利用者:McYata/プロイセン十字軍2
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プロイセン十字軍 (英語: Prussian Crusade ドイツ語: Preußenfahrt リトアニア語: Kryžiaus žygiai į Prūsiją) は、ドイツ騎士団を中心としたカトリック勢力が13世紀を通じて行った、異教徒のプルーセン人(古プロイセン人)に対する征服・改宗活動。ポーランド人の諸侯がプロイセンに遠征し失敗したのを受け、1230年代にドイツ騎士団がこのバルト人勢力に対する戦争を始めた。13世紀が終わるまでに、数度のプルーセン蜂起を鎮圧したドイツ騎士団は、プロイセンを完全に支配下におさめドイツ騎士団国が成立した。
初期の宣教と紛争
[編集]ヘーゼビューのウルフスタンは、海運や牛の放牧で暮らすプルーセン人を、強力な独立勢力として記録している[1]。ポリャーネ族のミェシュコ1世は、オーデル川河口域を征服したのち、さらにプロイセン方面へ領土を拡大しようとした[2]。彼の息子のボレスワフ1世はさらに大幅に領土を拡大し、997年にプラハのアダルベルトをプロイセンに派遣したが、彼ら宣教師は異教徒に殺されてしまった。アダルベルトの後にクヴェーアフルトのブルーノもプロイセンに入り、若干の成功を収めたものの、結局彼も1009年に殺害された[3]。軍事的には、ボレスワフ1世は次々と周辺地域を併合し、1015年にはプロイセンの大部分を荒廃させた。
これ以降も、ポーランド人は隣接するプルーセン人、ヤトヴャグ族、ヴェンド人と2世紀にわたる闘争をつづけた[4][5][6]。ポーランド人がプロイセンの征服と人々の改宗を目的としていたのに対し、プルーセン人は奴隷を獲得して売り飛ばし利益を上げるためにヘウムノ地方やマゾフシェへの攻撃を繰り返した[7]。抗争の過程で多くのプルーセン人が洗礼を受け入れたが、敵対関係が解けて危機を脱するとすぐにもとの異教信仰に戻ってしまった。1166年にはサンドミェシュ公ヘンリクがプルーセン人との争いの中で戦死した[8]。ボレスワフ4世はプロイセン遠征をおこなったが、プルーセン人のゲリラ戦術の前に敗れた。その弟カジミェシュ2世も遠征をおこない、プルーセン人との間に和平を結んだ。これはカジミェシュ2世が死去する1194年まで保たれた[9]。キリスト教国の中では、ポーランドのみならずデンマーク王国もバルト地方に領土野心を抱いていた。ヴァルデマー2世は1219年にエストニアを征服し、サンビア半島(現在はカリーニングラード半島とも)へも遠征したが、1223年にシュヴェリーン伯ハインリヒに捕らえられ、デンマークのバルト地方進出は中断した。
1206年、シトー会の聖職者オリヴァのフリスティアンが、デンマーク王やポーランドの諸侯の支援を受けて、戦争で荒廃したヘウムノに拠点を創った。彼は一旦ローマに行って大規模な宣教の準備を整え、1215年にヘウムノに戻った。しかし、この時プルーセン人は彼に対し敵対的な態度をとっていた。それはリヴォニアで勢力を拡大していたリヴォニア帯剣騎士団の暴虐[10]や、ポーランド人の遠征に対する恐れ[11]によるものだった。異教徒のプルーセン人はヘウムノやマゾフシェ、ポメレリアに侵攻し[12]、ヘウムノやルバヴァを包囲して、かつての異教信仰に戻るよう強制した[13]
異教徒の攻撃が激しさを増してきたのを受け[14]、教皇ホノリウス3世は1217年3月にフリスティアンに教皇勅書を送り、彼にプロイセンへの軍事的な十字軍を伴った宣教を行う許可を与えた。翌1218年、異教徒がヘウムノやマゾフシェを再び襲い、300もの聖堂や教会を略奪した[15]。マゾフシェ公コンラト1世は莫大な貢納金を積んでプロイセン人を引き返させたが、これは彼らに自信をつけさせることにしかならなかった[15]。
1222/23年の十字軍
[編集]ホノリウス3世は、オリヴァのフリスティアンを指導者とする十字軍を発動し、グニェズノ大司教ヴィンツェントィ1世ニャウェクを教皇使節に任命した。ドイツ人やポーランド人の十字軍戦士たちは1219年からマゾフシェで兵員や物資を集め始めたが、この地は度重なる襲撃を受けて荒廃していたため、十字軍の出発は遅れ、1222年にポーランド大公・シロンスク公ヘンリク2世やヴロツワフ大司教ラウレンティウス、レブスのラウレンティウスなどが加わってようやく遠征が始まった。多くのポーランド貴族が、フリスティアンのプロイセン司教区にヘウムノ地方の土地や城を寄進した。十字軍諸侯は、まずヘウムノ地方の防備を立て直すことにした。特にヘウムノ市では、城塞がほとんどすべて建て直された[16]。しかし1223年までに十字軍戦士の大部分がヘウムノから帰ってしまい、またバルト人が再びヘウムノ地方やマゾフシェに侵攻し、コンラト1世がプウォツクの城に逃げ込む事態になった。この時、バルト人はポメレリアのグダンスク(ダンツィヒ)にまで達した[17]。
1225年[18]もしくは1228年[19]、14名の北ドイツ騎士がコンラト1世とフリスティアンに雇われ、騎士修道会を設立した。 彼らはまずクヤフスキ地方のツェドリッツの領地、次いでドブジン城を与えられ、ドブジン(ドブリン)騎士団と呼ばれるようになった[20]。彼らは当初はプルーセン人をヘウムノ地方から追い払うのに成功したものの、まもなく反撃を受けてほとんどの騎士が戦死し、残存者はポメラニアのシフィエントペウク2世に保護された。カラトラバ騎士団もグダンスク付近に拠点を置いたが、あまり成功しなかった。
ドイツ騎士団の誘致
