コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Muneco/下書き6

『MORAL』
BOØWYスタジオ・アルバム
リリース
録音 1981年
スターシップスタジオ
スタジオバードマン
ジャンル ロック
パンク・ロック
ニュー・ウェイヴ
時間
レーベル ビクターInvitation
プロデュース 渡辺モリオ(マライア
チャート最高順位
BOØWY アルバム 年表
MORAL
1982年
INSTANT LOVE
1983年
EANコード
テンプレートを表示

MORAL』(モラル)は、日本のバンドロックバンドであるBOØWYの1枚目のオリジナル・アルバム

1982年3月21日ビクター音楽産業Invitationレーベルからリリースされた。ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST'79」にて決勝を争った2つのバンドにそれぞれ所属していた氷室狂介布袋寅泰を中心に結成されたBOØWYのファーストアルバムであり、作詞は氷室および深沢和明、作曲は氷室および布袋、プロデュースはマライア所属の渡辺モリオが担当している。

レコーディングは1981年に日本国内にて行われ、氷室の旧友であった松井恒松および諸星アツシ、布袋の旧友であった深沢の他に氷室が在籍していたスピニッヂ・パワー所属の木村マモルによって進められたが、後に木村の代わりに新たなドラマーとして高橋まことが参加している。パンク・ロックを思わせる過激な歌詞やサウンドで構成されているが、ニュー・ウェイヴの影響を受けたアレンジが施されている事が特徴。

本作の曲は1曲もシングルカットされていない。また、後に未発表曲を加えた『MORAL+3』(1988年)がリリースされた。

背景

[編集]

1979年、ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST'79」にて、氷室狂介松井恒松らと結成したバンド「デスペナルティ」が関東・甲信越大会にて優勝し、中野サンプラザで開催される全国大会に出場するため上京する[1]。同時期に、楽器店主催のコンテスト「A・ROCK」にて、布袋寅泰が後にBOØWYのマネージャーとなる土屋浩と共に結成したバンド「BLUE FILM」(後に「FLY AWAY」に改名)で優勝し、日本青年館で開催される全国大会に出場するため上京する[2][3]。この当時、氷室と布袋はお互いに面識はあったものの、直接の交流はあまりない状態であった[4]

その後、全国大会にて入賞を果たした氷室は音楽事務所ビーイングと契約[5]1980年にデスペナルティのメンバーと共に氷室は再度上京、レコード会社との間で氷室のソロデビューの話が進む事となった[6]。演奏は全てデスペナルティのメンバーによって行われたが、あまり評判を得られなかった事からプロによる編曲とスタジオミュージシャンによる演奏に差し替えられたがリリースはされなかった[7]。その後バンドとしての活動は中止となり、氷室は事務所の意向により1年間限定という形で既に活動していたバンド「スピニッヂ・パワー」にボーカリストとしての参加を余儀なくされ、また松井は「織田哲郎&9th IMAGE」へ参加する事となった[8]。同年9月5日にスピニッヂ・パワーはシングル「HOT SUMMER RAIN」をリリース、 TBS系歌謡バラエティ番組『11時に歌いましょう』や日本テレビ系歌謡番組『NTV紅白歌のベストテン』(1969年 - 1981年)にテレビ出演を果たすなどプロとしての活動を行っていたが、記録的な冷夏の影響もありヒットに至らなかった。一説では事務所から実力不足であるとの通達を受けた事で「デスペナルティ」としてのバンド活動が休止となったと言われているが、松井はこの件を明確に否定している[7]

