利用者:Omotecho/アイリーン・ドナン城
アイリーン・ドナン城 スコットランド・ゲール語: Eilean Donnain 英: Eilean Donan Castle | |
---|---|
イギリス ハイランド、Dornie村[1] | |
デュイック湖とアイリーン・ドナン城 | |
座標 | 北緯57度16分26.5秒 西経5度30分58秒 / 北緯57.274028度 西経5.51611度 |
施設情報 | |
所有者 | 英: Conchra Charitable Trust |
一般公開 | 公開中 |
現況 | 復元または再構築
|
歴史 | |
建設 | 1220年 | 頃
解体 | 1719年、イングランド海軍[3] |
使用戦争 |
|
主な出来事 |
|
駐屯情報 | |
使用者 |
アイリーン・ドナン城(スコットランド・ゲール語: Eilean Donnain, 英: Eilean Donan Castle)は、イギリスのハイランドにある平城で、スコットランドの氏族マッケンジー、後にマクレーが居城とした。スコットランド高地西部のデュイック湖上にあり潮が引くと陸つづきで対岸の漁村Dornieと行き来ができる。島の名前は6世紀のケルト人の殉教者(617年没[10])に由来し、「ドナンの島」を意味する。城は現在、博物館相当の施設として一般公開している。
歴史
[編集]正確な日付は解明が待たれるが、鉱滓(スラグ)の考古学的発見から、島で定住が始まった時期は鉄器時代後期または中世初期であると証明された[11]。聖ドナン・フォン・エイグ(617年没)に献じられたという小さな修道院はいまだ発見されていない。
城の起源
[編集]城の建設はアレグザンダー2世の治世、1220年頃にバイキングの襲撃に対する防御として始まり、この早期から城壁(現存しない)と塔を住居に使う型式は続く。文書の記録には初代の城主について矛盾があり、ロス伯爵(Earl of Ross)に領地を認められたキンテールのマッケンジーの家門なのか、紋章の佩用を認められたが領主ではないマクレー家またはマクレナン家なのか諸説あるが、1266年以降はマッケンジー氏族が所領した[7]。
1307年から1308年の冬、この城は最初のスコットランド独立戦争の最中にイングランドから逃れてきたロバート1世に避難所として差し出されているものの、キンテールのマッケンジー氏族はほとんど加勢していない[6]。マクレー家は14世紀初頭から17世紀にわたり城の周辺に定住した。
激動の年月
[編集]反抗的な高地の勢力を鎮めるためスコットランド王のジェームズ1世は1427年にインバネスに遠征すると、すべての氏族長に服従と引き換えに一族の安寧を保証するものの、到着するとすぐに投獄または刑に処した。キンテールのチーフは若いアレグザンダー・マッケンジーであったが、名目上は氏族長の序列第6位ながら、パースの学校に通ったことをとがめられて有罪判決を受けた。アレクザンダーが不在の間、一方でダンカン・マコーレーはチーフになり代わると称し、マッケンジー氏族の反対を押し切るとアイリーン・ドナン城を治めた。他方でアレグザンダー本人はかつてマクドナルド氏族の領主(Lord of the Isles) に賛同してイングランドの君主制を支持したと上申すると、出獄を許され1463年にイングランド王からマッケンジー氏族長の地位を承認された[8]。
ヘクター・ロイ・マッケンジーが働いた違法行為により、1497年、マッケンジー氏族は反逆者として城から追放される。1503年、ハントリー伯爵はアイリーン・ドナン城を征服したあかつきにはスコットランド王家に献上し王領として保たれることに同意し、ジェームズ4世は船を差し向けて包囲線を構え[9]、城はほどなく陥落して王家に引き渡された。
キリンのジョン(John of Killin)は1509年の憲章でキンテールとアイリーン・ドナン領を授かると、城番に任命されたクリストファー・マクレーが1511年に城に入る[12]。
スリートのドナルド・ゴーム・マクドナルド(Donald Gorm Macdonald of Sleat) が1539年に城を攻撃すると、城側は首班を討ち取られながらも、わずか3名で城を守り抜いた[13]。
1580年、マッケンジー氏族とマクドナルド氏族(本拠グレンガリー)に確執が生じ、翌年に争いの的はこの城の奪い合いへと集約する。1602年、アンガス・マクドナルドが落命[14]。
その騒乱の中、1580年に城番のマクレー家にはファークワーという息子が城内で生まれた。エディンバラで神学を学び司祭に叙階された後、ファークワー・マクレーは1618年に城番に任じられる。1623年に襲爵したキンテールのコリン・マッケンジーはシーフォース伯爵を名乗り、しばしば城を訪れた。そのたびに城番のマクレーは近在の家長を動員して伯爵と同行者(男性300 - 500人)を饗応(きょうおう)した。第2代シーフォース伯爵ジョージは1635年、息子ケネスを城に預けるとマクレーに家庭教師として養育を託す。ケネスはその後、城で育った[15]。