[編集]フリスティアンはローマに赴いた際、ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァに接触していた。1226年、フリスティアンはマゾフシェ公コンラト1世やマゾフシェ貴族の了解のもと、ドイツ騎士団に対プルーセン人戦争への助力を求めた。コンラト1世としては、マゾフシェを安定させることで自身がポーランド大公位を得られるという目論見があった[21]。ヘルマンはポーランドからの要請に興味を示したが、この時彼の意識は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世率いる第5回十字軍に向かっていた。ただ、ドイツ騎士団はトランシルヴァニアに有していた領土ブルツェンラントを1225年にハンガリー王に没収されたばかりで、権威を回復する場を欲してもいた。
ヘルマンはリミニでフリードリヒ2世に会い、プルーセン人を服属させられれば神聖ローマ帝国の国境を侵略者から防衛しやすくなると説いた[22]。フリードリヒ2世は1226年のリミニの金印勅書において、ヘルマンの計画を承認し、クルメアラント(ヘウムノ地方)および将来の征服地の領有を認めた。プルーセン人の改宗については従来通りオリヴァのフリスティアンの任務とされた[23]。
征服事業を始める前の1230年6月16日、、ドイツ騎士団はコンラト1世とクルシュヴィツァ条約を結び、リミニの金印勅書で肯定が定めた領土に関する取り決めを再確認した。この条約は現在文書が失われ、その内容について議論が続いている。多くのポーランドの歴史家たちが、条約とドイツ騎士団の領土主張の正当性に疑念を投げかけてきたが、最近のポーランドの歴史家は逆にその正統性を確立している[24]。コンラト1世にとっては、ヘウムノ地方は単にプルーセン人に対する一時的な拠点に過ぎず、また将来の征服地もマゾフシェ公の権威のもとに置かれると考えていた。一方ヘルマンは、教皇や皇帝への忠誠はさておいて、自分たちの独立した領土保有が認められたと解釈していた[25]。1234年に教皇グレゴリウス9世が発したリエティの教皇勅書では、騎士団が征服した領土はただ聖座のもとにのみ置かれるものであることを再確認した。
14世紀の年代記者ペーター・フォン・ドゥスブルクは、プロイセンの11部族について言及している。すなわち、バルティア、クルメアラント、ガリンディア、ナドロヴィア、ナタンギア、ポゲサニア、ポメサニア、サンビア、スカロヴィア、スドヴィア、エルムラントである。ペーターの推定によれば、これらの部族はそれぞれ2000騎ほどの騎兵を召集できた。その中でサンビアとスドヴィアは群を抜いていて、前者は4000騎の騎兵と4万人の歩兵、後者は6000騎の騎兵と「ほとんど数えきれない数の戦士」を擁していた[26]。それに対し、戦争で荒廃したクルメアラントは他と比べ僅かな兵力しか集められなかった。池と川、荒野と森に覆われたガリンディアも、人口や兵力は小規模だった。現代の歴史家の推計はペーターのものより少なく、実際のプルーセン人の総人口は17万人ほどだったと考えている。
初期のドイツ騎士団の活動
[編集]1230年にクルメアラントの請求権を得ると[27]、ヘルマンはコンラート・フォン・ランズベルク[28]を使節として[29]7人の騎士と、70人から100人の兵士から成る小規模な部隊をつけて[30]マゾフシェに先遣した。彼らはコンラト1世が建設したフォーゲルザング(鳥の歌)城に拠点を構えた。ここは後にトルンが対岸に建設される場所であった。他の文献によれば、1229年に2人の騎士がフォーゲルザングを建設したが、間もなくプルーセン人に殺されたという[31]。このヴィスワ川南岸の地域はキリスト教徒と異教徒の住民が混在していて、比較的安定していた。コンラート・フォン・ランズベルクは、ヴィスワ川を越えて異教徒の土地に侵攻する小規模な襲撃を行った。1230年中にフォーゲルザング城が完成したのち、ヘルマン・バルク率いる20人の騎士と200人の兵士から成る援軍が到着した。総長ヘルマン・フォン・ザルツァはウトラメールやアルメニアでの軍事活動に重点を置いており、これ以上プロイセン方面に軍を割くことはできなかった。
これ以前のポーランド人の遠征は主に東方のプロイセンの荒野を標的としていたが、ドイツ騎士団はむしろ西方へ進み、ヴィスワ川沿いに砦を建設していく方針をとった。彼らは西方のキリスト教世界から十字軍戦士がやってくるたびに毎年遠征をおこなった。初期のプロイセン十字軍は、主にポーランド人、ドイツ人、ポメラニア人からなり、as well as some Prussian militiamen auxiliaries. The Polish and Pomerellian dukes proved essential through their providing of troops and bases. Most of the secular crusaders would return to their homes after the end of the campaigns, leaving the monastic Teutonic Knights the task of consolidating the gains and garrisoning the newly built forts, most of which were small and made of timber.[32] ポーランドのSome secular Polish knights were granted vacant territories, especially in Culmerland, although most of the conquered territory was retained by the Teutonic Order. Colonists from the Holy Roman Empire began to immigrate eastward, allowing the foundation of a new town each year, many of which were granted Kulm law.[33]
