コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Omotecho/sandbox/イザベラ・スチュワート・ガードナー

イザベラ・スチュワート・ガードナー
Isabella Stewart Gardner
肖像写真 (1888年)
生誕 Isabella Stewart
(1840-04-14) 1840年4月14日
死没 1924年7月17日(1924-07-17)(84歳没)
職業 フィランソロピスト
著名な実績 イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館を創設
配偶者 John Lowell Gardner II
テンプレートを表示

イザベラ・スチュワート・ガードナー (英語:Isabella Stewart Gardner、1840年4月14日-1924年7月17日)はアメリカを代表する美術収集家で慈善家、芸術の後援者である。ボストンにイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館を設立した功績で知られる[1]

ガードナーは知的好奇心が旺盛で旅行好きであった。当時の著名な美術家や作家と交流があり、ジョン・シンガー・サージェントホイッスラー、マクニール、デニス・ミラー・バンカー、あるいはアンデシュ・ソーンヘンリー・ジェイムズ岡倉天心やフランシス・マリオン・クロフォードなどと親交を結んだ。

おしゃれで古い型にはまらないガードナーの振る舞いはたびたびゴシップ欄を飾り、話題の種を多く提供している。ボストンの社交界欄はたびたび近況をあだ名で報じ、「ベル」(美人)、「ドンナ・イザベラ」(聖母イザベラ)、「ボストンのイザベラ」、「ジャック夫人」などと記された。1912年に開かれた(とても格が高いとされた)ボストン交響楽団の演奏会を聞きに出かけたときは、髪を飾るカチューシャに「やだ、レッドソックスのファンのくせに」[要説明]という意味の言葉が白地に赤く縫い取ってあったことから、世間がざわついた。お上品ぶった場で「暴動が起こりかけた」とまで書かれたこともあり、地元ボストンではこの一件は今も、ガーデナーの突飛さを伝える語り草となっている[2]

経歴

[編集]
ジョン・シンガー・サージェント作「イザベラ・スチュワート・ガードナー」像 (1888年)

イザベラ・スチュワートは1840年4月14日ニューヨーク市生まれ。父はリネン類取引で財を成したデイビッド・スチュワート、母はアデリア・スミス・スチュワートといった[3]。子ども時代をマンハッタンで過ごしたスチュワートは、5歳から15歳まで自宅に近い美術系の女子校に通う。美術と音楽、ダンスとフランス語、イタリア語を学び、グレース教会の礼拝に列席して宗教芸術と教会音楽、儀式に出会っている。16歳で家族とともにパリに移り、アメリカ人家庭の娘を預かる学校に入学すると、ボストン出身の裕福なガードナー家の娘と同級になる。1857年、イタリアへの家族旅行でミラノポルディ・ペッツォーリ美術館を訪れた際にルネッサンスの蒐集品を鑑賞し、展示室の内装を絵画に合わせてあり、往時を思い起こさせる点に感じるものがあったようで、もし将来、少しでも遺産がもらえたなら、自分もこういう家を作って芸術を見せ、世間の人に楽しんでもらいたいと述べた。ニューヨークに戻ったのは1858年である[4]

帰国後間もなく、クラス替えで同級ではなくなっていたはずのジュリア・ガードナーから、ボストンのガードナー邸に招待される。このときジュリアの兄で3歳年上の、ジョン・ローウェル「ジャック」ガードナーに初めて紹介された。ジャック兄妹の両親はジョン・L・ガードナーとキャサリン・E・(ピーボディ)ガードナーであり、ジャックはボストン社交界で最も望まれる独身男性の1人に数えられていた。1860年4月10日、イザベラとジャックはグレース教会で結婚式を挙げ、ボストンのビーコン街にイザベラの父が買い与えた152番地の家で暮らし始める。夫妻はジャックが亡くなるまで、この家に住むことになる[4][5]

イザベラとジャックには1863年6月18日にひとり息子が生まれるが、肺炎がもとで2歳になる前の1865年3月15日に幼世してしまう。その1年後、イザベラは流産して二度と子どもを産めないと言われた。ほぼ同時期に親友と義妹を亡くしたガードナーはひどく落ち込み、社交界からすっかり身を引いた。医師の勧めもあり、夫妻で1867年にヨーロッパ旅行に出発するときも、担架で運ばれて乗船するほど妻の体調はすぐれなかった。ガードナー夫妻はほぼ1年にわたる旅行中に北欧やロシアを訪れてはいるが、ほぼパリに滞在していたと言ってよい。旅先で妻の健康状態は好転し、またこの旅から旅のスクラップブックをつけ始め、生涯の習慣にするなど人生の転機ともなった。帰国後、おしゃれで快活な社交界の華という名声を築いていく[4]