その後、スピニッヂ・パワーから脱退し地元である群馬への帰省を考えていた氷室であったが、当時交際していた女性からチケットを渡された事を切っ掛けに、RCサクセション日比谷野外音楽堂公演を観賞する事となった[9]。同公演を観賞して感銘を受けた氷室は、再度自身のバンドを結成する遺志を固め、布袋に連絡する事となった[10]六本木で再会した氷室と布袋であったが、双方の音楽的嗜好が近い事などから意気投合し、布袋も自身のバンドが空中分解し宙ぶらりんの状態であった為にバンド結成に同意、また氷室は布袋を連れてビーイングの事務所へ赴きスピニッヂ・パワーからの脱退と新たなバンドを結成する遺志を事務所社長である長戸大幸に伝えた[11]。長戸は氷室に対しバンド結成の許可を出したが、メンバーは自分で選定するよう要求した。その後、オーディションを行うもメンバーとして相応しい人材が見つからなかったが、かつてのバンド仲間であり「織田哲郎&9th IMAGE」で活動していた松井からバンドへの加入希望の連絡があり参加する事が決定[12]。その後氷室が所属していたスピニッヂ・パワーは解散し、ドラマーであった木村マモルが氷室の元を訪れた際に氷室はバンドへの参加を求め、木村はあくまでプロデューサーとしての参加を主張しながらもドラマーとして参加する事が決定[13]。また布袋の提案によりサックスとして深沢和明、氷室の提案によりギターとして諸星アツシの参加が決定[14]

事務所から自身の計画を音で示すよう指示されていた氷室は、リハーサルを繰り返していた中でデモテープを作成し事務所側に渡す事となった[15]。デモテープは事務所内で評判となり、副社長であった月光恵亮からイギリスのハードロックバンド「ガール英語版」に対抗して「ボーイ」というバンド名を提案される[16]。その際に長戸から「群馬暴威」というバンド名を提案されるもメンバーはこれを拒否、最終的には妥協案として「暴威」と命名される事となった[17]。その後原宿のクロコダイルにて初ライブを行い、数本のライブ実施後にメンバーからバンド名に関する不満が噴出したため改名される事となった[18]。改名に際して月光からデヴィッド・ボウイの「BOWIE」を捩った「BOOWY」が提案され、そのままでは「ブーイ」と読まれてしまうことから「O」を1つ消す意味でスラッシュの入った「Ø」を入れ、改めて「BOØWY」へと変更される事となった[19]

録音、制作

[編集]

当初の曲作りは氷室の自宅にて布袋との2人作業でカセットデッキで行われた[20]。初めに「IMAGE DOWN」が制作され、続けて「NO N.Y.」、[GUERRILLA」、「GIVE IT TO ME」などの曲が制作された[21]。1980年10月中旬には本作収録曲の内、「INTRODUCTION」と「ENDLESS」を除く全曲の作曲が終了していた[22]。リハーサルが進む中で、木村は氷室をプロデュースする視点で活動していたため、布袋の制作する楽曲のスタイルやギターが氷室の歌に合っていないとして氷室に疑問を投げかける事となり、布袋は木村のドラムが布袋の目指す音楽スタイルと合っていないとして、氷室にその事を指摘する事態となった[23]。その後木村はプロデューサーとして様々なレコード会社へ音源を持ち込むも、事務所との連携不足や金銭面の問題で拒否される事がほとんどであった[24]。月光も後年「理解してもらえなくてリリースまでなかなかこぎつけなかった」と述べている[25]。同年の冬に氷室は制作したデモテープを長戸の元へ届け、正式なレコーディングの許可を得る事となった[26]

1981年に入り、スターシップスタジオとスタジオバードマンにてレコーディング作業が開始された。プロデュースは「マライア」で活動していた渡辺モリオが担当した。腕利きのミュージシャンによって結成された フュージョン系のグループであるマライアは、当時ビーイングに所属しておりビーイング系サウンドのスタジオサポートも行っていた。マライアのアルバム『YEN TRICKS』でデビューしていた渡辺は、当時パンク・ロックに傾倒していたため、BOØWYのアルバムプロデュースを任される事となった[25]。音楽に関する技術的な事をBOØWYメンバーが認識できていなかったため、レコーディングは困難を極めた[25]。当時陣内孝則率いる「ザ・ロッカーズ」が寺院で一発録りでレコーディングした事が話題となるなど一発録りが流行していたこともあり、本作も楽曲はほとんどが一発録りで行われ、歌入れも同時に行われた。布袋は後に「アマチュアのミュージシャンがスタジオで練習しているのをそのまま録ったようなアルバム」と評し、「俺もとりあえず初めから最後まで間違えなきゃいいというノリでプレイしていた」と述べている[27]