十字軍の最初の標的は、ペピンという男が率いるポメサニア人だった。The crusaders began campaigning against the neighboring Pomesanians and their leader Pepin. Advancing from Nessau (Nieszawa) with the aid of Conrad of Masovia, Balk took control of ruins at modern Toruń and advanced toward the pagan-occupied Rogów. A local Prussian captain defected and handed that castle to the crusaders, who then destroyed the Prussian fort of Quercz or Gurske. The defecting captain then tricked Pipin into being captured by the Knights, ending Prussian resistance in the Culmerland.[34] By 1232, the Knights had established or rebuilt fortresses at Culm (Chełmno) and Thorn. Pope Gregory IX called for reinforcements, which included 5,000 veterans under the leadership of the Burgrave of Magdeburg.[35]
1233年夏、騎士団は1万人の軍勢を率いて遠征をおこない[36]、 and established a fortress at Marienwerder (Kwidzyn) in Pomesania. The Pomerellian dukes Swantopelk and Sambor supported a smaller army for an invasion of Pogesania during the winter of 1233-34. After a close battle, the pagan Pogesanians were routed on the frozen Sirgune River by the arrival of the ducal cavalry, and the battlefield was subsequently known as the "Field of the Dead".[37] The building of a fortress at Rehden (Radzyń Chełmiński) stabilized the eastern Culmerland in 1234.[38]
プロイセン司教オリヴァのフリスティアンは征服地の3分の2の領有を主張し、残りをドイツ騎士団に与えようとした。。The bishop of Prussia, Christian of Oliva, claimed two-thirds of conquered territory, granting one-third to the Teutonic Order. The papal legate William of Modena mediated between the two sides, granting the Knights two-thirds but reserving extra rights for the bishop. The Teutonic Knights also sought the incorporation of the small Order of Dobrzyń into the larger Teutonic Order. Conrad of Masovia was furious with this proposal and demanded the return of the Dobrzyń Land, which the Knights were reluctant to do; Duke Conrad subsequently refused to aid the crusaders any further.[39] With the approval of the pope and the bishop of Płock, the Teutonic Knights assimilated the Order of Dobrzyń in a bull on April 19, 1235; the displeased Conrad of Masovia had the castle of Dobrzyń returned to him. In 1237 the Teutonic Knights assimilated the Sword-Brothers or Livonian Order, a military order active in Livonia, after they were nearly wiped out by Lithuanians in the Battle of Saule.
