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利用者:Pseudoanas/sandbox ch02

昭和三陸地震での対応

軍の対応

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軍の災害救援活動と復興には、陸軍では第2師団及び第8師団(第8師団は留守部隊)が、海軍では横須賀鎮守府及び大湊要港部が中心となってあたった[1]。軍の側としては、満州事変に対する国民の支持の取り付けと軍のイメージの向上も行動の背景にあった[1]

陸軍

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仙台市に司令部をおいた第2師団は、地震発生の3月3日に管内の岩手県境から石巻町(現石巻市)までの区域を3区域(県境から御岳村(現気仙沼市)津谷、津谷以南から追波川(現新北上川)まで、追波川から石巻町(現石巻市)までの3区域)に分け、それぞれに将校を偵察に派遣した[2]。さらに閖上町(現名取市)方面に将校、坂元村(現山元町)方面に下士官を派遣した[2]。また、師団はこれとあわせてそれぞれ軍医を班長とする救護班を4班編成し被災地に派遣、診療活動にあたらせた[3]。その活動範囲は、岩手県の高田町、広田村(いずれも現陸前高田市)から坂元村や福島県までに及んだ[3]

第2師団の被災地復旧活動には、工兵第2大隊から2個作業隊が編成され、被災地に派遣された[4]。第1作業隊(38名)が3月4日十五浜村(現石巻市)に派遣され、道路、橋の改修や電話線の架設作業にあたった[5]。第2作業隊(37名)は3月7日に歌津村(現南三陸町)に派遣されている[4]

第2師団の活動は物資の供給にも及び、災害当日が3月3日で東北地方ではまだ寒い時期に当たり、被災者は家財道具も失っていることから毛布を被災地に支給した[6]。3月3日に気仙沼町、志津川町、十五浜村、大原村に合計2,000枚、4日には大原村に500枚、8日には坂元村に200枚の毛布を支給した[6]

また第2師団獣医部が被災地の家畜(ウマ、ブタ)の被災状況調査を行っている[6]

第8師団は師団司令部が弘前市にあり、岩手県を管轄する盛岡連隊区があったことから、岩手県で主に救護活動を行った[7]。しかしながら、第8師団本隊は前年(1932年)4月から満州に派遣されていて、その救護活動は留守司令部が中心となった[7]

海軍

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航空機の派遣

館山海軍航空隊から一五式飛行艇霞ヶ浦海軍航空隊から一四式二号水上偵察機が状況視察のためにそれぞれ2機派遣された。

横須賀鎮守府からは第1駆逐隊神風野風沼風及び第6駆逐隊の計5隻、さらに敷設艦厳島が派遣され、 大湊要港部からは第4駆逐隊秋風太刀風帆風羽風の4隻の他に砕氷艦大泊が派遣された。

報道に対する海軍の評価

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脚注

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  1. ^ a b 山本和重 (2015)、p.10
  2. ^ a b 伊藤大介 (2015)、p.206
  3. ^ a b 伊藤大介 (2015)、pp.206-207.
  4. ^ a b 伊藤大介 (2015)、p.208
  5. ^ 伊藤大介 (2015)、pp.208-209.
  6. ^ a b c 伊藤大介 (2015)、p.209
  7. ^ a b 伊藤大介 (2015)、p.210

参考文献

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  • 山本和重 著「北の軍隊と地域社会」、山本和重 編 編『北の軍隊と軍都 : 北海道・東北』吉川弘文館〈地域の中の軍隊〉、2015年、1-12頁。ISBN 978-4-642-06473-6 
  • 伊藤大介 著「昭和三陸津波と軍隊」、山本和重 編 編『北の軍隊と軍都 : 北海道・東北』吉川弘文館〈地域の中の軍隊〉、2015年、203-230頁。ISBN 978-4-642-06473-6