利用者:Murakami akira, hokkaido/essais moraliste
私論: モラリストの視点とウィキペディアのルールを、どうやって整合させるか
[編集]一昨年までは、路線バスに乗る中高生たちがギャーギャー騒いで、私もつられて噴き出して運転に集中出来ないくらいでした。あいつらは本当に可愛いものです。ルームミラー越しに「もうあちら側には戻れない」と羨ましく眺めたものです。自分に子供がいたらこんな感じなのかなと、ふと思いました。
現在では、全員マスクを着けてお葬式のように静まり返っています。「二度と還らぬ青春時代」を真っ黒に塗りつぶされて、です。私にはその光景が「児童虐待」に見えました[1]。今年9月7日に大阪で基礎疾患など複数の重症化リスクを持った10代後半の男性が死亡するまで、日本では子供はコロナで一人も死んでいないのに、どうしてこんなことをするのか理解が出来ませんでした[2]。少年少女期にこんな体験をしてしまったら、大人になったらあいつらにどれだけのダメージが残るのかと想像して、涙が出そうになりました。
認識論的には、私は「『主観も感情も排除した完全なる客観』など、厳密にはこの世に存在しない」という流派に属します[3][4][5][6][7][8][注釈 1] 。そして、見え見えの底意を誤魔化して「公正中立なふり」をしても、常識人には一瞬で見破られる上に見苦しい(というか読みにくい)だけです[注釈 2]。そこで、私の基本的な考え方や根本的な感情は洗いざらい説明しておきました。その際私から見て怖いのは、大卒のインテリ君よりも、学歴は無くてもまともに日常生活を送っている常識人の視点です[11][12]。
この「私論」では、モラリストとして、私がどのような人間なのか、どのような日常生活を送っているのか、どのような人々と共に生きているのか、どのような感情を持っているのか、洗いざらい書きました。ちなみにここで言うモラリストとは道徳家のことではありません。人間の日常を洞察する、どちらかと言うと悪徳漢のスタンスです[13]。
あと、falsifiability(反証可能性)は学問のルールとして絶対に外す訳には行かないので、最大限の注意を払うことをお約束します[14]。当たり前です。
「歴史は繰り返す」と言いますが、現代の日本で起こっている問題は、どうせ忘れた頃にまた起こります。特に、思想家の故 西部邁氏が遺した「メディアクラシー」(情報媒体による支配)の研究は、記事にして遺しておかないと絶対にマズいと考えます。私の目的は、大局的には、100年後に残る記事を書き、「古典」すなわち「人類の叡智」[注釈 3]とすることです。そのためには、「Wikipedia:方針とガイドライン」を遵守するのが最も理に適っていると判断しました。ウィキペディアンは、百科事典の編纂者のプライドに賭けて、ルールを遵守しなければなりません。そこには毎回のように、人間としての葛藤がありますが・・・ どのみちルールに抵触して即刻削除される記事が、100年後に残るわけが無いのです。
私はあと40年ほどで死ぬでしょう。あの世で見守ってくれている先生方と答え合わせが出来る日が来るのを、楽しみにしています。(2021年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 小林よしのりは以下のように言及している。
「情報」そのものよりも、情報の分析の基調となるわしの「感情」の方が大事なのだということを、そろそろ諸君らには気付いてほしいものだ。この世の事象を語る知識人や専門家が、案外、分析も予測も誤っていることが、実に多いではないか!
もともと、そういう知識人の権威を疑うところからわしは『ゴー宣』を始めた。知識や情報を膨大に持つ馬鹿に語らせていても世を惑わすだけ! だから専門知識のないわしが「常識」「感情」を根拠に、「ごーまん」ながら語ることにしたのだ!
ところがこの「感情」こそが曲者で、家族や共同体の安定した言葉の交わし合いがなければ、怒るにせよ、悲しむにせよ、喜ぶにせよ、そして物事を分析し、洞察するにせよ、バランスの良い「感情」を維持できないのだ。しかもこの「感情」には、過去から伝達された民族的な「公共性」というものが、内包されていなければならない。
人間は、社会のヨコ軸と歴史のタテ軸の接点に位置付けられて、やっと歴史の叡智を発揮する価値判断ができるようになる。知識や情報は必要だが、それを基に洞察するのは、あくまでも個人の「感情」である。感情にケガレ(気枯れ)がある者は、事象の洞察を誤る。
言うのも馬鹿馬鹿しいが、ネットにおける社交は、社会性も歴史性もない。公共性を宿した言語空間ではない。まともな肉声で社交ができる共同体を持たない者たちは、ネットの住民だろうが、知識人だろうが、「感情」のバランスを欠く。したがって価値判断を誤るしかないないのだ。
わしは、わしの「感情」にケガレを持ちたくない。独立心と道義心を持つ者たちの言葉の共同体を大切にしたい[9]。 - ^ 小林よしのりは「筆者の等身大の人間が見えない文章は、大概嫌われるんだよ」と言及している。学生時代の私が完全にこのパターンで、一時期完全に友達がいなくなったことを白状しておく。読者諸賢には、当時の私を反面教師にしていただきたい[10]。
- ^ 西部邁は欧州諸国の教育法を例に挙げた上で、現代人は古典と歴史を学ぶことでそこに内包されている危機に立ち向かう歴史の叡智を身に着けることを提案している[15]。
出典
[編集]- ^ 『SPA!』2021年7月6日号 小林よしのり ゴーマニズム宣言 第130章「子供の虐待を止めろ!」
- ^ 北海道新聞 2021年9月9日「10代以下 初の感染死」
- ^ 江藤淳『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫 1989 - 1994年 あとがき 368 -369ページ参照。
- ^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 11』小学館文庫 2002 - 2007年 誌上報告「ゴーマニスト・パーティー」62 - 63ページ、西部邁の発言を参照。
- ^ 西部邁『人生の作法』飛鳥新社 2002年
- ^ 外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫 1983 - 1986年
- ^ G.K.チェスタトン著 安西徹雄訳『正統とは何か<新装版>』春秋社 1995年 23ページ参照。「狂人とは理性を失った人ではない。理性以外のあらゆる物を失った人である」と言及している。
- ^ エドムント・フッサール著 細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫 1995年 私は某大の小論文入試でこれを使い、補欠で合格した。
- ^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 14』小学館文庫 2004 - 2008年 第211章「わしの「感情」が判断する主権移譲」
- ^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL「個と公」論』幻冬舎 2000年 310ページ参照。
- ^ 小林よしのり 西部邁『反米という作法』小学館 2002年
- ^ 小林よしのり『ゴーマニズム宣言PREMIUM 修身論』マガジンハウス 2010年 125 - 130ページ参照。
- ^ 小林よしのり『ゴーマニズム宣言 2nd Season 2』扶桑社 2019年 第35宣言「恩師、本を読みなさい」
- ^ 小林康夫 船曳建夫 編『知の技法』東京大学出版会 1994年
- ^ 西部邁『人生読本』ダイヤモンド社 2004年 216 - 219ページ参照。