コンテンツにスキップ

利用者:Nsgks/sandbox

二七山不動院(にしちざんふどういん)とは東京千代田区に位置し、石仏不動明王を本尊とする寺院である。

2005年(平成17年)の火災により、石仏不動明王及び御前立本尊は神崎寺に安置されていたが、そのあと2014年(平成26年)に現在の所在地で在る千代田区に場所を移した[1]

二七不動院
所在地 〒102-0074 東京都千代田区九段南3丁目3−18
本尊

石仏不動明王

御前立本尊
テンプレートを表示

歴史

[編集]

名前の由来

[編集]

江戸時代、旗本のお屋敷が並ぶ町でその頃からお不動様を祭った小さな祠があり、ある日通りがかりの僧がその祠の前でお不動様の御告げで供養をするために二十七日間の断という荒行を行ったことから以来、「二七不動」と称し縁日も二・七・十二・十七・二十二・二十七と月六回と定めた[2]

東郷平八と仏教

[編集]

東郷は、仏教の決まりを固く守っていた。

律弟となった他の23人は、みなその厳しさに我慢出来ず逃げ出してしまった。東郷を嫌う者は、彼をくせ者と罵ったり頑固と貶したりするが、東郷が優秀な人物であることは間違いなかった。

東郷は1827年(文政10年)に生まれ、幼少から出家が望みであり、10歳未満で名刹岩屋寺に出家したといわれている。そのため、仏教との縁が強かったのだろう。

18歳の時には、高野に登り秘密傳法を受け、更に諸国を歴遊した。

54歳の時には、東京で目白僧を開き那須野には雲照を建て、盛んに教化を敷いた。

このように幼少から仏教にすべてを捧げ生きてきた東郷は、86歳で生涯を終えた[3]

二七山不動院と東郷平八郎の関係

[編集]

明治二十七年日清戦争勃発の際、平八郎の武運長久を祈願し二七不動尊にお百度参りをしたというその後の明治三十七年日露戦争勃発、元帥の巧みな戦略により実質的な勝利をおさめ日本が世界に知れ渡ったといえる。実は日露戦争勃発の翌年、勝利のきっかけになった五月二十七日は元帥の妻のテツのお百度参りの満願の日だったという。後にそのことを聞いた元帥は自宅で育てていた楓の木を自らの手で二七不動堂に植え、ご縁日には直々に参拝をしていた。

東郷平八郎は、二七不動尊の近くに逝去するまで住んでいた。1923年(大正12年)の9月に二七不動堂は関東大震災によって焼失した。しかし、御本尊である不動明王は救出され別の場所に移された。東郷邸の隣家やあたり一面は焼け野原になっていたが、東郷邸だけが難を逃れた。このことを不思議に思い御本尊を表正面玄関に奉祀したという。

明治十五年に品川区から移り住み死去されるまでは住み続けた元帥邸宅跡地は今は東郷元帥記念公園となっていますが、毎年五月三日に行われる二七不動火渡り修行の場にもなっていたところも元帥と二七不動の深い関わりだろう[4]

燈籠

[編集]

二七不動の境内には「キリシタン燈籠」が置かれている。

この「キリシタン燈籠」は江戸時代の厳しい禁教政策の弾圧の中で、地蔵信仰に擬して、燈籠の竿部にマリア像を刻み、いわゆる「カクレキリシタン」として信仰された礼拝物である。

キリシタン燈籠は都内では数少ない遺物であるだけでなく、江戸城に近く、有力な大名や旗本の屋敷が並ぶところであった千代田区番町・九段地区で、このような遺物が見つかったということはとても珍しいことである[5]

またそれとは別に、西国の人々が維新後、旗本屋敷を取り上げた際に何であるか知らないまま「織部燈籠」として持ち込まれ、庭内を飾ったのではないかという説もある。

これらは番町のある住宅の改修の際に出土したものであり、出土当時は墓石と間違われ供養のため二七不動に持ち込まれた。しかしその住宅の居住者は何度も移り変わっているため、未解決な部分が多く明確な答は得られていない[6]

参考文献

[編集]
  1. ^ 二七山不動院”. 2023年6月24日閲覧。
  2. ^ 『わが町あれこれ』千代田区富士見地区町連合会、148-149頁。 
  3. ^ 『偉人天才を語る:書簡点描』実業之日本社、79-82頁。 
  4. ^ 『二七山不動院 縁起と略歴』九段・二七山不動院。 
  5. ^ 『わが町あれこれ』千代田区富士見地区町連合会、150頁。 
  6. ^ 『二七山不動院 縁起と略歴』九段・二七山不動院。