シーフォース伯爵はイングランド内戦(17世紀半ば)でチャールズ1世(イングランド)に味方しており、1649年に国王が処刑されると「スコットランド議会」はアイリーン・ドナン城を占領すると宣言した。ところが新しい城主は歓迎されず、民衆の激しい抵抗により撤退を余儀なくされた[16]。
翌年、シーフォース伯の兄弟でロッホスリンのサイモン・マッケンジー(Simon Mackenzie of Lochslin)は王立運動を支援するため城周辺に軍隊を集め、意見が分かれた城番マクレーに対して城から出ていくように促す[17]。結局、マクレーは終生、城にとどまり、その没後は近代の修復まで城番はいない[18]。
やがて一時はバルカレス伯爵(Earl of Balcarres )に占領され、王族のグレンケアン蜂起(Glencairn's rising )の支援拠点ともなる[4]ものの、キンテールによる蜂起は1654年6月、オリバー・クロムウェル配下のスコットランド軍事総督モンク将軍の鎮圧に対峙する[19]。
ジャコバイト蜂起と破壊
[編集]1719年4月、ジャコバイトの第10代マーシャル伯爵ジョージ・キースの指揮下で300人のスペイン兵が島に上陸してアイリーン・ドナン城を占領する。当地デュイック湖で蜂起する同志に差し向けられるはずのスペインの援軍を待った。しかし約束の支援は実現せず、高地ジャコバイトの蜂起は不発に終わる。イギリス海軍はフリゲート艦3隻をこの地域に差し向け、小舟で交渉担当者を送り込もうとするがスペイン兵にマスケット銃で狙撃される。軍艦は1日半にわたり城を砲撃し、乗組員は城を襲撃すると44人の生存者を捕らえる。300樽以上の火薬が見つかり、それを使って城を爆破した[3]。
修復
[編集]1912年にジョン・マクレー・ギルストラップ陸軍中尉は城のガレキを取り除くと、初回の修復作業に取りかかる。その片腕となったのは石工のファークワー・マクレー(同名異人)で、やはり城を往時の姿に戻したいと望んでいた。1920年から1932年にわたる本格的な修復は当初の計画とは方針が変わり、陸との間に石造の橋をかけ、あるいはまた第一次世界大戦の戦争記念碑を建ててマクレー氏族の戦没者に捧げた。修復工事の費用は現在の価値で25万イギリスポンド相当と見られている[20]。
1937年にマクレー・ギルストラップが亡くなると城に住む人はなく、1955年に博物館として一般に公開された[2]。
今日の城
[編集]アイリーン・ドナン城は現在、マクレー家の子孫が設けたコンクラ信託基金(1983年–[23])が博物館として運営している[24]。
グラスゴーからカイル・オブ・ロハルシュ 、スカイ島に向かうA87 の途中にあり、スコットランドで皆が写真に撮りたがる被写体の1つ。かつて渡し船に乗り換えた区間は橋に置き換わって行きやすくなり、訪問者数31万人(2009年)をはるかに超えたスコットランド第3位の見どころである[25]。
建設の段階
[編集]早期の遺構
[編集]城壁(カーテンウォール)は13世紀から建造が始まり、17世紀には洪水線上にある島のほぼ全周を取り巻き、壁の内側の面積はのべ約3千m2。島の北に今もある残骸を除くと、現存する城壁の大部分は城の拡張に伴って増築したものである。壁の北部に置いた砦は基部の高さ12、13 m前後、その残骸をたどると、カーテンウォールの北東と南西の両角にもそれぞれ防御塔があったことを示している。これらの塔の元の高さはどの記録にも残っていない。湖畔の門は壁の北西にあり、城内の施設への出入りに使ったと推測される。南西側の狭い浜も別の入り口の存在を示唆する[26]。
島の最高点近辺にある塔屋は、城壁によりかかるように立つ。14〜18世紀の建造で基部は16.5 m×12.4 m、壁の厚さ3 m、アーチ構造の1階には2部屋あり、北側の階段が上階へ続く(おそらく2層)[27]。
これらの仮説の多くは2008年[28]と2009年の発掘調査により確認され、城の北部でも金属加工が行われたという証拠が見つかっている[29]。
城を縮小
[編集]19世紀に入り、おそらく14世紀後半か15世紀初頭に建造された城壁を取り壊すと、より規模の小さな防御構造を採用している。東に付け替えた門はおよそ25 m四方しか現存せず、なぜ入り口を移設したのか理由は不明[30]。
16〜19世紀に増えた建物2棟のうち、小さな家は城壁の南東角に建った。らせん階段を介して胸壁にあがる構造で、おそらく城の管理人の宿舎として機能したと考えられる[31]。対角の南西角には壁に接してL字型の建物を築き、その時期は17世紀初め以降と推測される。城壁を挟んで北側の翼は城内にあり、南側の城外に位置する部分はおそらく後世の増築と見られる[32]。
角堡
[編集]戦場における大砲の重要性が増すにつれて、城は16世紀後半に東向きの堡塁ないし角堡を拡張している。構造は最大軸11.5 mの不規則な六角柱で、水面から基部まで約5 m、高さは10 m超あった。この角堡は壁で囲まれた三角形の中庭を挟み、城と接続していた。
