利用者:Quark Logo/sandbox木下利匡
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天正12年4月9日(1584年5月18日) |
別名 | 木下勘解由、利定[1]、通称:勘解由左衛門尉 |
主君 | 豊臣秀吉 → 秀次 |
兄弟 | 祐久、利匡 |
木下 利匡(きのした としただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉の家臣。通称は勘解由左衛門。木下勘解由(きのした かげゆ)の称でも知られる。
略歴
[編集]天正10年(1582年)6月、山崎の戦いでは天王山の山の手の隊、羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・前野長泰ら諸将の末尾に利匡の名があり、これらの部隊は明智勢を切り崩す活躍をした[3]。
天正11年(1583年)、滝川一益の挙兵に際しては3月17日に伊勢国の桑名に出陣するように命じられた武将(利匡・山内一豊・古田重勝・早川長敏・津田信任・糟屋武則)の1人であった。4月、賤ヶ岳の戦いでは五番隊(生駒政勝・黒田孝高・明石則実・利匡・大塩正貞・黒田利則・山内一豊)で参戦した。
天正12年(1584年)頃、天下人秀吉の甥として豊臣秀次を名乗るようになった三好信吉に与力として付けられる。4月、小牧・長久手の戦いにおいて、白山林の戦い奇襲を受けて、乗馬を失った秀次(当時16歳)を逃がそうと自らの馬を譲ってその場に留まり、乱戦の中で戦死した。昭和54年(1979年)、同地には木下勘解由塚[4]として石碑が建てられた。
杉原定利や木下祐久との関係性
[編集]利匡は、しばしば高台院(豊臣秀吉正室、於禰)の叔父と紹介され、豊臣家の一門衆の1人に数えられることがある。これは杉原定利の弟だったと考えていることを意味するが、長久手で共に戦死した木下祐久と定利が同一人物と考えられていた時期があったためである。しかし近年では織田信長の奉行衆の1人としての形跡のある木下祐久(助休)と、ほとんど何の事績も見いだせない杉原定利(道松)とは、別人であると考える方が通説となっている。長久手で両名が戦死した後に、秀吉が秀次に出した折檻状でも、木下助左衛門と勘解由について、自分の義理の叔父が亡くなったような書かれ方はしておらず、「相付候之処両人」[5]と与力武将の戦死として扱われており、『木下家譜』等の諸系図にも利匡の名は見られないため、定利の弟であったと示す史料はない。古くからの家臣であったことが窺えるため、同族であった可能性がないわけではないが、それほど近親の一門衆であったと考えるには論拠が乏しい。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、84頁。