レコーディングが進むにつれ、木村のドラムと他メンバーとのリズム感の違いが明確となり、木村はドラマーのオーディションを提案[28]。このオーディションによって新たなドラマーとして高橋まことが加入する事となる。高橋はかつてノーランズの前座としてツアーを行っている時に知り合ったギタリストの山田淳から促される形で同年5月11日に新宿ロフトでのBOØWYの初ライブを観賞[29]。その際に連絡先を交換した氷室と高橋であったが後日氷室からスタジオリハーサルへの参加を打診され、「IMAGE DOWN」を演奏する際に高橋が大声でカウントを取った事から松井が笑いだしてベースが弾けなくなる事態となった[30]。しかしリハーサル後に氷室から正式にバンド加入の誘いを受けた高橋はこれを快諾した[31]。本アルバムの大半の曲のドラムは初代ドラマーの木村マモルが叩いており、高橋まことが演奏しているのは「MASS AGE」と「MORAL」の2曲のみとなっている[32]。2曲目に収録されている「IMAGE DOWN」のイントロ等もライブではサックスによるもので、深沢は全曲で演奏しているが、レコーディングでは「MASS AGE」しか演奏していない(コーラスでは多数の曲に参加している)。

音楽性

[編集]

松井は自著『記憶』において、布袋が当初制作していたデモテープではニュー・ウェイヴアート・ロック、パンクなどが混在していたが、バンドのプレイスタイルの基本としてパンクから始めるとの方向性によって本作の音楽性が決定されたと述べている[33]

本作の音楽性について音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』においてライターの根本桃GO!は、パンクおよびニューウェイヴを意識した内容ではあるが「安全」な音になっており、「いまひとつ過激になりきれない、そしてベタにならざるを得ない根っからの大衆性」があると指摘した[34]。また『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』において音楽評論家の市川哲史は本作が氷室の「初期衝動の塊」であると位置付け、当時のヤンキー文化の影響を受けたロックバンドと異なっていた部分は「スタイリッシュな香りが漂っていた点」ではないかと指摘、「NO N.Y.」は「下世話だけどロマンティック」であると述べ、氷室のボーカルは「日本独自の正統派」である艶っぽさを持ち矢沢永吉を思わせると指摘、さらに布袋によるスマートなアレンジはイギリスのニュー・ウェイヴに対する「真摯な愛情」に満ちていると表現した[35]

音楽情報サイト『CDジャーナル』では、サウンドがニュー・ウェイヴ仕様であり後のハイブリッド・ポップの範疇に入る内容であるとした他、氷室と布袋が本作の時点でメロディ重視で楽曲制作していた事を指摘[36]、『ローチケHMV』では、ジャケットに写るメンバーの写真に関して「完全にパンクバンド」とした他、「ギラついたパンクサウンド」であり「過激な歌詞が詰まったパンクサウンドが展開される」と表現した[37]

月光は歌詞に関して、メッセージ性の強さは当時のムーブメントの影響以外にも、スピニッヂ・パワー所属時の氷室の不満が鬱積した結果が言葉に出ていると推測し、また氷室の歌詞は群馬弁も使用されているが「リアリティーがあってそれも面白いんじゃないかって、ほとんど手直しをしなかった」と述べている[27]

リリース、プロモーション

[編集]

パンク・ロック色が強く、歌詞のイメージが汚いとレコード会社側がリリースをためらっていたため、1981年の夏に全てのレコーディングが終了しているにも関わらず、同年に本作はリリースされなかった[38]。高橋の自著『スネア』によれば、「IMAGE DOWN」の歌詞が特に問題視され、様々なレコード会社からリリースを断られたと記されている[32]

