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利用者:Mahopa/下書き2

開発教授法(かいはつきょうじゅほう、文献により「開発主義」、「開発教授」、「開発主義教授法」とも)は、明治時代初期にお雇い外国人文部省派遣留学生が日本に伝えたアメリカのペスタロッチ主義の教育理論を由来とする教授法。同じ時期に導入された一斉教授法や日本古来の儒教思想、明治政府の強兵政策に適合したため、ペスタロッチの理念とは乖離した内容に改変されていった。日本の教員養成に一定の成果を挙げたものの、明治20年代後半ヘルバルト派の教授論に取って代わられ教授法としては後退した。

概要

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開発教授法は、ペスタロッチ主義開発主義の教育思想の受容過程を論じた文脈と、日本における体系的な教授法の導入を論じた文脈とで、それぞれ異なる事象から説明されている。

1872年(明治5年)日本で初めての教員養成機関として師範学校が設立され、唯一の外国人教授としてアメリカ人教育者スコットが就任した。スコットは母国で学んだ一斉教授法実物教授を師範生に伝え、文部省はスコットの実物教授を問答科と命名して師範学校附属小学校の教則に取り入れた。ここで導入された実物教授が開発主義受容の端緒となる。しかし教則の作成のために文部省が原典としたアメリカの教育書では既にペスタロッチ主義の要素が大幅に削減されており、さらに問答科の設置にあたって実物教授を解釈した日本側の論理そのものも伝統的な儒教思想の域を出ないものだった。その結果師範学校で伝えられた実物教授は子どもの能力の開発を目的とする教育から乖離し、完全に形骸化した注入教育となっていた。

歴史

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師範学校とスコット

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1871年(明治4年)8月に来日し、南校で英学を教えていたスコットは、翌年9月師範学校開校とともに同校唯一の外国人教師に着任。板敷きの教場を造り、教科書と教具を母国から取り寄せ、自身が学んだ一斉教授法と実物教授を日本に伝えた。一斉教授法は一人の教師が一定数の生徒に対し、同一の内容を同時に教授する方法で、19世紀の欧米では産業革命と近代国民教育の普及とともに定着していた。当時「庶物指教」と訳された実物教授(object lessons)は、子どもを取り巻く事物を子ども自身の感覚によって理解させるペスタロッチの直観教授の思想に基く教授法で、アメリカではオスウィーゴー師範学校(State Normal and Training School at Oswego)を中心にオスウィーゴー運動として展開されていた。

スコットの新しい教授法は、さまざまな年齢の子どもが集まる寺子屋で、年長者が年少者の面倒を見ながら与えられた課題を自習し、疑問が生じたときに師匠に教えを請う方法や、古典の素読や暗誦、講釈を記憶中心に学んだ藩校での学習法とも異なっていた。文部省は西洋に倣った教育を早急に全国に広めるため、師範学校を通じて様々な施策を推し進めていく。

まず初めに必要とされたのが練習学校の付設だった。当初師範生たちは子どもに見立てられ、教場を小学校と想定して新しい教授法を学んでいた。しかし五十音の復唱といった退屈な授業内容が続くと、程なくして壮年の師範生たちの反発を招き、やがてスコットが伝える教授法の研究にも支障を来たした。そこで開校から3ヶ月後の1872年(明治5年)12月、師範学校は教科書編成局を設置し、小学校教科書の翻訳と図書の編纂、また教則や学科課程、教授法の研究を始めた。1873年(明治6年)1月には師範学校附属小学校を設立。さらにその翌月『下等小学教則』を創定した。

下等小学教則と問答科

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師範学校開校から半年弱で創定された『下等小学教則』は、師範学校でのスコットの教授法を反映しているとされ研究が進められている。その特徴は教科としての「問答科」の設置にある。

1872年(明治5年)9月、学制発布直後に文部省は『小学教則』を布達した。既に学制によって小学校は下等小学と上等小学に分けられていたが、『小学教則』では各学校をそれぞれ8級に段階付けし、級あたり6ヶ月の修学期間、1週あたり30時間の修業時間を設定。教科では自然科学と数学が重視され、初めて設けられた道徳教育の教科にあたる修身口授(「ギョウギノサトシ」と読みが当てられた)では西欧倫理書の翻訳翻案書を用いた。『小学教則』は西欧の近代的自然観と市民道徳の教育による国民の啓蒙を明確に志向していたが、教材の水準が高く、各地の実情に合わせ弾力的に活用すべきものとして布達されたため、一般にはあまり実施されなかったとされる。

こうした状況で現れたのが師範学校の『下等小学教則』だった。

『下等小学教則』の原典は「サンフランシスコ市郡公立学校規則」("Rules and Regulations of the Public Schools of the City and County of San Francisco",1871)中の小学教則と、「フィラデルフィア小学教則」("Granded Course of Instruction","Report of the Committee on Revision of Studies, with the Granded Course of Instruction",Philadelphia,1868)とされる。

狭義には1878年(明治11年)春にアメリカ留学から帰国した伊沢修二高嶺秀夫が、同年10月東京師範学校校長補および校長補心得に任命され、アメリカのペスタロッチ主義に基づいて、1879年(明治12年)2月に学科課程を改革したことに端を発する。同校では1883年(明治16年)8月から9月にかけて2度目の改革が実施され、各地方師範学校の学科課程面での規範となった。高嶺の指導を受けた若林虎三郎白井毅は、1883年(明治16年)6月に『改正教授術』を出版。開発主義教授法に基づく具体的な指導例を各教科ごとに示し、その普及に大きな役割を果たした。また高嶺は1885年(明治18年)2月から翌年11月にかけてジョホノットJames Johonnot)著の"Principles and Practice of Teaching" 1878 を『教育新論』として翻訳出版。1886年(明治19年)7月に発布された文部省訓令第七号では、文部省が指定した尋常師範学校教育科用教科書にこれらの教授法書が含まれた。


脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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外部リンク

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