完成した角堡は城への出入り口として機能し、既存の井戸は可動橋で覆ってさらに防御しやすくなる。この出入り口は17〜19世紀に廃止され、門は南壁に付け直して利便性を高めた[33]。
ルイス・プチの絵(1714年製作)を見ると、城の姿は大部分が破壊されている。南東角にある建物だけ屋根が見えるが、それも絵が描かれた4年後に完全に取り壊された[34]。
城の再建
[編集]現在の城の建物は20世紀初頭の再建で、19世紀に計画倒れになったマクギボンとロスの案を手本とし[35]、その配置に従った。ところがルイス・プチの素描(18世紀)が修復完了の少し前に発見されたため、古来の城とは外観の細部が異なっている。
現在、城内へ通じる門は南に面し、防御用の落とし格子を備えている。門上に掲げた紋章は債権に当たったジョン・マクレー=ギルストラップのもので、ゲール語の碑文「lang-gd|Cho fad 'sa bhios MacRath a-stigh cha bhi Frisealach a-muigh. |links=no}}[36]」が見える。門から通じる中庭は、塔屋(タワーハウス)の入り口基部と同じ高さに掘り下げてある。
南東の建物には遺構の構造を反映し、円形の階段塔を備えて面積を広げた。対角にあたる城壁の北西隅にも小さな塔を建ててある。南西部のL字型の建物跡は南側のみ再建、簡易な3階建て住宅として宿舎棟に使っている。L字の北側はデュイック湖を望む開放的な広場として活用する[32]。
宿舎棟の構造は元の筒型ヴォールトを継承し、以前は分割してあった建物内部を整理してある。1階ダイニングルーム天井は15世紀風のオーク材で組みあげ、暖炉には紋章がかかげてある。
トリビア
[編集]この城は映画やテレビシリーズの背景としてよく使用され、ジェームズ・ボンド・シリーズ『007ワールド・イズ・ノット・イナフ』でいくつかのシーンが撮影された。とりわけライナー・エルラー 原作監督のテレビSFシリーズ「Das Blaue Palais」 は世界を舞台にした5部構成で、エピソードのロケ地に採用されている。また他の映画をあげると『ハイランダー悪魔の騎士』『エリザベス:ゴールデン・エイジ』『ブレイブハート』『炎と剣』『エントラップメント』『近距離恋愛』『ロブ・ロイ/ロマンに生きた男』がある。
参考文献
[編集]本文の典拠。
- Brichan, James; u. a. (1855). Origines Parochiales Scotiae. The Antiquities Ecclesiastical and Territorial of the Parishes of Scotland. W. H. Lizars
- Farmer, David Hugh (2004). The Oxford Dictionary of Saints. University Press. ISBN 0-19-283069-4
- Mackenzie, Alexander (1894). History of the Mackenzies. A. & W. Mackenzie
- MacRae, John (1910). Eilean Donan Castle. Dixon
- Miket, Roger; Roberts, David L. (2007). The Medieval Castles of Skye and Lochalsh. Birlinn. ISBN 978-1-84158-613-7
- Milburn, Paula (2008) (PDF (16,5 MB)). Discovery and Excavation in Scotland. 9. University of York, Archaeology Data Service. ISSN 0419-411X
- Milburn, Paula (2009) (PDF (21,1 MB)). Discovery and Excavation in Scotland. 10. University of York, Archaeology Data Service. ISSN 0419-411X
脚注
[編集]- ^ 城がたたずむ島は、旧行政区Ross-shrineの小さな漁村にある。
- ^ a b c “Timeline” (英語). Eilean Donan Castle (2013年). 2015年1月15日閲覧。
- ^ a b “Ships' Logs 1719: HMS Worcester and HMS Flamborough” [1719年航海日誌:イングランド海軍戦艦ウースター号、同フランボロー号] (英語). Clan Macrae (2013年). 2015年1月15日閲覧。
- ^ a b Macrae 1910, p. 70.