当初は日本フォノグラムよりデビューアルバムは発売予定だったが、1982年3月21日ビクター音楽産業Invitationレーベルからようやくリリースされる事となった。リリース時にジャケットの帯に「エアロスミスアナーキーサザンを足して3で割ったバンド」、「ラスト・パンク・ヒーロー」というキャッチコピーが記載され、メンバーが憤慨したというエピソードが語られているが[39]、松井は「そんな宣伝文句、本当にあったとは思えない」、「誰かが言ったことに、枝葉が付いて広まっている」としてこのキャッチコピーの存在を否定している[40]

レコード会社側はBOØWYを当時流行していたパンク・ロックバンドの一つとして売り出そうとしていたが、メンバーは本格的なパンクを目指しているわけではなく、またアルバムがリリースされるまでの半年間で音楽性が変化していたこともあり、精神的に落胆することとなった[41]

氷室は後に自身を含めたメンバーのコンタクトの取り方が悪かった面もあると認めた上で、レコード会社とのコミュニケーションが全く機能していなかったと述べた他、「ラスト・パンク・ヒーロー」というキャッチコピーによって誤解したまま集客された観客に対して責任を取らなければならず、本来であれば氷室も布袋もウルトラヴォックスのような「物憂いマイナー・メロディアス」の方向性を望んでいたため後に音楽性を変更する事になったと述べた[27]

批評

[編集]
専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典評価
音楽誌が書かないJポップ批評18肯定的[34]
音楽誌が書かないJポップ批評43否定的[35]
  • 音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』においての根本は、本作の音楽性や歌詞を「いまひとつ過激になりきれない、そしてベタにならざるを得ない根っからの大衆性」と持っていると述べ、本作のベタな要素は確信犯的ではなく無意識の産物であったとした上で、「BOØWYの凄みは、"ベタ"の臨界点を超え、孤高の世界にまで突き抜けてしまったところにある」と評価した他、「彼らの天賦の資質が、加工されていない生の状態で凝縮されている」として本作を肯定的に評価した[34]
  • 『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』において市川は、「NO N.Y.」に関して「下世話だけどロマンティックな世界観」、氷室のボーカルに関して「『日本独自の正統派』ボーカルの艶っぽさ」、布袋のアレンジに関しては「英国ニューウェイヴへの『真摯な愛情』に満ちたスマートなアレンジ」と述べた上で、全てが日本のパンク・ロック史上初であり「決して粗野なだけではない『文系』感を持った」作品であったと好意的に評価した一方で、本作の完成度に関しては「あまりに幼すぎた、青かった」として否定的な評価を下した[35]

チャート成績

[編集]

リリース当初は音楽ランキングなどのチャートには一切ランクインせず、本作は全く売れなかったと布袋は自著『秘密』にて述べている[42]。また初回プレスは数千枚であり、そのほとんどが後に返品されたとも述べている[42]


収録曲

[編集]

一覧

[編集]

全編曲: 布袋寅泰

SIDE 1
#タイトル作詞作曲時間
1.INTRODUCTION(イントロダクション) 布袋寅泰
2.IMAGE DOWN(イメージ・ダウン)氷室狂介布袋寅泰
3.SCHOOL OUT(スクール・アウト)氷室狂介氷室狂介
4.ÉLITE(エリート)氷室狂介氷室狂介
5.GIVE IT TO ME(ギヴ・イット・トゥー・ミー)氷室狂介氷室狂介
6.NO N.Y.(ノー・ニューヨーク)深沢和明布袋寅泰
合計時間:
SIDE 2
#タイトル作詞作曲時間
7.MASS AGE(マス・エージ)氷室狂介布袋寅泰
8.WATCH YOUR BOY(ワッチ・ユア・ボーイ)深沢和明布袋寅泰
9.RATS(ラッツ)氷室狂介氷室狂介
10.MORAL(モラル)氷室狂介氷室狂介
11.GUERRILLA(ゲリラ)BOØWY布袋寅泰
12.ON MY BEAT(オン・マイ・ビート)氷室狂介布袋寅泰
13.ENDLESS(エンドレス)MOONLIGHT布袋寅泰
合計時間:

曲解説

[編集]
  1. INTRODUCTION(イントロダクション)
    インストゥルメンタル曲。布袋の意向により、最後に作られた曲[43]
  2. IMAGE DOWN(イメージ・ダウン)
    詳細は「IMAGE DOWN」の項を参照。
  3. SCHOOL OUT
    タイトル通り、退学を示唆する楽曲。当時、ライブハウスなどで実際に退学を報告に来た若者がおり、疑問を感じた氷室が一時期ライブでの演奏を封印していた事もある。
  4. ÉLITE(エリート)
  5. GIVE IT TO ME(ギヴ・イット・トゥー・ミー)
    原題は「PLEASE TELL ME」。アマチュア時代に演奏していた「男の言い草」がモチーフ。ライブでの氷室による曲前のMCは「かわいい女の子に贈ります」。また、初期のライブでは早急とも言えるテンポの8ビートにアレンジされ、アルバムのように演奏される事は少なかった。8ビートですらなくなった最終アレンジ版は、3枚目のシングル「わがままジュリエット」(1986年)のB面に収録されている。1986年頃までセットリストに残った。
  6. NO N.Y.(ノー・ニューヨーク)
    詳細は「NO. NEW YORK」の項を参照。
  7. MASS AGE(マス・エージ)
    タイトルはスペルが違うので「メッセージ」ではなく、「マスターベーション・エイジ」の意味[44]
  8. WATCH YOUR BOY(ワッチ・ユア・ボーイ)
    当時起きた金属バットによる両親殺害事件をテーマにした曲。
  9. RATS(ラッツ)
    洋楽のバンド、ブームタウン・ラッツの影響を受けて作られた曲。中期まではセットリストに残った。
  10. MORAL(モラル)
    人間の二面性をテーマにした曲。氷室の同級生であった山田かまちの死を元に作られた歌詞であると言われる。
  11. GUERRILLA(ゲリラ)
    サラリーマンに対するアンチテーゼを表した曲。途中に布袋の「僕、今けっこう幸せだな」というMCが挿入されている。もう一つのMC「夕べ、徹マンでまだ眠いんだがね」は松井によるもの。1986年頃までセットリストに残った。
  12. ON MY BEAT(オン・マイ・ビート)
    BOØWYの信条を表した曲。ライブにおいても「BOØWYの歴史に欠かせない曲」とMCで言われている。コブクロによるカバーがアルバム『ALL COVERS BEST』(2010年)に収録されている。
  13. ENDLESS(エンドレス)
    作詞にクレジットされている「MOONLIGHT」とは、当時のスタッフであった月光恵亮のことであり、氷室からの依頼により歌詞の内容を英語に訳詞した[44]。英詞の意味は、「いくつの列車を乗り継いで、旅を続けなければいけないのだろう」という意味。

スタッフ・クレジット

[編集]

BOØWY

[編集]

スタッフ

[編集]
  • 月光恵亮 & MOONSHINE PROJECT - アートディレクション
  • 月光恵亮 - デザイン
  • 居坂和典 - 写真撮影
  • TAMA CHAN - メイクアップ
  • 木村マモル - スペシャル・サンクス
  • ELK. - スペシャル・サンクス

リリース履歴

[編集]
No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
1 1982年3月21日 ビクターInvitation LP VIH-28076 -
2 1985年9月5日 ビクター/Invitation LP VIH-6077 -
3 1986年2月5日 ビクター/Invitation CD VDR-1149 -
4 1989年2月21日 ビクター/Invitation CD
CT
VDR-5281
VCF-1617
2位
5 1990年4月21日 ビクター/Invitation CD VICL-2011 88位
6 1991年12月24日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6390 2位 CD-BOXBOØWY COMPLETE LIMITED EDITION』収録
7 1993年3月3日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6390 3位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE REQUIRED EDITION』収録
8 2002年3月29日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-24790 14位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION』収録
デジタルリマスター
9 2004年9月22日 ビクター/Invitation CD VICL-41147 - デジタルリマスター盤
10 2007年12月24日 ビクター/Invitation CD VICL-62670 - デジタルリマスター盤 、紙ジャケット仕様、LP盤のレーベルを再現
11 2012年12月24日 ビクター/Invitation SHM-CD VICL-70099 92位
12 2017年3月8日 ビクター/Invitation CD VICL-64747 - K2HD PROマスタリング、紙ジャケット仕様、完全生産限定盤

