も伴わない物質主義的な贖宥状を乱発するようになったことから、マルティン・ルターによる贖宥状批判に端を発するドイツ宗教改革に火をつけることになった。なお、対抗宗教改革として開かれたトリエント公会議の決議により、金銭による贖宥の認可・売買は禁止されることになったが、贖宥状そのものは現代でも存在する。



罪を告解したことを証明する告白証明書と、改心の有無にかかわらず金銭を支払ったことを証明する償金証明書






贖宥状の歴史

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教皇クレメンス4世から販売を承認されたドム大聖堂の建設のための贖宥状(1265年)
1516年の贖宥状の実物。(シュトラールズント歴史博物館所蔵)

贖宥ということは原始教会から伝えられてきた慣行ではない[3]。ローマ教皇による贖宥で今日知られているものの最古は1091年ウルバヌス2世が公布したものだと言われている[3]1095年、この教皇は第1回十字軍(1096-1099年)を召集するに際して、これに参加する者に対して全面的な贖宥(全贖宥)を与えた[3]

十字軍兵士に与えられる贖宥は、その後、人を雇って代理を参加させる者にも、さらに金銭を献納して参加に代える者にも与えられるようになり、その適用は拡大されていった[3]。十字軍以外に関しても、1265年にはクレメンス4世ユトレヒトドム教会の建設費用を集めるために贖宥状を販売することを許可している。

十字軍運動の情熱が冷めた後でも、霊的なものを金銭に換えることの誘惑(シモニア)は、教会を動かした。ボニファティウス8世は、1300年聖年と定める際に、聖年の贖宥(聖年大赦[4]をも制定して、信徒にローマ巡礼を奨励し、ペテロパウロの聖堂へ、ローマ在住者は30日間毎日1回、地方から来た者は15日間毎日1回、詣でる者に完全な贖宥を付与するとした[5]

当時、人口が中小都市程度まで減少していたローマに、多数の巡礼者と巨額な金が流入したことは、都市を大いに発展させたが、一方で市民生活に多大な影響を及ぼした。聖年は創設当初から信仰の証を立てさせるためというよりも、巡礼者をローマに誘致するという都市の商業振興策として意図されており、ローマ市民の誰もがこの巡礼に関係した金儲けに勤しむようになったことの信仰面での悪影響への批判は、(教皇の憤死の数年後に書かれた)ダンテの『神曲』(地獄編第19歌)でボニファティウス8世が地獄に堕ちた教皇の列してることによって、すでに表されていた。このようにこの制度は最初から非宗教界からの批判を受けており、宗教心の厚い人々も快く思ってはいなかった。

しかも、この聖年と大赦は100年に1度と定められていたが、教会大分裂期の対立教皇クレメンス6世によって、ユダヤ教ヨベルの年のように50年に一度とすぐに改変され、本人はアヴィニョン捕囚でローマにいないにもかかわらず、早くも1350年に2回目の聖年が設けられた。ローマの教皇ボニファティウス9世は、財政上の理由から周期とは関係のない1390年に3回目の聖年を設け、クレメンス6世の死後、1400年を100年周期に戻して4回目の聖年とした。その後は25年に一度と間隔が短縮されたが、(トリエント公会議によって廃止されるまで)これら全ての度に贖宥が出されていたことになる。さらには巡礼という行為によって贖宥されるべきであったのが(対立教皇側の妨害などによって)ローマへ巡礼に来られない者にも金銭によって贖宥状が与えられるようにまでなった[5]



贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。

ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。後にボニファティウス9世当時、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。

教皇レオ10世サン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。(詳細はレオ10世による贖宥状参照。)

宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教en:Bishopric of Halberstadt)位を持っていたアルブレヒトドイツ語版英語版の野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた[6]。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしかできないものであった。

アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。

アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持っていた聖アウグスチノ修道会マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の、果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。

この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端となった。

カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行い、綱紀粛正を図ったが、トリエント公会議の決議により、金銭による贖宥の売買は禁止されることになった。

なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。

贖宥の概念

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カトリック教会法典

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現代のカトリック教会とカトリック教徒を律する教会法典には、悔悛[注釈 1]の章に贖宥に関する条項がある。

第911条:すべての者は贖宥を大いに尊重しなければならない。贖宥は罪科としてはすでに赦免された罪のために負わされる一時的罰の神の前における宥免であって、教会の権威者によって、生者には赦免として、死者には代祷として、教会の財産の中から与えられるものである。

第912条:固有権により贖宥を付与することができる者は、主キリストによって、教会の全霊的財産の分配を委ねられているローマ司教のほかに、法律上、明白に、その権利を与えられた者のみである。

[8]



元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。


キリスト教に限らず世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方がある[9]

カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意思説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励した[9]



脚注

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  1. ^ a b キリスト教徒が過去の罪を悔いて神の赦しを請うこと[7]。カトリックではゆるしの秘跡ともいう。
  2. ^ カトリックでは、洗礼後の罪は悔悛[注釈 1]の秘跡によって赦される。そのために特別な寄進は必要なかった。ただしこれは、洗礼を受けたキリスト者が告解によって罪を告白して神の赦しを受け、改心することが前提であり、贖宥状の購入だけで全贖宥が得られるとされた時には、告白や改心すら必要ないと主張されたことが大きな問題になった。宗教改革後の教会内部の改革で、この点は教会法典において公式に修正されている。
  1. ^ 免罪符 ブリタニカ国際大百科事典』 - コトバンク
  2. ^ 平凡社 1935, p. 156.
  3. ^ a b c d ルター & 緒方 訳 1983, p. 97
  4. ^ 聖年大赦 世界大百科事典』 - コトバンク
  5. ^ a b ルター & 緒方 訳 1983, p. 98
  6. ^ 世界歴史大系『ドイツ史1』先史-1648年,成瀬治山田欣吾木村靖二/編,山川出版社,1997,ISBN 463446120X,p430
  7. ^ 悔悛 デジタル大辞泉』 - コトバンク
  8. ^ ルター & 山内 1983, p. 97.
  9. ^ a b 小泉徹『宗教改革とその時代』山川出版社 2010年、第1版10刷、ISBN 9784634342705 pp.27-29

参考文献

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  • マルティン・ルター; 緒方純雄, 山内宣 訳『九十五個条の提題 キリスト者の自由』聖文舎〈ルター著作集分冊 1〉、1983年。 
  • 冨本健輔『ドイツ宗教改革の研究序説』風間書房、1965年。 



関連項目

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