1236年、マイセン辺境伯ハインリヒ3世の援助を受けた十字軍はヴィスワ川の両岸から北上し、ポメサニア人の大部分を服属させた。翌1237年の遠征の際にはハインリヒ3世は参加しなかったものの、マイセン辺境伯としては2隻の大きな川舟を出して、プルーセン人の小舟を撃破した。トルソのプルーセン人の集落の近くにWith the support of Henry III, Margrave of Meissen, in 1236, the crusaders advanced north along both banks of the Vistula and forced the submission of most Pomesanians. Although Henry did not participate in the 1237 campaign against the Pogesanians, the margrave supplied the Order with two large river-boats which defeated the smaller craft used by the Prussian tribes. Near the Prussian settlement of Truso, Elbing (Elbląg) was founded with colonists from Lübeck, while Christburg (Dzierzgoń) protected the land east of Marienwerder.
1238年から1240年にかけて、ドイツ騎士団はヴァルミア、ナタンギア、ヴァルミアを攻撃した。しかしホネイダのヴァルミア人の砦を包囲していた小部隊が逆襲を受けて壊滅した[40]ため、マルシャルのディートリヒ・フォン・バーハイムがより大勢の軍勢を率いてホネイダにやってきた。ヴァルミア人の指揮官Kodruneが降伏・改宗の意思を見せるとホネイダの守備兵が彼を殺したが、結局この砦はディートリヒによって陥落した [41]。 The fort on the Vistula Lagoon was renamed Balga and rebuilt in 1239 to protect the Order's territory in Ermeland. A Prussian counterattack to reclaim the fort failed, and the local Prussian leader Piopso was killed.[42] Seasonal reinforcements led by Otto I, Duke of Brunswick-Lüneburg, consolidated Teutonic control over Natangia and Bartia.
第一次プロイセン蜂起
[編集]快進撃を続けるドイツ騎士団だったが、1542年に第一次プロイセン蜂起が勃発したことで足止めを受けた。ドイツ騎士団の急速な勢力拡大を危険視したポメレリアのシフィエントペウク2世が、自身もキリスト教徒でありながら、ドイツ騎士団に征服されたプルーセン人と手を組んで十字軍に対する反乱を扇動したのである。対するドイツ騎士団側は、この時参加していた十字軍戦士が少なく、後ろ盾のポーランド諸侯も内紛を起こしていたために助けを求めることができず、兵力の上では劣勢を強いられた。
また十字軍の騎兵やクロスボウ兵が慣れない森林がちの地勢に悩まされる一方で、この地を熟知しているプルーセン人はより小規模で機動力のある部隊をつくって十字軍を苦しめた。プルーセン人やポメレリア人はドイツ騎士団の砦の大半を奪い、1244年のレンゼンの戦いでは騎士団を破ったが、騎士団の息の根を止めるための攻城能力が欠如していた。While the Prussian and Pomerellian troops captured the majority of the Order's castles and defeated the Knights at Rensen in 1244, they lacked the siege capabilities to finish the Knights off. The Germans used their politics and diplomacy to divide Swantopelk from the Prussians. The Poles sought the Pomerellian prince's territory along the Vistula, while the papal legate, the future Pope Urban IV, wanted the Christians to direct their energies against pagans instead of each other. Swantopelk ceased aiding the Prussians in 1248, while most of the latter agreed to peace in the Treaty of Christburg in February 1249. The treaty granted civil liberties and considerable autonomy to native converts to Christianity. While the majority of tribes followed the terms of the treaty, intermittent fighting continued until 1253, with the Natangians even defeating the Order at Krücken in November 1249.
