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利用者:OSAF/sandbox

(左)1939年までの襟章
(右)1939年-1945年の襟章
全国指導者の腕章
全国指導者旗

全国指導者(ぜんこくしどうしゃ、: Reichsleiterライヒスライター)は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の最高指導部である全国指導部(Reichsleitung)を形成するメンバーであり、またはその階級を指す。党の最高指導者 (Führer)であるアドルフ・ヒトラーを補佐し、原則的には職能別に権限を分掌していた。

概要

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全国指導者、すなわち全国指導部の概要が初めて公表されたのは1931年8月である[1]。1933年6月2日にヒトラーは

全国指導者は、その担当分野において最高指導者ヒトラーから全権を委託されており、その職務遂行にあたってはヒトラーだけに責任を負うとされていた。


全国指導者は原則として担当分野についてのナチ党々内組織の長であった。このため、ゲッベルスの「宣伝全国指導者」を「ナチ党宣伝部長」、ヒムラーの「親衛隊全国指導者」を「親衛隊長官」などとするように、日本語では全国指導者のことを「○○部長」「○○長官」と意訳することがある。

初期の小規模なナチ党では全国指導者も党内の事務組織の分掌者という役割にとどまったが、ナチ党が拡大するにつれて全国指導者の権限も膨張していった。ヒトラー内閣の成立とナチ党の権力掌握によってナチ党とドイツ国家は一体化し、全国指導者は国家全体の指導者としての地位を占めることとなった。これにより、全国指導者の中には、政府において内閣の閣僚など重要な公職を兼任する者も多かった。さらに、ナチ党が国家を指導するというナチ体制下では、党の全国指導者の中には類似分野を担当する政府の大臣を上回る権勢を手にする者も存在した。

  • ヨーゼフ・ゲッベルスはナチ党の宣伝全国指導者であるとともに、政府の宣伝大臣であり、党と政府の宣伝政策を一手に握っていた。
  • リヒャルト・ヴァルター・ダレは農民全国指導者・農政全国指導者となり、政府の食糧大臣となったが、政策に失敗して影響力を失い、健康を害したこともあって大臣の座もヘルベルト・バッケに奪われた。ただし全国指導者としての地位はナチ党崩壊まで維持している。
  • アルフレート・ローゼンベルクは対外政策全国指導者であったが、官庁としての外務省、ナチ党の国外大管区英語版、そしてヨアヒム・フォン・リッベントロップの個人事務所などと外交分野の主導権を巡って争っていた。ローゼンベルクは外交政策の主導権を握ることは出来なかった。第二次世界大戦の後期にはローゼンベルクは東部占領地域大臣として入閣を果たしたが、その権限はヒムラーの親衛隊などに浸食されて限定的なものに留まり、ローゼンベルクの政治的影響力は大きなものではなかった。
  • ロベルト・ライハインリヒ・ヒムラーは、党組織に由来する権力を行使し、やがては国家全体におよぶ巨大な政治的影響力を持つにいたった。
  • ヴィルヘルム・フリックは全国指導者としては「国会議員団団長」であったが、これは特定の担当分野というよりも名誉職的な色彩が濃かった。フリックはナチ党員として最初に地方政府の大臣となり、ヒトラー内閣組閣時にはゲーリングとともに入閣するなど主要幹部の一人であったが、党内に影響力を及ぼせる組織を持っておらず、ナチ体制前期での彼の権力のほとんどは内務大臣としての権限に由来していた。しかしそれも親衛隊の治安権力伸張と、戦時体制によって影響力が低下していった。内務大臣退任後のフリックは、ほとんど影響力を喪失してしまうことになる。
  • 一方で、財政全国指導者のフランツ・クサーヴァー・シュヴァルツのように党内の事務担当としての職責に専念してほとんど政治的活動を行わず、党内や政府内の権力闘争からは意識的に距離を置いていたメンバーもいる。

一方で党内において特定の役職を割り当てられていないメンバーもいた。例えばヘルマン・ゲーリングの肩書はあくまで「総統後継者」であり、特定の担当分野を与えられておらず、全国指導者のメンバーに含まれないとする解説も多い。ただし、ゲーリングは党と国家のナンバー2と広く見做されており、政府、党、軍の多数の要職を兼務し、それらについては最高指導者ヒトラーから全権を委任されており、大きな政治的権限をふるっていたことから、事実上全国指導者の中に入るとも言える。