- ^ Macrae 1910, pp. p.63f., p.354.
- ^ a b Mackenzie 1894, p. 47ff.
- ^ a b Miket; Roberts 2007, p. 87.
- ^ a b Mackenzie 1894, p. 74.
- ^ a b Brichan 1855, p. 394.
- ^ The Oxford Dictionary of Saints 2004, p. 135.
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 83f.
- ^ Macrae 1910, p. 22ff.
- ^ Macrae 1910, p. 28.
- ^ Macrae 1910, p. 40ff.
- ^ Macrae 1910, p. 58ff.
- ^ Macrae 1910, p. 195f.
- ^ Macrae 1910, p. 61ff.
- ^ Macrae 1910, p. 65.
- ^ Macrae 1910, pp. p.63f, p.354.
- ^ MacRae, Marigold (2013年). “Historic Places: Eilean Donan” [父祖の地:アイリーン・ドナン城] (英語). Clan Macrae Society of North America. 2002年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月15日閲覧。北米マクレー氏族会のサイトより。
- ^ “Conchra Charitable Trust” (英語). Eilean Donan Castle. 2021年6月2日閲覧。
- ^ Lacey, Paul. “Conchra Charitable Trust – Eilean Donan Castle” (英語). scottishlivingwage.org. 2021年6月2日閲覧。
- ^ 英: Conchra Charitable Trust[21][22]。
- ^ “EILEAN DONAN CASTLE TRADING COMPANY LIMITED - Filing history (free information from Companies House)” (英語). find-and-update.company-information.service.gov.uk. 2021年6月2日閲覧。
- ^ Martinolli, Marina. “The 2009 Visitor Attraction Monitor” (PDF (1,3 MB)) (英語). VisitScotland. p. S. 79. 2014年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月15日閲覧。
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 95f.
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 100ff.
- ^ Milburn 2008, p. 110.
- ^ Milburn 2009, p. 104.
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 107.
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 103f.
- ^ a b Miket; Roberts 2007, p. 105f.
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 109.
- ^ Miket; Roberts 2007100
- ^ Miket; Roberts 2007, p. 110.
- ^ 南門に掲げたスローガンの仮訳は「内にマクレーがある限り、外にフレイザーは存在しない」となる。
関連項目
[編集]関連資料
[編集]- SketchUp社から「Eilean Donan Castle」3D模型が市販されている。
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト Welcome to Eilean Donan Castle 2015年1月15日閲覧。
- Eilean Donan Castle on the road to Skye, Scotland Camvista.com 2015年1月15日閲覧。
座標: 北緯57度16分26.5秒 西経5度30分58秒 / 北緯57.274028度 西経5.51611度 [[Category:ヨーロッパの城]] [[Category:スコットランドの博物館]] [[Category:スコットランドの島]]