ジャックの兄ジョセフ・P・ガードナーが1875年に亡くなると、男ばかりの遺児3人をイザベラ夫妻が「養子にして」育てることになった。当時、長男のオーガスタス・P・ガードナーは10歳、イザベラの伝記作家モリス・カーターによると、「イザベラは親代わりという義務に忠実に、真心を込めてこの子たちに向き合った」と記している[3]

旅行と美術品コレクション

[編集]
「ヴェネツィアのイザベラ・スチュワート・ガードナー」(アンデシュ・ソーン作、1894年、ガードナー美術館所蔵)

ガードナー夫妻は1874年に中東中央ヨーロッパからパリ歴訪の旅に出る。やがて1880年代後半から外国の文化との出会いを求め、世界中の芸術に関する知識を広げようとアメリカ国内からヨーロッパアジア各地をしばしば訪れるようになる。夫妻は海外旅行を十数回も繰り返し、アメリカ不在の時期を通算すると10年に及ぶという[6]

ガードナー・コレクションで最も初期に入手した作品は、ヨーロッパ旅行中にもとめた品ばかりである。1891年、父の遺産175万ドルを相続したイザベラ・ガードナーは、ヨーロッパ美術にしぼって収集品を増やしていく[7]。この時期に最初に買った作品は1892年、パリの美術競売商に出品されたフェルメール作「合奏」(1664年頃)である[8]。またエジプトトルコ極東など遠く海外にも目を配り収集すべき品を探すうち、1890年代後半に本腰を入れてコレクションを育てはじめる。急速に質量ともに増えた蒐集品は絵画や彫像が主で、そのほかにもタペストリーや写真、銀器や陶磁器、手稿、あるいは建築の部材として扉やステンドグラス、はたまた暖炉の構え(マントルピース)まで手元に集めていく。

20世紀初頭、ガードナーはハーバード・ランプーン・ビル、その名のとおりハーバード広場に面して立つフランドル式の「古城」に見立てた建造物に飾る美術品を探し、友人で地元ボストンの建築家エドマンド・マーチ・ホイールライトを伴って旅に出る。コレクター人生にわたり、イザベラはこのボストンの現代版の城に多くの芸術品を寄贈しつづける。古城という謎めいた名に恥じず、どれほどの規模になったのか価値の詳細は不明である。

コレクションのうち、ほぼ70点の入手には美術商のバーナード・ベレンソンの手を借りている。同じ作品をめぐって買い取りを競った相手のひとりに、ボストンのとある美術館に代わって作品を手配したエドワード・ペリー・ウォーレンがいる。ガードナー・コレクションにはボッティチェッリ作「聖母子と天使」、 ティツィアーノ作「エウロパの略奪」、ラファエロ作「コロンナの祭壇画」、あるいはディエゴ・ベラスケスなど、ヨーロッパの最も重要な画家の作品を収蔵する。コレクションの一部はガードナー自身が買い付けたものの、当時は女性の美術品コレクターがまだ稀であったため、画商から男性の買い手を所望され、購入手続きを代行させた事例も多い[9]

海外旅行を愛好したガードナーのお気に入りの旅先は、イタリアヴェネツィアだった。当地滞在中の定宿パラッツォ・バルバロは、美術を語るアメリカとイギリスの駐在員が集まる場でもあった。定期的に宿泊した夫妻はその輪に加わることを楽しみ、美術品渉猟には自称美術家でボストンから移り住んだラルフ・カーティスを案内役にして美術品や骨董品を買い、あるいはオペラ鑑賞に出かけ、異国暮らしをするアメリカ人美術家や作家を食事に招いた。

美術館の設立

[編集]

イザベラ・スチュワート・ガードナーはボストンのバックベイ地区ビーコン街の自邸を一度は増築したものの、1896年にはボッティチェリフェルメールレンブラントの作品を含め、増え続ける収集品を収容しようにも手狭になったことを夫ともども認めるようになった[10]。夫が1898年に急逝すると、ガードナーは宝物を収める美術館を作るという夫妻の夢の実現に取り掛かり、ボストンの低湿地フェンウェイ地区に用地を購入する。建築家ウィラード・T・シアーズを雇うとヴェネツィアルネサンス建築を手本に美術館を設計させるのだが、ガードナーは設計の細かい点にまで口を出し、シアーズはとうとう、自分などは施主 (ガードナー) が作りたいものを作りたいように実現する、単なる構造設計士だと自嘲する始末だった。ガラスで覆った中庭を取り囲むように立つ同館の様式は、全米初である。ガードナーの案では2階と3階を展示室にする予定だった。本来の設計どおり建物の一翼に1、2階吹き抜けの音楽堂を作ったためだが、後に1階の一部を手直しさせるとジョン・シンガー・サージェントの大作「エル・ジャレオ」を1階に、2階にタペストリーの展示室を設けている[11]