全国指導部メンバー以外の「全国指導者」

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ただし、「全国指導者」と日本語訳される党役職を持つ者すべてが全国指導部のメンバーであったわけではない。たとえば、「Reichsführer」という役職も日本語では「全国指導者」と訳されるが、この称号を持つ者の中で全国指導部のメンバーであったのは1934年以降の親衛隊全国指導者(ヒムラー)、青少年全国指導者、労働全国指導者だけである。こうした、全国指導部メンバー以外の「全国指導者」の事例としては下記のようなものがある。

全国指導者のリスト

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1933年6月2日任命。 総統代理ルドルフ・ヘス 出版全国指導者マックス・アマン 財政全国指導者フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ 全国党事務局長フィリップ・ボウラー 党外務局長アルフレート・ローゼンベルク 党法務部長ハンス・フランク ドイツ労働戦線指導者及び組織全国指導者(事務取扱)兼党政治組織幕僚長ロベルト・ライ 党書記長カール・フィーラー 党調査及び調停委員会議長・第一法廷長官ヴァルター・ブーフ 党調査及び調停委員会第二法廷長官ヴィルヘルム・グリム 宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルス 党農業政策局長及び全国農民指導者リヒャルト・ヴァルター・ダレ 新聞全国指導者オットー・ディートリヒ 突撃隊幕僚長エルンスト・レーム 親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー 青少年全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ

1933年8月31日に任命。 党国防政策部長フランツ・リッター・フォン・エップ

1933年10月10日に任命。 党国会議員団長ヴィルヘルム・フリック 総統代理官房長マルティン・ボルマン

1936年9月10日に任命 全国労働指導者コンスタンティン・ヒールル

1938年9月8日に任命 国家社会主義自動車軍団軍団長アドルフ・ヒューンライン

名前 画像 役職名 全国指導者として所管する党内組織 期間[3] その他の党役職・官職 備考
ルドルフ・ヘス[1]
総統代理[4]
Stab des Stellvertreters des Führers)
総統代理幕僚部 1933年
 | 
1941年
無任所大臣
NSDAP/AO英語版 総裁など
1941年5月に秘密裏に渡英したため、解任
マルティン・ボルマン[5]
党官房長[6]
(Leiter der Parteikanzlei)
党官房 1930年
 | 
1945年
無任所大臣待遇
総統秘書
ヒトラーの政治的遺書でナチ党担当大臣に指名
フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ[5]
財政全国指導者
(Reichsschatzmeister der NSDAP)
出納部 1925年
 | 
1945年
親衛隊名誉指導者
国会議員
ロベルト・ライ[5]
組織全国指導者
(Reichsorganisationsleiter)
組織部 1932年
 | 
1945年
ドイツ労働戦線指導者
フィリップ・ボウラー[5]
総統官房長
(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender)
総統官房 1933年
 | 
1945年
党事務局長

T4作戦(「劣等分子」安楽死計画)責任者
ヴァルター・ブーフ[5]
党最高裁判所ドイツ語版[7]
(Oberstes Parteigericht der NSDAP)
党最高裁判所 1928年
 | 
1945年
ヴィルヘルム・グリム[5] 党第2最高裁判所長
(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.)
党第2最高裁判所 1932年
 | 
1939年
ヨーゼフ・ゲッベルス[5]
宣伝全国指導者
(Reichspropagandaleiter)
宣伝部 1929年
 | 
1945年
国民啓蒙・宣伝大臣
ベルリン大管区指導者
総力戦指導者
ヒトラーの政治的遺書で首相に指名
オットー・ディートリヒ[5]
新聞全国指導者
(Reichspressechef)
新聞部 1931年
 | 
1945年
国民啓蒙・宣伝省首席次官
政府報道局長
1945年3月に解任
マックス・アマン[5]
出版全国指導者
(Reichsleiter für die Presse)
出版部 1931年
 | 
1945年
エーア出版社英語版社長
全国出版院ドイツ語版総裁
党機関紙指導者 (Der Leiter der Parteipresse der NSDAP)
ハンス・フランク[5]
司法全国指導者
(Der Leiter des Reichsrechtsamtes)
司法部 1933年
 | 
1945年
無任所大臣
ドイツ法律アカデミー総裁
ポーランド総督
アルフレート・ローゼンベルク[5]
対外政策全国指導者ドイツ語版
(Der Leiter des Außenpolitischen Amts der NSDAP)
対外政策部 1933年
 | 
1945年
東部占領地域大臣 ヒトラー入獄中の1924年には一時指導者代理の地位にあった
リヒャルト・ヴァルター・ダレ[5]
農政全国指導者
(Der Leiter des Amtes für Agrarpolitik)
農民全国指導者
(Reichsbauernführer)
農政部 1930年
 | 
1945年
食糧大臣 1933年に農政全国指導者を農民全国指導者に改称
カール・フィーラー[5]
書記全国指導者
(Schriftführer der NSDAP)