サンビア
[編集]1250年代に西部のプルーセン人を服属させた後、北や東へ勢力を拡大しようとしたドイツ騎士団は、サンビアで多くの人口を有していたサンビア人と衝突した。騎士団の指揮官ハインリヒ・シュタンゴ・フォン・クリシュトブルクは、1252年にヴィスワ・ラグーンを横断し、異教徒の聖地ロムヴァを攻撃しようとしたが、サンビア人に敗れ、シュタンゴは戦死した[43]。教皇と騎士団新総長ポッポ・フォン・オシュテルナは、巻き返しを図るために対サンビア人十字軍の結成を説き始めた。1253年、ポッポと地区司令官のディートリヒ・フォン・グリューニゲン、それにマイセン辺境伯はガリンディア人の反乱を鎮圧したが、十分な懲罰を加えることができなかった。あまり圧力を強めると、彼らがポーランド人のもとに逃れてしまう恐れがあったためである[44]。教皇インノケンティウス4世はドミニコ会の僧に十字軍を触れ回らせ、騎士団もハンガリー、ボヘミア、その他神聖ローマ帝国の諸侯に援助を求める使節を派遣した。ドイツ騎士団が十字軍の結集を待っている間に、リヴォニア騎士団はメーメルを建設し、 With the rebellious tribes pacified, Pope Innocent IV directed Dominican monks to preach the crusade, and the Order sent embassies to the Kings of Hungary, Bohemia, and the princes of the Holy Roman Empire. While the Order waited for the crusaders to arrive in Prussia, the Livonian branch founded Memel (Klaipėda) along the Curonian Lagoon to prevent the Samogitians from assisting the Sambians.
Later campaigns
[編集]バルティア、ナタンギア、ヴァルミアはキリスト教に改宗したが、東方のスドヴィア(ヤドヴァグ族)とリトアニアは異教信仰を守り、ドイツ騎士団との抗争を続けていた。プロイセン蜂起の際、スカルマンタス率いるヤドヴァグ族がバルティアのLed by Skalmantas during the Great Uprising, the Sudovians sacked Bartenstein (Bartoszyce) in Bartia, which was to be the focal point of their borders. Defenseless against the Sudovians, the Natangians and Bartians allied with the Teutonic Knights for protection, although little assistance could be provided initially. The Christian Natangians clans gathered in 1274 and killed 2,000 of the Sudovian raiders; Grand Master Anno von Sangerhausen recruited Thuringians and Meisseners to complete the Teutonic recovery of Natangia.[45]
その後、ドイツ騎士団はThe Teutonic Knights then used Nadrovia and Memel as bases against Scalovia on the lower Memel River. Scalovia would then serve as a base against pagan Samogitia, which separated Teutonic Prussia from Teutonic Livonia. Because of this threat, the Lithuanians provided assistance to the pagan Scalovians, and the crusaders and pagans each engaged in border raids to distract enemy forces. Because the pagans were strongly defended in the wilderness, the Teutonic Knights focused on travelling up the Memel River toward the strong pagan fort Ragnit. Theodoric of Samland led 1,000 men in the assault. Artillery fire forced the defenders from the ramparts, allowing the crusaders to storm the walls with ladders and slaughter most of the pagans. Theodoric also captured Romige on the other bank of the Memel. The Scalovians retaliated by sacking Labiau near Königsberg. Conrad von Thierberg escalated the conflict by sending a large raid against Scalovia. Nicholas von Jeroschin documented the crusaders as killing and capturing numerous pagans. When the Scalovian warriors went in pursuit of the captured pagans, Conrad shattered the would-be rescuers in an ambush which killed the pagan leader, Steinegele. Most Scalovian nobles quickly surrendered to the Knights in the battle's aftermath.[46]
1283年夏、コンラート・フォン・ティアーベルクがプロイセンの長に任じられ、 Conrad von Thierberg the Younger was named Provincial Master of Prussia and led a large army into Sudovia, finding little resistance. The Knight Ludwig von Liebenzell, who had once been a captive of the Sudovians, negotiated the surrender of 1,600 Sudovians and their leader Katingerde, who were subsequently resettled in Samland. Most of the remaining Sudovians were redistributed to Pogesania and Samland; Skalmantas was pardoned and allowed to settle at Balga. Sudovia was left unpopulated, becoming a border wilderness that protected Prussia, Masovia, and Volhynia from the Lithuanians.[47] The Prussians rebelled in short-lived uprisings in 1286 and 1295, but the crusaders firmly controlled the Prussian tribes by the end of the 13th century.