建物の準備が整うと、ガードナーは自分の美学に従って収集品の展示をためつすがめつ考え、展示設計が固まるまで実に1年を費やす。時代や文化を取り混ぜた見せ方は、絵画や彫刻、布製品や家具を組み合わせ、奥行きのある複雑で独得な物語を生み出している。たとえばティツィアーノ展示室にかかる傑作「エウロペの略奪」(1561–1562)は、絵の背景に淡い緑色の絹の布が垂らしてある。もとは創設者ガードナーのイブニングドレスであったものをつぶして室内装飾に用いてあり、注文服を仕立てたデザイナーはチャールズ・フレデリック・ワースである。展示室をめぐって鑑賞すると、同様の物語性や個人の思い出を密に感じさせるしつらえなど、多くの発見がある[12]

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館は1903年1月1日、招待客のみの開館式を催した。ボストン交響楽団の団員が音楽を奏で[13]、乾杯のシャンパンからデザートのドーナツにいたる食事が提供された。数ヵ月後、古代エジプトからマティスに至るさまざまな絵画や素描、家具調度その他の展示品が一般公開される。館内のどこを見ても、多彩な織物や家具、絵画が床から天井まで所狭しと展示してあった[14]

ガードナーは美術館の建物に住まいを置いた時期があり、4階で暮らした。その没後、居住部分は長年、美術館館長の私邸として使われた。その慣習に従わなかった新館長アン・ホーリーが入居しなかったところ、半年後、同館は盗難に遭う[注釈 1]。その後、月日が経つとガードナーが暮らした空間を改装し、館の事務室に当てている。

ガードナー家の墓所 (マウントオーバーン墓地)

ガーデナーは1919年に脳梗塞を発症、その後、何度か発作を繰り返し、5年目の1924年7月17日に帰天する。84歳だった。墓所はマウント・オーバーン墓地 (ケンブリッジ) にあり、棺は夫と息子に挟まれるように置かれた。

遺産

[編集]

イザベル・スチュワート・ガードナー旧宅跡(1904年に取り壊わし)はボストン女性遺産の道が立ち寄りポイントに指定している[16]

ガードナーの遺言により美術館基金100万ドルが組まれ助成金規定がまとまると、例えば常設展示品の大幅な変更はできなくなった。フィランソロピーの精神にしたがい、マサチューセッツ州児童虐待防止協会、肢体不自由児の授産施設、ボストン動物保護協議会およびマサチューセッツ州動物虐待防止協会にもまとまった金額を遺贈した。敬けんなアングロ・カトリック教徒であったことから、毎年、自分の命日には魂の安息を願い、美術館附属の礼拝堂でカウリー・ファーザーズによるレクイエム礼拝を行ってほしいと書き残している。現在は、この約束の日は命日ではなく誕生日に移され、聖ヨハネ伝道者協会とアドベント教会が交互に執り行う[17]

イザベラ・スチュワート・ガードナーは多くの美術家や作家、音楽家と親身になって付き合った。旅の達人であり、美術品コレクターとしては抜け目がなく、アメリカ社交界と文化人のあいだで一番の人気者であった。ボストンでついた尊称は「バックベイの女王様」である[18]

参考文献

[編集]
  • Baker, Paul R. (1974). “Gardner, Isabella Stewart”. In John A. Garraty. Encyclopedia of American Biography 
  • Capel, Elizabeth (2014). “"Money alone was not enough": Continued Gendering of Women's Gilded Age and Progressive Era Art Collecting Narratives” (英語). International Journal of Undergraduate Research and Creative Activities 6 (1). doi:10.7710/2168-0620.1013. ISSN 2168-0620. 
  • Docherty, L.J. (1999). “Collection as Creation : Isabella Stewart Gardner's Fenway Court”. Memory & Oblivion : International Congress of the History of Art : Proceedings. 29. Dordrecht: Kluwer Academic Publishers. OCLC 851367318 ISBN 0792342135, 9780792342137
  • Hawley, Anne; Wood, Alexander (2014). “A sketch of the life of Isabella Stewart Gardner”. Isabella Stewart Gardner Museum: Daring by Design. New York: Skira Rizzoli Publications. pp. 14 et seq. 
  • Higonnet, Anne (1997). “Private museums, public leadership: Isabella Stewart Gardner and the art of cultural authority”. In Wanda Corn. Cultural Leadership in America: Art Matronage and Patronage 
  • Matthews, Rosemary (2009). “Collectors and why they collect: Isabella Stewart Gardner and her museum of art”. Journal of the History of Collections 21.2: 183-189. 
  • Powers, John; Driscoll, Ron (2012). Fenway Park: A Salute to the Coolest, Cruelest, Longest-running Major League Ballpark in America. Running Press. p. 37. ISBN 978-0-7624-4204-1. https://books.google.com/books?id=ReEfAQAAQBAJ&pg=PA37 
  • 『岡倉天心: 芸術教育の步み』古田亮、吉田千鶴子、佐藤道信、東京藝術大学、東京藝術大学岡倉天心展実行委員会、2007年。 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ガードナー美術館の盗難事件は美術窃盗としてアメリカ美術史上最高の被害額とされる。レンブラント作『ガリラヤの海の嵐』(1633年)[15] ほかが被害に遭った。