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 松井の自著『記憶』によれば当初はベース担当であったが、松井の加入によりサックスに転向したと記載されている。

出典

[編集]
  1. ^ 紺待人 1986, p. 69- 「ACT1 氷室京介」より
  2. ^ 紺待人 1986, p. 199- 「ACT4 布袋寅泰」より
  3. ^ 「ライナーノーツ」『BOØWY COMPLETE』、東芝EMI、1991年。
  4. ^ 紺待人 1986, p. 68- 「ACT1 氷室京介」より
  5. ^ 紺待人 1986, p. 70- 「ACT1 氷室京介」より
  6. ^ 松井常松 2009, p. 42- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  7. ^ a b 松井常松 2009, p. 44- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  8. ^ 紺待人 1986, p. 71- 「ACT1 氷室京介」より
  9. ^ 紺待人 1986, pp. 209–210- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  10. ^ 紺待人 1986, pp. 215–216- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  11. ^ 紺待人 1986, p. 223- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  12. ^ 紺待人 1986, p. 246- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  13. ^ 紺待人 1986, p. 252- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  14. ^ 紺待人 1986, p. 259- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  15. ^ 布袋寅泰 2006, p. 108- 「第二楽章 東京」より
  16. ^ 鈴木大介 「LINER NOTES」 『complete of T-BOLAN at the BEING studio』、B-Gram RECORDS、2002年。
  17. ^ 布袋寅泰 2006, pp. 108–109- 「第二楽章 東京」より
  18. ^ 布袋寅泰 2006, p. 109- 「第二楽章 東京」より
  19. ^ B to Y 2004, p. 116- 「HISTORY」より
  20. ^ 紺待人 1986, p. 226- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  21. ^ 紺待人 1986, pp. 227–231- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  22. ^ 紺待人 1986, p. 234- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  23. ^ 紺待人, 1986 & pp255 - 256- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  24. ^ 紺待人 1986, p. 262- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  25. ^ a b c B to Y 2004, p. 117- 「HISTORY」より
  26. ^ 紺待人 1986, pp. 267–268- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  27. ^ a b c B to Y 2004, p. 119- 「HISTORY」より
  28. ^ 紺待人 1986, p. 271- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  29. ^ 高橋まこと 2017, p. 105- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  30. ^ 高橋まこと 2017, pp. 108–109- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  31. ^ 高橋まこと 2017, pp. 110–111- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  32. ^ a b 高橋まこと 2017, p. 131- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  33. ^ 松井常松 2009, pp. 52–53- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  34. ^ a b c 別冊宝島 2002, p. 110- 「アルバムひとくちレビュー 『BOØWY COMPLETE』をコンプリートに聴く」より
  35. ^ a b c 別冊宝島 2006, pp. 92–93- 「アルバム・レヴュー 1st Album『MORAL』(1982)」より
  36. ^ BOφWY / モラル [SHM-CD]”. CDジャーナル. 音楽出版. 2017年1月8日閲覧。
  37. ^ MORAL : BOOWY”. ローチケHMV. ローソンHMVエンタテイメント. 2017年1月8日閲覧。
  38. ^ RENDEZ-VOUS 1989, p. 164- 「ALL OF ALL」より
  39. ^ 高橋まこと 2017, p. 132- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  40. ^ 松井常松 2009, p. 57- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  41. ^ RENDEZ-VOUS 1989, p. 166- 「ALL OF ALL」より
  42. ^ a b 布袋寅泰 2006, p. 111- 「第二楽章 東京」より
  43. ^ B to Y 2004, p. 67- 「WORKS」より
  44. ^ a b B to Y 2004, p. 68- 「WORKS」より

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]