ヴァルデマー2世 (デンマーク王)
ヴァルデマー2世 Valdemar 2. | |
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デンマーク国王 | |
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在位 | 1202年 - 1241年 |
出生 |
1170年6月28日 デンマーク、リーベ |
死去 |
1241年3月28日(70歳没) デンマーク、ボアディングボー城 |
埋葬 | デンマーク、リングステズ、聖ベント教会 |
配偶者 | ダウマー・ア・ブーメン |
ベレンガリア・デ・ポルトゥガル | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エストリズセン家 |
王朝 | エストリズセン朝 |
父親 | ヴァルデマー1世 |
母親 | ソフィヤ・ウラジミロヴナ |
ヴァルデマー2世(Valdemar II, 1170年 - 1241年3月28日)は、デンマーク王(在位:1202年 - 1241年)。ヴァルデマー1世(大王)の次男で、クヌーズ4世の弟。エストニア征服など一時はバルト海南部を制覇したが、晩年に多くの領土を失った。勝利王(デンマーク語:Valdemar Sejr, 英語:Valdemar the Victorious)あるいは征服王(英語:Valdemar the Conqueror)と称される。
生涯
[編集]1182年に父が死去すると、兄のクヌーズ4世がデンマーク王位を継いだ。1202年の兄の没後、当時スレースヴィ(シュレースヴィヒ)公であったヴァルデマーが、デンマーク王ヴァルデマー2世として即位した。
治世前半は好調で、北ドイツに勢力を伸ばしつつ、1219年にはエストニアの征服を果たし、バルト海南部における覇権を握った。しかし、当時バルト海沿岸への勢力拡大を図っていたドイツ勢力は、こうしたデンマークの台頭を望まなかった[1]。
1223年、シュヴェリーン伯ハインリヒ1世によって、ヴァルデマー2世と長男のヴァルデマー若王は誘拐され、3年にわたって幽閉される[2]。ヴァルデマー2世は解放の条件として多くの領土喪失を受け入れるとともに、ハンザ同盟に対して広範な商業特権を認めざるを得なかった[1]。残された海外領土は、ドイツ北東部に位置するリューゲン島とエストニアを残すのみとなった[1]。解放されたヴァルデマー2世は、失地回復を図って北ドイツを攻めるも、多大な兵の犠牲を招いたのみであった。
1241年、70歳で死去した。長男のヴァルデマーに先立たれていたので、次男エーリク4世が王位を継いだ。
デンマーク国旗をめぐる物語
[編集]デンマークの国旗については、以下のような物語が残されている。
1219年のエストニアとの戦争に際して、赤地に白い十字を描いた旗が舞い降りた。その旗を掲げればデンマークは勝利するという神のお告げに従い、デンマークはエストニアに勝利した[3]。
しかしながら、実際にデンマーク国旗のデザインが確認されるのは、14世紀半ばにおけるヴァルデマー4世の時代である[4]。
子女
[編集]1205年、ボヘミア王オタカル1世の娘ダウマー(マルケータ)と結婚、2人の子を儲けた。
- ヴァルデマー若王(1209年 - 1231年) - デンマーク共治王(1215年 - 1231年)、レオノール・デ・ポルトゥガルと結婚。
- 息子(1212年)
1214年、ポルトガル王サンシュ1世の娘ベレンガリアと再婚、4人の子を儲けた。
- エーリク4世(1216年 - 1250年)
- ソフィア(1217年 - 1247年) - ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世と結婚
- アーベル(1218年 - 1252年)
- クリストファ1世(1219年 - 1259年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 百瀬宏 他『世界各国史21 北欧史』山川出版社、60-61頁。
- 武田龍夫『物語 北欧の歴史』中央公論社、1993年。
- “Valdemar Sejr, 1170-1241”. danmarkshistorien.dk (30 May 2012). 2023年1月8日閲覧。
- Petersen, Leif Inge Ree (2010). "Battle of Bornhöved". In Rogers, Clifford J. (ed.). The Oxford Encyclopedia of Medieval Warfare and Military Technology. Vol. 1. Oxford University Press.
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