出典

[編集]
  1. ^ 岡倉天心: 芸術教育の步み 2007, p. 126.
  2. ^ Powers and Driscoll 2012, p. 37.
  3. ^ a b Gardner, Frank A MD [1933] Gardner Memorial : Biographical and Genealogical Record of the Descendants of Thomas Gardner, Planter of Cape Ann, 1624, Salem, 1626–74, Through His Son Lieut. George Gardner ISBN 0-7404-2590-0 ISBN 978-0-7404-2590-5
  4. ^ a b c Hawley and Wood 2014, pp. 14 et seq..
  5. ^ Tharp, Louise Hall英語版 (1965). "Mrs. Jack" : a biography of Isabella Stewart Gardner, Isabella Stewart Gardner Museum (ed), Boston : Little, Brown. LCCN 65-18129, NCID /BA03915064識別子"/BA03915064"は正しくありません。
  6. ^ Matthews 2009, pp. 183–189.
  7. ^ Docherty 1999, pp. 217-.
  8. ^ New Exhibit Explains How Isabella Stewart Gardner Amassed Her Famous Art Collection” (英語). www.wbur.org. 2018年3月17日閲覧。
  9. ^ Capel 2014, pp. 1.
  10. ^ “Isabella Stewart Gardner's old townhouse hits the market(イザベラ・スチュワート・ガードナーの古めかしいタウンハウス、売りに出る)” (英語). New York Post. (2017年10月26日). https://nypost.com/2017/10/26/isabella-stewart-gardners-old-townhouse-hits-the-market/ 2018年3月17日閲覧。 
  11. ^ Hilliard T. Goldfarb, The Isabella Stewart Gardner Museum: a companion guide and history (Yale UP, 1995).
  12. ^ Higonnet 1997, p. 84.
  13. ^ Isabella Stewart Gardner | Boston Women's Heritage Trail(ボストン女性文化遺産の道)” (英語). bwht.org. 2018年3月17日閲覧。
  14. ^ Litowitz, 2007, "The Character of an Art Collection", Growth and Structure of Cities Program, Bryn Mawr College, Bryn Mawr, Pennsylvania
  15. ^ 『世界』401~403、岩波書店、1979年。 
  16. ^ Back Bay East”. Boston Women's Heritage Trail. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  17. ^ Mrs. Gardner's annual claim on heaven 毎年恒例、天国のガードナー夫人をたたえる集い
  18. ^ Baker 1974, pp. 400–401.

関連項目

[編集]

関連文献

[編集]
  • Shand-Tucci, Douglass. The Art of Scandal: The Life and Times of Isabella Stewart Gardner, Harper Collins, 1997
  • Zorzi, Rosella Mamoli (2010-11-13). “Private and Public Subjects in the Correspondence between Henry James and Isabella Stewart Gardner”. The Henry James Review (The Johns Hopkins University Press) 31 (3 (Fall 2010)). OCLC 703526343. 
  • Gardner, Frank A MD [1933] Gardner Memorial : Biographical and Genealogical Record of the Descendants of Thomas Gardner, Planter of Cape Ann, 1624, Salem, 1626–74, Through His Son Lieut. George Gardner ISBN 0-7404-2590-0 ISBN 978-0-7404-2590-5

外部リンク

[編集]

[[Category:博物館・美術館の創設者]] [[Category:スコットランド系アメリカ人]] [[Category:カトリックの信者]] [[Category:慈善家]] [[Category:ニューヨーク州出身の人物]] [[Category:美術品コレクター]] [[Category:マサチューセッツ州の人物]] [[Category:1924年没]] [[Category:1840年生]]