地方行政本部長
(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik)
(1933年~1945年)
書記局
地方行政本部
1933年
 | 
1945年
ミュンヘン市長
エルンスト・レーム[5]
突撃隊幕僚長
(Der Stabschef der SA)
突撃隊 1931年
 | 
1934年
無任所大臣 「長いナイフの夜」事件によって殺害
ヴィクトール・ルッツェ[8]
突撃隊幕僚長 突撃隊 1934年
 | 
1943年
プロイセン州ハノーファー県(de)知事 1943年に事故死
ヴィルヘルム・シェップマン[8]
突撃隊幕僚長 突撃隊 1943年
 | 
1945年
ハインリヒ・ヒムラー[8]
親衛隊全国指導者
(Reichsführer des SS)
親衛隊 1934年[9]
 | 
1945年
全ドイツ警察長官
内務大臣
1945年4月、西側との単独講和を模索してヒトラーの逆鱗に触れ、解任
バルドゥール・フォン・シーラッハ[8]
青少年全国指導者
(ヒトラー・ユーゲント指導者)
(Reichsjugendführer)
(1933年~1939年)
ヒトラー・ユーゲント 1928年
 | 
1939年
帝国大管区大ウィーン大管区指導者 1939年以降はユーゲント教育のためのナチ党全国指導者
アルトゥール・アクスマン[8]
青少年全国指導者
(ヒトラー・ユーゲント指導者)
ヒトラー・ユーゲント 1939年
 | 
1945年
コンスタンティン・ヒールル[5]
労働全国指導者(Reichsarbeitsführer) 労働部 1936年
 | 
1945年
国家労働奉仕団総裁
フランツ・フォン・エップ[5][10] 国防政策全国指導者
(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)
植民政策全国指導者ドイツ語版
(Leiter des Kolonialpolitisches Amt der NSDAP)
国防政策部
植民政策局ドイツ語版
1932年
 | 
1945年
バイエルン州国家弁務官国家代理官 1945年4月にバイエルン自由行動ドイツ語版に参加したとして逮捕
ヴィルヘルム・フリック[5][10]
国会議員団団長
(Fraktionsführer)
国会議員団 1924年
 | 
1945年
内務大臣
ベーメン・メーレン保護領総督

脚注

[編集]
  1. ^ a b 山口定 1976, pp. 82.
  2. ^ 木原和子「第三帝国期の予防医学—レオナルド・コンティを中心に—」(『ヨーロッパ文化研究』22、成城大学、2003年)
  3. ^ その役職に就いた、または全国指導部に加入していた期間
  4. ^ (副総統、指導者代理という訳もある)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口定 1976, pp. 83.
  6. ^ 官房長への就任は1941年5月
  7. ^ 1934年以前はUSCHLA英語版
  8. ^ a b c d e 山口定 1976, pp. 84.
  9. ^ 親衛隊全国指導者就任は1929年。1934年に全国指導部メンバーに昇格
  10. ^ a b 1933年6月2日のヒトラー布告では、全国指導部のメンバーが挙げられているが、エップ、フリックの名前は挙げられていない (山口定 1976, pp. 84)

参考文献

[編集]
  • 山口定『ナチ・エリート―第三帝国の権力構造』中央公論社中公新書〉、1976年。ISBN 978-4121004468