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- Fahne, Anton (1875) (ドイツ語). Livland: Ein Beitrag zur Kirchen- und Sitten-Geschichte. Düsseldorf: Schaub'sche Buchhandlung. p. 240. ISBN 0-14-019501-7
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- Halecki, Oskar (1970). A History of Poland. New York: Roy Publishers. p. 366. ISBN 0-679-51087-7
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- Wyatt, Walter James (1876). The History of Prussia, Volume 1. London: Longmans, Green and Co.. p. 506
- Livonian Crusade
- Wendish Crusade
- Prussian Uprisings
脚注
[編集]- ^ Christiansen, p. 38
- ^ Gieysztor, p. 50
- ^ Wyatt, pp. 22-23
- ^ Wyatt, p. 24
- ^ Gieysztor, p. 77
- ^ Recent Issues in Polish Historiography of the Crusades Archived 2007-11-28 at the Wayback Machine. Darius von Güttner Sporzyński. 2005
- ^ Urban, p. 50
- ^ Gieysztor, p. 69
- ^ Wyatt, p. 29
- ^ Wyatt, p. 47
- ^ Urban, p. 51
- ^ Gieysztor, p. 94
- ^ Wyatt, p. 32
- ^ Gieysztor, p. 93
- ^ a b Wyatt, p. 33
- ^ Wyatt, p. 34
- ^ Wyatt, p. 39
- ^ McClintock, p. 720
- ^ Perlbach, p. 61
- ^ Wyatt, p. 36
- ^ Christiansen, p. 82
- ^ Wyatt, p. 81
- ^ Christiansen, p. 83
- ^ Dariusz Sikorski, 'Neue Erkenntnisse ueber das Kruschwitzer Privileg' in Zeitschrift für Ostmitteleuropa-Forschung, 51 (2002), p. 317-350
- ^ Halecki, p. 35
- ^ Urban, p. 43
- ^ Due to a clerical mistake by Peter von Dusburg, the arrival of the Teutonic Knights has sometimes been given as 1226; see Töppen, pp. 276-79. Töppen states von Landsberg arrived in Masovia in 1230, while Fahne states von Landsberg arrived ca. 1228; see Fahne, p. 50
- ^ Fahne, p. 50
- ^ Töppen, p. 276
- ^ Urban, p. 52
- ^ Seward, p. 101
- ^ Christiansen, p. 106
- ^ Urban, p. 57
- ^ Wyatt, pp. 92-93
- ^ Wyatt, p. 95
- ^ Urban, p. 56
- ^ Wyatt, p. 99
- ^ Christiansen, p. 105
- ^ Wyatt, p. 101
- ^ Wyatt, p. 143
- ^ Wyatt, p. 151
- ^ Wyatt, p. 152
- ^ Wyatt, pp. 203-204
- ^ Wyatt, pp. 209-210
- ^ Urban, p. 63
- ^ Urban, p. 67
- ^ Urban, p. 78
参考文献
[編集]関連項目
[編集][[Category:ポーランドの戦争]] [[Category:ドイツ騎士団の戦争]]