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ヴィルヘルム・カール・ケプラー Wilhelm Karl Keppler | |
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(1939年) | |
生年月日 | 1882年12月14日 |
出生地 |
ドイツ帝国 バーデン大公国、ハイデルベルク |
没年月日 | 1960年6月13日(77歳没) |
死没地 | 西ドイツ、 バーデン=ヴュルテンベルク州 フリードリヒスハーフェン |
出身校 | ダンツィヒ工科大学 |
前職 | 軍人(予備役陸軍少尉) |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 | 名誉親衛隊大将 |
選挙区 | 32区(バーデン) |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1933年3月5日 - 1945年5月8日 |
ヴィルヘルム・カール・ケプラー(Wilhelm Karl Keppler、1882年12月14日 - 1960年6月13日)は、ナチス・ドイツの政治家。アドルフ・ヒトラーの経済顧問を務め、後に親衛隊全国指導者友の会を主宰した。名誉隊員でもあり、最終階級は親衛隊大将。
略歴
[編集]生い立ち
[編集]ドイツ帝国バーデン大公国のハイデルベルクでプロテスタントの仕立て職人ゲオルク・ケプラーの息子として生まれた。ハイデルベルクの国民学校を出た後、1901年にラシュタットの高校を卒業するとともに、1905年までカールスルーエ専門校に在籍する。1903年から1904年まで1年期限付きの陸軍志願兵となり、第2バーデン野砲連隊に入隊した。1905年から1910年までダンツィヒ工科大学に在籍し機械工学を学び工学の学位を取得した。その後さまざまな化学会社に一時的に雇用される。1910年に予備役少尉となるが第一次世界大戦中には積極的な任務には就かなかった。1911年から1922年までバーデンにある化学工場の主任技師となる。1921年から1933年までバイエルン州エーベルバッハの化学工場「オーディン」の工場長となる[1]。
ヒトラーの経済顧問
[編集]1927年5月27日にケプラーは国家社会主義ドイツ労働者党に入党し(党員番号62,424)、1932年1月からヒトラー専属経済問題相談役を務め、夏に「経済問題研究委員会(ケプラー委員会)」を設立した。ケプラーは党と経済界および保守界との主な窓口であり、ヒトラーと銀行家で金融家のクルト・フォン・シュレーダーとの仲介役を務めた。 1932年12月11日、ケプラーはヒトラー、フランツ・フォン・パーペン、ヒャルマル・シャハトの最初の会談を手配した。1933年1月4日にはヒトラーとフランツ・フォン・パーペンとの仲介をしている[2]。1933年3月5日に選挙区32区(バーデン地区)選出の国会議員となる。7月14日に彼は経済政策全権委員に任命され1934年11日まで務めた。同時にナチ党全国指導部経済政策課長にも任命された[1]。
1933年3月21日に親衛隊大佐の階級で親衛隊(SS)に入隊(党員番号50,816)し[1]、親衛隊集団「オスト」に配属された[3]。1934年9月2日より親衛隊全国指導者個人幕僚部で名誉指導者となり親衛隊全国指導者友の会を主宰した。1934年に褐炭・ガソリン株式会社監査役会代表を務め、後に1938年よりシュタイア・ダイムラー・プフなどの軍需企業の監査役会全権を務める[1]。1935年に親衛隊少将に昇進し、様々な原料・工業用油脂についての委員会・本部の会長・代表を務める。1936年10月23日に四ヶ年計画庁の工業用油脂製造部長に任ぜられ[4]、同時に四ヵ年計画閣僚会議のメンバーとなる[5]。1937年7月にオーストリア問題全権委員となり、ウィーン駐在ドイツ大使館書記官をも務める[1]る[5]。
1938年3月19日に外務省特務次官となり隣接地域の軍需経済の一本化を委任される。1939年、ヒトラーはケプラーをチェコスロバキア併合のためのブラチスラバ特別委員に任命した。1939年3月18日には土壌調査庁の長官に任命された。1942年1月30日に親衛隊大将に昇進する。大陸石油会社の監査役会副会長となる。
戦後
[編集]1945年5月10日に逮捕される。1947年に大臣裁判の被告となり、1949年4月14日に懲役10年の判決を受ける。1951年2月1日に刑務所から釈放される。1960年6月13日にフリードリヒスハーフェンで死去した。
人物
[編集]信仰はプロテスタントだったが、親衛隊の方針に従って1937年10月に教会を離れている[6]。
独身だった[6]。
キャリア
[編集]階級
[編集]出典[7]
- 1903年10月1日、一年志願兵
- 1910年:少尉
- 1933年3月20日:親衛隊志願兵
- 1933年3月21日:親衛隊大佐
- 1933年8月23日:親衛隊上級大佐
- 1935年2月6日:親衛隊少将
- 1936年9月13日:親衛隊中将
- 1938年3月19日:特務次官
- 1942年1月30日:親衛隊大将
受章
[編集]出典[8]
- 戦功十字章
- 剣無し
- 一級
- 二級
- 剣無し
- 1938年10月1日記念メダル
- 1938年3月13日記念メダル
- 金枠党員章
- 勤続章
- ナチ党勤続章
- 銀章
- 銅章
- ナチ党勤続章
- 親衛隊名誉短剣
- 親衛隊全国指導者名誉長剣
- 親衛隊名誉リング
- 親衛隊私服ピン(20,837番)
- 親衛隊冬至祭燭台
- 古参党員袖章
参考文献
[編集]- Michael D. Miller (2015) (英語). Leaders of the SS & German Police, Volume Ⅱ. Bender Publishing. ISBN 1932970258
- ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール編、高木玲訳『ヒトラー・コード』(講談社)ISBN 4-06-213266-4
- 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977。
脚注
[編集]- ^ a b c d e エーベルレ、p.504
- ^ 山下(2010)、p.47
- ^ Miller,p.475
- ^ Miller,p.476
- ^ a b Miller,p.477
- ^ a b Miller,p.485
- ^ Miller,p.473
- ^ Miller,p.484